昨日に続いて、出演者・スタッフ・お客様に向けた記事が続く。ブログ仲間の皆さんには暫くご容赦。斜め読みを・・・・
昨日より、さらに、長いのだった・・・・
ピンと背筋が伸びる当日がやってきた。
大道具・小道具、設営された会場の最終の化粧、心を込めパンフが並び、半券代わりのペンダントが並べられる。
会場までの道路には「あかんべ山会場→」の看板が電柱に括り付けられ、「あかんべ山コンサート」「歌わずにいられない」の真っ赤な旗が風にはためいた。
調理室では女たちが、供すべき愛情を器に注ぎ、お客さんに振舞うジャガイモが湯気を上げている。
ステージではリハーサルが行なわれ、あかんべ山の音が調整されてゆく。
三々五々弁当を食べる姿が、当日を物語っていた。
準備はすべて整った。足りないのはお客さんだけだった・・・・
そのお客さん・・出足が早い。開場は12時。既にその10分前には、かなり長い列が出来ていた。
音響の関口氏は僕と共にこのコンサートを最初に作った1人だ。すでに30年・30回、その30回にすべて関わってきたのは2人だけとなっていた。
館林に「和太鼓」を持ち込み、グループを作り、今も活動を続けている。
その彼・・・裏方だが、今回はお客様に「芸」でお礼したいと「鬼剣舞」を舞った。
この嗜好は一部の人間にしか知らせては居なかった。
「悪魔を踏み鎮め、場の気を整える」その舞に込められた祈りの如く、会場は一瞬にしてステージに釘付けになった。たいしたもんである。
コンサートは1984年に石垣りんさんの「地方」という詩に出会う。
その詩・・・まるでコンサートの精神のようで、僕らはすっかり気に入って、パンフレットに掲げて、今も続く。10回のコンサートには、まるで夢のように、コンサートに石垣さんはやって来て詩を読んでくれた。その詩、29回出演のロストのユッコが清楚な朗読を行い、拍手が沸く。
そして、いよいよ音楽。
館林太鼓達和会が、見事な獅子舞や太鼓を聴かせ、1部が進んでいったのだった。
(僕はこの後、会の広報なので、2つの取材など受け、必ず1つの演目は聴いたが、写真など手が回らず、写せなかったグループなどあるのが、残念であった)
2番手は空とぶこんぺいとう。隣町のグループで、大学の歌声サークルの面持ちで、続いている。あかんべ山では、スタンダードなフォークを歌うので、お客さんも良く一緒に歌う。
そして、写真・さのっこ・・・・・・・・。
歌いたくてストリートに立ち、それも昨年300回を区切りに、歌の場を他に求めて活躍している。最若手の初々しさはそのままに、大人への変化もうれしい。
ちょっと不遜かもしれないが、あかんべ山で育った気がする。僕ら年寄りを拒絶せず、そこから学びたいと、あかんべ山を大事にしてくれた。
このあと、コンフントクラカケス!
南米のフォーク「フォルクローレ」で、完成度の高いパフォーマンスで魅了している。
自己主張が強いチームなのだが、その主張、耳を傾けるに価値有るもので、委員会も論議を交わす。それで、鍛えられてゆく。主張の引き時も心得、あかんべ山を守り続けた1つの力であった。
リーダーの半田君が、終わるあかんべ山の名残を惜しみつつ「親離れしろ!ってことですよね。その答えは僕ら自身がこれから出さなければなりません」と語って、ステージを終えた。
そうなのだ・・・皆、どのグループも、自分で歌う場を作り・お客さんを呼び寄せる力があるのだ。1つのコンサートは余韻の中にある。皆が、歌をやめなければ、また集う機会もあろう。「歌うことをやめるな!」「お前が歌わず、誰が歌う!」と僕は、今だから吼えたいと思っている。
半田君は、最後に今はグループを脱退している仲間を客席に見つけ、ステージに上がれと促す。30年の間には、止める者、加入する者と人の移動もある。リーダーとは、そんな人間関係を必死に支え続ける存在でもある。促され、ステージに上がり、一緒に歌った元メンバーも天晴れ!
