入院当日、正確には17日の昼、サチコから電話があった。
「あんた、病院は今日じゃったよね?」
前日とは打って変わり、明るくハツラツとした声だ。
そうよ、サチコは昔から
機嫌や調子が猫の目のように目まぐるしく変わるのが特徴なのさ。
前日の弱々しい様子であれば、うまくすると任意入院になって
実子マーヤの許可は、書類送付による事後承諾で済むと思っていた。
が、今日は無理じゃな…私は残念に思った。
1時間後、私はサチコを迎えに行った。
泥棒にされて以降、家の鍵はサチコに返したことになっているので
私は玄関のチャイムを押して待つ。
スペアキーは返したが、メインキーは持ったままだ。
しかしサチコは返したと思っているので、持ってないフリをする。
老人は出てくるのが遅い。
サチコは特に遅い。
訪問者が私だと、なおさら遅い。
外で長いこと待つのを前提に、タオルを持って来たが
幸いにも雨が降り始め、風も吹いていたため
汗だくにならずに済んだのは幸運であった。
「帰りに郵便局へ寄るけんね。
通帳の磁気がダメになっとるそうなけん、作り直さんといけん」
本日はしっかりモードのサチコ、すんなり車に乗り込むと
病院までの道すがらでしきりに言うが、あなたに“帰り”は無い。
途中、デイサービスの施設に寄って
あらかじめ頼んでおいたサチコの薬を受け取る。
薬の管理ができないサチコは
昼と夕に施設からの弁当を届けてもらう時、職員に薬を飲ませてもらう。
だから薬は全て、施設に預けている。
入院する際は、病院へそれらの薬を持って行くことになっているのだ。
今回、病院からの指示は無かったが
必ず後で「持って来い」と言われるのはわかっている。
二度手間になるので、こっちが気を効かせるのだ。
薬を受け取ったのがバレないよう、バッグは大きい物を持って来ている。
子育て中のバッグも大きかったが、老人との対戦も
バッグは大きい方が便利だ。
サチコには「介護保険の書類を取りに来るよう、言われている」
と言って誤魔化した。
やがて病院に着いて血液、レントゲン、心電図などの検査。
認知度のテストもあったらしい。
サチコの話では、大体できたそうだ。
検査が終わると、担当医の診察。
「サチコさ〜ん、ちょっと不整脈が出てるのよ〜。
血液検査の結果も心配なんだけど、身体、しんどくない?」
担当医は明るく問いかける。
「何ともありません」
キッパリと答えるサチコ。
「今日はここに泊まってもらって様子を見たいんだけど、いいかな?」
「えっ?泊まるって?入院するということ?
嫌じゃ!
そんなつもりで来てないから、何の支度もしてないし!」
入院を悟られてはいけないので、支度は何もしてない。
なまじ本人が入院するつもりだったとしても
私が家に入り、着替えや洗面道具なんかを準備したら
また「引き出しを探って金品を盗む」と言い出すのは明白なので
関われないし、関わりたくもない。
必要な物は病院の売店で、介護士に全部買ってもらうつもりだ。
「お年だからね〜、何かあったら僕が心配なのよ」
担当医は、できればサチコが納得づくの任意入院にしたい様子。
しかしサチコが頑なに入院を拒否し続けるので強制入院に切り替え
マーヤに電話することになった。
時間は2時40分、マーヤが「電話に出られる」と言った時間だ。
私は安堵した。
しかし何度かけても、マーヤは出ない。
10分、20分と時間は過ぎ、担当医は検査の結果待ちや
サチコへの聞き取りを理由に時間を稼ぎながら
たびたび隣の別室に赴いてマーヤに電話をかけ続けるが
3時10分になっても電話は繋がらない。
「どうする?今日は一旦帰って、仕切り直す?
あんまり嫌がるから、しのびないよね」
「そうですね…」
「最後にもう一回かけて、ダメだったらそうしようか」
担当医はそう言って、また隣室に消えたが
やっぱり電話は繋がらず、私は諦めて立ち上がった。
ロビーでは、看護師に引き留められているサチコが
「帰る!帰る」と叫んでいる。
この次はもう、警戒して私に付いて来ないだろうから
当分、入院は無理だな…。
担当医も同じことを考えていたのか、ここで奥の手を繰り出した。
「サチコさん、このまま帰すのは心配だから
今日は点滴して帰りましょうよ」
「点滴?!嫌よ!私は元気なのに何で?!
この子も家族がたくさんいるから、早う帰らんといけんのです!
ねえ?みりこん?忙しいよねえ!」
こんな時だけ、急に私の家事を心配して見せるサチコ。
看護師に点滴室へ連行されそうになった3時15分
ようやくマーヤと電話が繋がり、入院が決定した。
ギャ〜ギャ〜わめくサチコ、担当医、看護師、相談員、私…
5人はエレベーターになだれ込み、3階の病棟へ。
病棟入り口にある鉄製の扉が閉まるまで、サチコは私の手をつかみ
「連れて帰って!」と叫び続ける。
その手を冷たく振りほどき、入院手続きのために階下へ。
「テストでは、認知度がかなり低下しています」
相談員は言った。
サチコは「大体できた」と言っていたが、錯覚だったらしい。
担当医が記して私がサインをする治療計画書には
症状の所に“せん妄”と書いてあった。
認知症界隈では、妄想に駆られてあらぬ言動に走ることを
せん妄と呼ぶのだ。
聞き取りでは、入院費の請求先もたずねられる。
「今までは私でしたけど、もうお金のことに関われないので
実子の住所へお願いします」
と言った。
聞き取りが終わると、入院後の対策について話し合う。
大したことではない。
まずサチコが持って来たバッグを私が持ち帰るか、病院に預けるか。
保管の責任が生じるので、相談員は私に持ち帰ってもらいたい様子だが
「財布と通帳と印鑑とが入っているので
泥棒が持って帰ったと知ったらショックだと思います」
と言い、病院に預けることにした。
次は着替え。
手ぶらで来たので、服や下着が無いという問題だ。
「後日、持って来ていただけそうですか?」
「私が家に入って引き出しをつつくと配置が変わって
退院後に、また盗んだと言い出すので
売店で買っていただければありがたいんですが」
「それは構わないんですが、サチコさんはお洒落でしょう。
売店にはトレーナーやジャージみたいなのしか無くて
嫌がられると思うんです」
もっともな話だ。
「じゃあ、少し落ち着かれたら、一度スタッフと一緒にご自宅へ帰って
着替えを持って来ることにしましょうか。
バッグの中にあった鍵は、ご自宅の鍵ですよね?」
名案である。
「ぜひ、お願いします」
そして4時半、私は解放された。
この瞬間は清々しいが、明日から恨みの電話がかかるかも。
マーヤの電話番号を教えてやろう。
《続く》