祖父の口撃から父を守る手段を考えあぐねたが見つからず
そのまま祖父の悪口を聞き続けるしかなかった私。
それでも祖父の不満を心ゆくまで口にさせることによって
父への風当たりが弱まるのでは…
そんな微かな希望は持っていた。
当時、ガス抜きという言葉は無かった。
が、この方法は失敗だった。
人の不満はとどまるところを知らない。
小学生の孫に話してもおさまるどころか、ますますひどく
そして長くなっていった。
大人になってからわかったが、誰かが聞いてくれると思ったら
不満って永遠に湧き出てくるのね。
こりゃあ、まずいことになった…
子供だって思いますとも。
私にとって祖父は、欲しい物をジャンジャン買ってくれるパトロンだったが
引き換えにひたすら悪口を聞かされる苦行は辛い。
バカよ、能無しよ、と蔑まれる悪い男の子供…
それがお前だと言われているのと同じなんだから、そりゃ辛い。
中でも子供の私を最も苦しめたのは、数々の矛盾である。
祖父の説明によると、どうやら私は悪人から生まれた子供らしい。
それなのに祖父は、私が可愛いと言う。
矛盾。
礼儀にうるさい祖父だが、彼が我々孫にかまける暇があるのは
現場と事務を取り仕切る父がいるからだ。
父がいなければ会社は回らず、祖父は社長ではいられないはずなのに
その父を悪く言うのは礼儀に反するんじゃないの?
矛盾。
「人様の悪口を言ってはいけない」
祖父は折に触れて言うが、あんたが一番言ってんじゃないの?
矛盾。
「いつも笑顔で愛想よく」
祖父はそうも言うが、あんたはどうなんだ。
鬼のような顔で父をののしり、家族の笑顔を消してるじゃないか。
矛盾。
それらの矛盾は、子供の心を痛めつけた。
孫として、この上なく愛されているのはよくわかる。
しかしそれだけに、なぜ子供が悲しむことをするのか…
喜んで聞いていると思っているのか…
疑問は膨らむ一方だ。
子供だって苦しいので、疑問を払拭し、矛盾を解消しようと懸命に考える。
が、子供の頭脳と浅い経験で解決できるわけもなく、行き着いたのがこれ。
「人間には醜い裏がある」
当時の私は、矛盾という言葉を知らなかった。
やがて1年ほど経過した頃、意外な出来事によって
突然この苦行から解放された。
母の胃癌である。
可愛い一人娘が不治の病に罹り…そうよ、当時、癌は不治の病だった…
父の悪口を言う余裕が無くなったのだ。
その2年ほど前から、母は胃の不調を訴えるようになっていた。
私は子供心に、優しかった母が怒りっぽくなって
だんだん人が変わっていく様子を感じていたが
それは父との不仲が原因だと思っていた。
後から思えば、全ては母の病気が元だったような気がする。
しんどいから周囲に当たるようになり、やがてその矛先は父に向けられた。
気ままな一人娘の母は、父に期待する事柄が多過ぎたと思う。
仕事をするのは当たり前、うるさい舅を賢くかわし
妻に優しい言葉をかけて明るい家庭作りに努めて欲しい…。
職業柄、定休日の無い会社を切り盛りしながら
無口な父にスーパーマンのような夫像を望むのは酷というものだが
このように無茶な要望を父に言い、達成されなければ母はシクシクと泣いた。
それを見た祖父は、最愛の一人娘を悲しませる父を叱咤。
ののしるだけではおさまらず、孫に延々と悪口を聞かせる。
子供には、何とも暮らしにくい家であった。
この繰り返しに疲弊していた私は、母の病気を知っても冷静だった。
むしろ、これで何かが変わるかもしれないと期待すらした。
それよりも、我が家の窮状を聞いて大阪から駆けつけてくれた祖父の元カノ…
50代のハルさんが、しばらくうちで暮らすと聞いて嬉しかった。
それまでの家政婦さんが辞めたばかりの時に、母の病気が発覚したので
我が家は人手不足だったのだ。
ハルさんの明るく温かい雰囲気は、我々子供を癒した。
彼女は父と相性が良かったらしく、30代後半の父を弟のように可愛がり
父もまた、ハルさんを信頼していた。