1部最後は、ゴスペルの「ソウル・ジョイ」だ。昨日記事で、グループへの感想など書いたが、メンバーも少しずつ増え、勢いのあるグループである。きっと5年前は、軽い気持ちであかんべ山に立ったに違いない。それがまあ、しっかりあかんべ山を愛して、嬉しい限りである。
****************
休憩・お茶や蒸かしたジャガイモの、あかんべ山のシーンが休憩を豊かにして、第二部が始まった。
2部は「ユキとチエ」!
若いのである。僕の子供でも可笑しくない彼女達が、パフォーマンスで客を魅了するのだから、「何か持ってる」のである。
2部2番手。
あかんべ山にブルーグラスあり!しかも、極上のブルーグラスなのだ(上の写真のグループである)。
この筋では、ちった~有名な、アリソン・クラウスのナンバーも板について、快演。
こちらのリーダー若田部氏はマンドリンの名手。ミスした場面を僕は1度も見たことが無いが、今回は初めて、イントロのミスを聴いた。きっと、最後のあかんべ山の緊張なんだな・・と、僕は思った。
そしてウッドランド。彼らもまた、30年の集大成のように、過去の彼らの名曲から選りすぐりでステージを繰り広げた。選曲の妙に唸った。
「ありがとう!あかんべ山!」と長谷川氏の叫びに、客席は拍手で応える。
そして笠木透と雑花塾!
さすがだ。前日のインタビューのような、酒を酌み交わしながらの懇談で、あかんべ山について笠木さんの思うところのあかんべ山を掴み、お客さんに語りながら、あかんべ山に関わるすべての人に、メッセージを発信し、うなずかせる。
長い語りなのに、内容に圧倒され、長さを感じない。
その歌は、聴くものの体を、熱しながら突き抜ける。
幸徳秋水没後100年。このあかんべ山の地は、田中正造が戦った地である。
その田中正造が天皇に出した「直訴状」は幸徳秋水か書いたのだ。
彼の作った「新曲」はそれを扱った曲なのだが、ちゃんとあかんべ山とその地に合わせて選曲するあたり、まったく彼らしくてすごいや!と、思ったのだった。
そして、我が館林ロストシティーランブラーズ。
リハーサルでは、ボーカルは見事に破綻をきたしていた。その破綻を本番では何とかカバーし、まあ、今の実力なりであった・・・
お客さんにも、関わった皆さんにもお礼が出来て幸せだった。
このグループあっての、僕の音楽人生なのだ。ありがとう!ロストなのだ。
最後の曲を終え、未練をステージに残さないようきっぱり去ろうと思っていた。
どうだろう?全く知らされていなかった・・・・
メンバーから、贈り物をされるやら、ベーベーが花束など抱えて僕に向かってくるやら、まずい状態が起こっているではないか!涙腺は意志の力では操作できないのか?
この余談は、後日記す。20回辺りで、ロストを去った、Sベーベーからの花束、その感触は一生忘れられないだろう。
不覚のまま、袖に入る。アンコール(もらえるグループではないが、最後のコンサートなのであるかもしれないとは、覚悟していた)の手拍子が響く。
前日のリハで、笠木さんから、「最後のステージはどう描いている?」と質問があり「淡々と終わるつもり・・」と答えた。
すかさず「それはいかん!最後は出演者皆で、何か1曲やって盛り上がって終わるべきだ!」と・・・すこし悩んだが「それでは、私に人生と言える物があるならで終わります」となった・・・
当日、主だったグループや全体打ち合わせで、その旨伝え、現場施工のフィナーレだ。
前日のロストのリハが終わってすぐ、ユキちゃんがやってきて「歌をうたってる(僕が詞を書き、ディランのメロを拝借)、は、やらないのですか?やってほしい!」と言われた。
そんなこともあって、アンコールはまずロストで、「歌をうたってる」を歌う。
その後、例の曲を、「皆ステージへ!」と呼びかけ、フィナーレが始まった。
やられた!
まったく、やられたと、思った。
笠木氏がコールし、ステージで歌が始まる。楽器も、徐々に沢山加わって賑やかしくなる。この名曲を知る人は、驚くほど多い。あかんべ山の様なフォーク中心のコンサートなら、お客さんの多くは知っている。
いつしか、ステージ・客席と大合唱になってゆく。僕は、もう不覚になるまいと必死よ。
曲の間に、突然笠木氏が話し出す。
「このコンサートは終わってしまうんだが、誰も終わってしまうと思って居ない!」
「僕はね・・かなり前からツブク君と会っているんですよ。で、誰かに似ていると思っていたが思い出せない」
「そしてね、昨日思い出したんですよ。江戸時代に会ってる!」
「べろだしチョンマ!」
「べろだしチョンマはね~~・・・」と一くさり、説明をして・・・
「そうだ!皆で最後にあかんべ~をしよう!」
「今から、練習するよ!あっかんべ~~」(客席からは大きなあっかんべ~が響く)
「これでもう、集まるのは止めるのかい?(あっかんべ~)」
「もう皆で、歌うことを止めるのか?(あっかんべ~)」
「もう、人を信ずるのは止めるのか?(あっかんべ~)」
笠木氏がこうして、お客さんに語りかけながらも、ステージでは、「私に人生」の演奏が続いている。
とんでもない盛り上がりや、今までどこでも経験したことの無い一体感が、1つの小屋の中に充満し、はちきれそうだった。
やられた!と、すべての人に、頭を下げたい思いだった。
最後に司会の金子君が、お礼とあかんべ山の終りを告げる。
感極まり、涙が溢れ、言葉にならない。
客席から「がんばれ~」と盛んに声がかかる。
あらゆることが、「惜しまれて、そしてコンサートに終止符が打てる」そんな高みを作ってくれた。そう、思った。
会場を後にするお客さんに、出口で挨拶をして、自分の荷物をまとめる頃には、すっかり会場はバラシが終わって、残ったすべての関係者が、3本締めで終了。
会場を、ずっとコンサートを支援してくれた「茶房・万里」に移し、打ち上げが行なわれた。
皆、あかんべ山にお礼の様な感想を漏らしつつ、別れが少しつらい打ち上げだったか・・
「皆が、歌い続けていないと、また、集えない!」祈り・吼えた。
我が家に移って「打ち上げ2次会」が始まった。
大きな物を、あかんべ山から貰ったような、溢れるものを持て余すかのように、皆上気しているようだった。
酒も進む・当然「歌」はてんこ盛りだった。
幸せってのは、こんなことを言うのだなと、思った。
1つのコンサートは、終止符を打った。
このコンサートから、引き算をして、新しいコンサートが生まれても、それは「あかんべ山コンサート」では無いだろう。
精神
精神は、生きている。
あの小屋から放たれた、魂のような空気は何だった?
貴方が言葉にした、心の塊は何だ?
貴方の心の中で、脈打つ、ほっこり温かいものは何?
会えば、同じ時代を、共に生きたと手を握り合うに違いない
懐かしく、やさしくなれそうな
仲間という人間と、貴方の間にあるものは何だ?
それは、「あかんべ山の精神」だと、僕は思うな。
だからさ、「歌うことを止めるな!」「街に出よう!ギターに弦を張って!」
あかんべ山の精神を抱いて、僕らが音楽を発信しないで、どうするのだ!