祖父が父の悪口を言うとハルさんがたしなめるので、祖父は何も言えなくなり
我々姉妹は人並みの子供として、安心の日々を送るようになった。
母が市外の大きな病院へ入院する前日
祖父は紙に一筆書いて居間の壁に貼り、我々姉妹に声を出して読むよう言った。
『みんな頑張る、一致協力』
それを見た私はどう思ったか。
「あんただけ、頑張れば」
9才の子供は、ここまで歪んでいた。
言行不一致の矛盾を子供に与え続けると、ひねくれるんじゃよ。
一旦ひねくれたものは、元には戻らんのじゃよ。
母の手術は手遅れで、開腹してすぐに閉じられた。
誰かに教えられたわけではない。
事前に聞いていたのより短か過ぎた手術の時間で、察しがついた。
矛盾の渦で洗濯物のように回されて来た子供は、勘が鋭いものなのだ。
それからさらに1年が経って、ハルさんは家族の待つ大阪へ帰り
交代で祖父の今カノ、ミツさんがうちへ入った。
やはり50代の明るい人で、この人も父と相性が良かった。
祖父が父の悪口を言うのを嫌ったため、我々子供の精神生活は守られた。
さらに1年後、母がいよいよ死の床についた。
近所の病院での終末期、床ずれに苦しんでいた母のために
父は山間部にある実家の協力を得て、ワラ布団を作ってもらった。
現代は床ずれに良い塗り薬があるが
昔は床ずれができたら亡くなるサインとされ
ワラを入れたクッション状の布団を使うと楽になると言われていたからである。
父が持って来たワラ布団を見て、母はつぶやいたという。
「もう、遅いよ…」
元気なうちに、優しくして欲しかったということだろう。
その数日後、母は他界した。
最後まで、わかり合えない夫婦だった。
母が亡くなると、父に対する祖父の憎しみは再開した。
一人娘を悲しませたまま逝かせた…それが祖父には許し難かったようで
実際に祖父本人から、それを聞いた。
ミツさんとの暮らしは継続していたので、以前ほどではなかったが
その頃には私も11才になり、少しは成長していた。
年齢的なものというより、ハルさんとミツさんから学んだと言えよう。
それは、男のあしらい方。
「あら、お帰りなさい、ご苦労様」
「今日の夕飯は◯◯をこしらえてみましたのよ、お好きでしょ?」
彼女らはいつもニコニコして、男がホッとする言葉を口にした。
母や、6才の時に亡くなった祖母からは一度も聞いたことのないセリフだ。
そりゃあね、年取っても人のカノジョをやるぐらいだから
男あしらいはプロだわさ。
それでも家庭の太陽として、一家を回していく女には
この気働きが必要なのだと思った。
《続く》
そのまま祖父の悪口を聞き続けるしかなかった私。
それでも祖父の不満を心ゆくまで口にさせることによって
父への風当たりが弱まるのでは…
そんな微かな希望は持っていた。
当時、ガス抜きという言葉は無かった。
が、この方法は失敗だった。
人の不満はとどまるところを知らない。
小学生の孫に話してもおさまるどころか、ますますひどく
そして長くなっていった。
大人になってからわかったが、誰かが聞いてくれると思ったら
不満って永遠に湧き出てくるのね。
こりゃあ、まずいことになった…
子供だって思いますとも。
私にとって祖父は、欲しい物をジャンジャン買ってくれるパトロンだったが
引き換えにひたすら悪口を聞かされる苦行は辛い。
バカよ、能無しよ、と蔑まれる悪い男の子供…
それがお前だと言われているのと同じなんだから、そりゃ辛い。
中でも子供の私を最も苦しめたのは、数々の矛盾である。
祖父の説明によると、どうやら私は悪人から生まれた子供らしい。
それなのに祖父は、私が可愛いと言う。
矛盾。
礼儀にうるさい祖父だが、彼が我々孫にかまける暇があるのは
現場と事務を取り仕切る父がいるからだ。
父がいなければ会社は回らず、祖父は社長ではいられないはずなのに
その父を悪く言うのは礼儀に反するんじゃないの?
矛盾。
「人様の悪口を言ってはいけない」
祖父は折に触れて言うが、あんたが一番言ってんじゃないの?