貴方の歌を聞きたい人は沢山いるのだ。
地方 石垣りん
私のふるさとは
地方、という所にあった。
私の暮らしは
首都の片隅にある。
ふるさとの人は山に木を植えた。
木は四十年も五十年もかかって
やっと用材になった。
成人してから自分で植えたのでは
一生の間に合わない
そういうものを植えて置いた。
いつも次の世代のために
短い命の申し送りのように。
もし現在の私のちからの中に
少しでも周囲の役に立つものがあるとすれば
それは私の植えた苗ではない。
ちいさな杉林
ちいさな檜林
地方には
自然と共に成り立つ生業があったけれど
首都には売り買いの市場があるばかり。
市場ばかりが繁栄する。
人間のふるさとは
地方、という美しい所にあった。
昨日より、さらに、長いのだった・・・・
ピンと背筋が伸びる当日がやってきた。
大道具・小道具、設営された会場の最終の化粧、心を込めパンフが並び、半券代わりのペンダントが並べられる。
会場までの道路には「あかんべ山会場→」の看板が電柱に括り付けられ、「あかんべ山コンサート」「歌わずにいられない」の真っ赤な旗が風にはためいた。
調理室では女たちが、供すべき愛情を器に注ぎ、お客さんに振舞うジャガイモが湯気を上げている。
ステージではリハーサルが行なわれ、あかんべ山の音が調整されてゆく。
三々五々弁当を食べる姿が、当日を物語っていた。
準備はすべて整った。足りないのはお客さんだけだった・・・・
そのお客さん・・出足が早い。開場は12時。既にその10分前には、かなり長い列が出来ていた。
音響の関口氏は僕と共にこのコンサートを最初に作った1人だ。すでに30年・30回、その30回にすべて関わってきたのは2人だけとなっていた。
館林に「和太鼓」を持ち込み、グループを作り、今も活動を続けている。
その彼・・・裏方だが、今回はお客様に「芸」でお礼したいと「鬼剣舞」を舞った。
この嗜好は一部の人間にしか知らせては居なかった。
「悪魔を踏み鎮め、場の気を整える」その舞に込められた祈りの如く、会場は一瞬にしてステージに釘付けになった。たいしたもんである。
コンサートは1984年に石垣りんさんの「地方」という詩に出会う。
その詩・・・まるでコンサートの精神のようで、僕らはすっかり気に入って、パンフレットに掲げて、今も続く。10回のコンサートには、まるで夢のように、コンサートに石垣さんはやって来て詩を読んでくれた。その詩、29回出演のロストのユッコが清楚な朗読を行い、拍手が沸く。
そして、いよいよ音楽。
館林太鼓達和会が、見事な獅子舞や太鼓を聴かせ、1部が進んでいったのだった。
(僕はこの後、会の広報なので、2つの取材など受け、必ず1つの演目は聴いたが、写真など手が回らず、写せなかったグループなどあるのが、残念であった)
2番手は空とぶこんぺいとう。隣町のグループで、大学の歌声サークルの面持ちで、続いている。あかんべ山では、スタンダードなフォークを歌うので、お客さんも良く一緒に歌う。
そして、写真・さのっこ・・・・・・・・。
歌いたくてストリートに立ち、それも昨年300回を区切りに、歌の場を他に求めて活躍している。最若手の初々しさはそのままに、大人への変化もうれしい。
ちょっと不遜かもしれないが、あかんべ山で育った気がする。僕ら年寄りを拒絶せず、そこから学びたいと、あかんべ山を大事にしてくれた。
このあと、コンフントクラカケス!
南米のフォーク「フォルクローレ」で、完成度の高いパフォーマンスで魅了している。
自己主張が強いチームなのだが、その主張、耳を傾けるに価値有るもので、委員会も論議を交わす。それで、鍛えられてゆく。主張の引き時も心得、あかんべ山を守り続けた1つの力であった。
リーダーの半田君が、終わるあかんべ山の名残を惜しみつつ「親離れしろ!ってことですよね。その答えは僕ら自身がこれから出さなければなりません」と語って、ステージを終えた。
そうなのだ・・・皆、どのグループも、自分で歌う場を作り・お客さんを呼び寄せる力があるのだ。1つのコンサートは余韻の中にある。皆が、歌をやめなければ、また集う機会もあろう。「歌うことをやめるな!」「お前が歌わず、誰が歌う!」と僕は、今だから吼えたいと思っている。
半田君は、最後に今はグループを脱退している仲間を客席に見つけ、ステージに上がれと促す。30年の間には、止める者、加入する者と人の移動もある。リーダーとは、そんな人間関係を必死に支え続ける存在でもある。促され、ステージに上がり、一緒に歌った元メンバーも天晴れ!
1部最後は、ゴスペルの「ソウル・ジョイ」だ。昨日記事で、グループへの感想など書いたが、メンバーも少しずつ増え、勢いのあるグループである。きっと5年前は、軽い気持ちであかんべ山に立ったに違いない。それがまあ、しっかりあかんべ山を愛して、嬉しい限りである。
****************
休憩・お茶や蒸かしたジャガイモの、あかんべ山のシーンが休憩を豊かにして、第二部が始まった。
2部は「ユキとチエ」!
若いのである。僕の子供でも可笑しくない彼女達が、パフォーマンスで客を魅了するのだから、「何か持ってる」のである。
2部2番手。
あかんべ山にブルーグラスあり!しかも、極上のブルーグラスなのだ(上の写真のグループである)。
この筋では、ちった~有名な、アリソン・クラウスのナンバーも板について、快演。
こちらのリーダー若田部氏はマンドリンの名手。ミスした場面を僕は1度も見たことが無いが、今回は初めて、イントロのミスを聴いた。きっと、最後のあかんべ山の緊張なんだな・・と、僕は思った。
そしてウッドランド。彼らもまた、30年の集大成のように、過去の彼らの名曲から選りすぐりでステージを繰り広げた。選曲の妙に唸った。
「ありがとう!あかんべ山!」と長谷川氏の叫びに、客席は拍手で応える。
そして笠木透と雑花塾!
さすがだ。前日のインタビューのような、酒を酌み交わしながらの懇談で、あかんべ山について笠木さんの思うところのあかんべ山を掴み、お客さんに語りながら、あかんべ山に関わるすべての人に、メッセージを発信し、うなずかせる。
長い語りなのに、内容に圧倒され、長さを感じない。
その歌は、聴くものの体を、熱しながら突き抜ける。
幸徳秋水没後100年。このあかんべ山の地は、田中正造が戦った地である。
その田中正造が天皇に出した「直訴状」は幸徳秋水か書いたのだ。
彼の作った「新曲」はそれを扱った曲なのだが、ちゃんとあかんべ山とその地に合わせて選曲するあたり、まったく彼らしくてすごいや!と、思ったのだった。
そして、我が館林ロストシティーランブラーズ。
リハーサルでは、ボーカルは見事に破綻をきたしていた。その破綻を本番では何とかカバーし、まあ、今の実力なりであった・・・
お客さんにも、関わった皆さんにもお礼が出来て幸せだった。
このグループあっての、僕の音楽人生なのだ。ありがとう!ロストなのだ。
最後の曲を終え、未練をステージに残さないようきっぱり去ろうと思っていた。
どうだろう?全く知らされていなかった・・・・
メンバーから、贈り物をされるやら、ベーベーが花束など抱えて僕に向かってくるやら、まずい状態が起こっているではないか!涙腺は意志の力では操作できないのか?
この余談は、後日記す。20回辺りで、ロストを去った、Sベーベーからの花束、その感触は一生忘れられないだろう。
不覚のまま、袖に入る。アンコール(もらえるグループではないが、最後のコンサートなのであるかもしれないとは、覚悟していた)の手拍子が響く。
前日のリハで、笠木さんから、「最後のステージはどう描いている?」と質問があり「淡々と終わるつもり・・」と答えた。
すかさず「それはいかん!最後は出演者皆で、何か1曲やって盛り上がって終わるべきだ!」と・・・すこし悩んだが「それでは、私に人生と言える物があるならで終わります」となった・・・
当日、主だったグループや全体打ち合わせで、その旨伝え、現場施工のフィナーレだ。
前日のロストのリハが終わってすぐ、ユキちゃんがやってきて「歌をうたってる(僕が詞を書き、ディランのメロを拝借)、は、やらないのですか?やってほしい!」と言われた。
そんなこともあって、アンコールはまずロストで、「歌をうたってる」を歌う。
その後、例の曲を、「皆ステージへ!」と呼びかけ、フィナーレが始まった。
やられた!