矛盾。
「いつも笑顔で愛想よく」
祖父はそうも言うが、あんたはどうなんだ。
鬼のような顔で父をののしり、家族の笑顔を消してるじゃないか。
矛盾。
それらの矛盾は、子供の心を痛めつけた。
孫として、この上なく愛されているのはよくわかる。
しかしそれだけに、なぜ子供が悲しむことをするのか…
喜んで聞いていると思っているのか…
疑問は膨らむ一方だ。
子供だって苦しいので、疑問を払拭し、矛盾を解消しようと懸命に考える。
が、子供の頭脳と浅い経験で解決できるわけもなく、行き着いたのがこれ。
「人間には醜い裏がある」
当時の私は、矛盾という言葉を知らなかった。
やがて1年ほど経過した頃、意外な出来事によって
突然この苦行から解放された。
母の胃癌である。
可愛い一人娘が不治の病に罹り…そうよ、当時、癌は不治の病だった…
父の悪口を言う余裕が無くなったのだ。
その2年ほど前から、母は胃の不調を訴えるようになっていた。
私は子供心に、優しかった母が怒りっぽくなって
だんだん人が変わっていく様子を感じていたが
それは父との不仲が原因だと思っていた。
後から思えば、全ては母の病気が元だったような気がする。
しんどいから周囲に当たるようになり、やがてその矛先は父に向けられた。
気ままな一人娘の母は、父に期待する事柄が多過ぎたと思う。
仕事をするのは当たり前、うるさい舅を賢くかわし
妻に優しい言葉をかけて明るい家庭作りに努めて欲しい…。
職業柄、定休日の無い会社を切り盛りしながら
無口な父にスーパーマンのような夫像を望むのは酷というものだが
このように無茶な要望を父に言い、達成されなければ母はシクシクと泣いた。
それを見た祖父は、最愛の一人娘を悲しませる父を叱咤。
ののしるだけではおさまらず、孫に延々と悪口を聞かせる。
子供には、何とも暮らしにくい家であった。
この繰り返しに疲弊していた私は、母の病気を知っても冷静だった。
むしろ、これで何かが変わるかもしれないと期待すらした。
それよりも、我が家の窮状を聞いて大阪から駆けつけてくれた祖父の元カノ…
50代のハルさんが、しばらくうちで暮らすと聞いて嬉しかった。
それまでの家政婦さんが辞めたばかりの時に、母の病気が発覚したので
我が家は人手不足だったのだ。
ハルさんの明るく温かい雰囲気は、我々子供を癒した。
彼女は父と相性が良かったらしく、30代後半の父を弟のように可愛がり
父もまた、ハルさんを信頼していた。
祖父が父の悪口を言うとハルさんがたしなめるので、祖父は何も言えなくなり
我々姉妹は人並みの子供として、安心の日々を送るようになった。
母が市外の大きな病院へ入院する前日
祖父は紙に一筆書いて居間の壁に貼り、我々姉妹に声を出して読むよう言った。
『みんな頑張る、一致協力』
それを見た私はどう思ったか。
「あんただけ、頑張れば」
9才の子供は、ここまで歪んでいた。
言行不一致の矛盾を子供に与え続けると、ひねくれるんじゃよ。
一旦ひねくれたものは、元には戻らんのじゃよ。
母の手術は手遅れで、開腹してすぐに閉じられた。
誰かに教えられたわけではない。
事前に聞いていたのより短か過ぎた手術の時間で、察しがついた。
矛盾の渦で洗濯物のように回されて来た子供は、勘が鋭いものなのだ。
それからさらに1年が経って、ハルさんは家族の待つ大阪へ帰り
交代で祖父の今カノ、ミツさんがうちへ入った。
やはり50代の明るい人で、この人も父と相性が良かった。
祖父が父の悪口を言うのを嫌ったため、我々子供の精神生活は守られた。
さらに1年後、母がいよいよ死の床についた。
近所の病院での終末期、床ずれに苦しんでいた母のために
父は山間部にある実家の協力を得て、ワラ布団を作ってもらった。
現代は床ずれに良い塗り薬があるが
昔は床ずれができたら亡くなるサインとされ
ワラを入れたクッション状の布団を使うと楽になると言われていたからである。
父が持って来たワラ布団を見て、母はつぶやいたという。
「もう、遅いよ…」
元気なうちに、優しくして欲しかったということだろう。
その数日後、母は他界した。
最後まで、わかり合えない夫婦だった。
母が亡くなると、父に対する祖父の憎しみは再開した。
一人娘を悲しませたまま逝かせた…それが祖父には許し難かったようで
実際に祖父本人から、それを聞いた。
ミツさんとの暮らしは継続していたので、以前ほどではなかったが
その頃には私も11才になり、少しは成長していた。
年齢的なものというより、ハルさんとミツさんから学んだと言えよう。
それは、男のあしらい方。
「あら、お帰りなさい、ご苦労様」
「今日の夕飯は◯◯をこしらえてみましたのよ、お好きでしょ?」
彼女らはいつもニコニコして、男がホッとする言葉を口にした。
母や、6才の時に亡くなった祖母からは一度も聞いたことのないセリフだ。
そりゃあね、年取っても人のカノジョをやるぐらいだから
男あしらいはプロだわさ。
それでも家庭の太陽として、一家を回していく女には
この気働きが必要なのだと思った。
《続く》