まったく、やられたと、思った。
笠木氏がコールし、ステージで歌が始まる。楽器も、徐々に沢山加わって賑やかしくなる。この名曲を知る人は、驚くほど多い。あかんべ山の様なフォーク中心のコンサートなら、お客さんの多くは知っている。
いつしか、ステージ・客席と大合唱になってゆく。僕は、もう不覚になるまいと必死よ。
曲の間に、突然笠木氏が話し出す。
「このコンサートは終わってしまうんだが、誰も終わってしまうと思って居ない!」
「僕はね・・かなり前からツブク君と会っているんですよ。で、誰かに似ていると思っていたが思い出せない」
「そしてね、昨日思い出したんですよ。江戸時代に会ってる!」
「べろだしチョンマ!」
「べろだしチョンマはね~~・・・」と一くさり、説明をして・・・
「そうだ!皆で最後にあかんべ~をしよう!」
「今から、練習するよ!あっかんべ~~」(客席からは大きなあっかんべ~が響く)
「これでもう、集まるのは止めるのかい?(あっかんべ~)」
「もう皆で、歌うことを止めるのか?(あっかんべ~)」
「もう、人を信ずるのは止めるのか?(あっかんべ~)」
笠木氏がこうして、お客さんに語りかけながらも、ステージでは、「私に人生」の演奏が続いている。
とんでもない盛り上がりや、今までどこでも経験したことの無い一体感が、1つの小屋の中に充満し、はちきれそうだった。
やられた!と、すべての人に、頭を下げたい思いだった。
最後に司会の金子君が、お礼とあかんべ山の終りを告げる。
感極まり、涙が溢れ、言葉にならない。
客席から「がんばれ~」と盛んに声がかかる。
あらゆることが、「惜しまれて、そしてコンサートに終止符が打てる」そんな高みを作ってくれた。そう、思った。
会場を後にするお客さんに、出口で挨拶をして、自分の荷物をまとめる頃には、すっかり会場はバラシが終わって、残ったすべての関係者が、3本締めで終了。
会場を、ずっとコンサートを支援してくれた「茶房・万里」に移し、打ち上げが行なわれた。
皆、あかんべ山にお礼の様な感想を漏らしつつ、別れが少しつらい打ち上げだったか・・
「皆が、歌い続けていないと、また、集えない!」祈り・吼えた。
我が家に移って「打ち上げ2次会」が始まった。
大きな物を、あかんべ山から貰ったような、溢れるものを持て余すかのように、皆上気しているようだった。
酒も進む・当然「歌」はてんこ盛りだった。
幸せってのは、こんなことを言うのだなと、思った。
1つのコンサートは、終止符を打った。
このコンサートから、引き算をして、新しいコンサートが生まれても、それは「あかんべ山コンサート」では無いだろう。
精神
精神は、生きている。
あの小屋から放たれた、魂のような空気は何だった?
貴方が言葉にした、心の塊は何だ?
貴方の心の中で、脈打つ、ほっこり温かいものは何?
会えば、同じ時代を、共に生きたと手を握り合うに違いない
懐かしく、やさしくなれそうな
仲間という人間と、貴方の間にあるものは何だ?
それは、「あかんべ山の精神」だと、僕は思うな。
だからさ、「歌うことを止めるな!」「街に出よう!ギターに弦を張って!」
あかんべ山の精神を抱いて、僕らが音楽を発信しないで、どうするのだ!
貴方の歌を聞きたい人は沢山いるのだ。
地方 石垣りん
私のふるさとは
地方、という所にあった。
私の暮らしは
首都の片隅にある。
ふるさとの人は山に木を植えた。
木は四十年も五十年もかかって
やっと用材になった。
成人してから自分で植えたのでは
一生の間に合わない
そういうものを植えて置いた。
いつも次の世代のために
短い命の申し送りのように。
もし現在の私のちからの中に
少しでも周囲の役に立つものがあるとすれば
それは私の植えた苗ではない。
ちいさな杉林
ちいさな檜林
地方には
自然と共に成り立つ生業があったけれど
首都には売り買いの市場があるばかり。
市場ばかりが繁栄する。
人間のふるさとは
地方、という美しい所にあった。