めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

心から楽しめない老後

2017-08-25 17:35:58 | 高齢化社会

ここ数日の猛暑は、これまでになく、生活に支障を来しています。
余りの暑さに、仕事場のクーラーは、何度も止まってしまい、汗だくの中
仕事を行う事と成りました。
部屋の中は、30度を軽く超え、正常な業務が行えない状態となり、早急に
新たなるクーラーを見つけなければなりません。
何しろ、創業以来、30年程頑張って来たクーラーであり、何度も故障し続け
どうにか騙しだまし使って来たのですが、この暑さで遂にダウンしてしまいました。
余りにも古い機種の為、メーカーに問い合わせても部品も無く、修理する事も
殆ど不可能と言われて来ました。
それでも、何度も暑い夏を乗り越えて来たのですが、今回は、どんなに動かそうとしても
すぐに止まってしまいます。
しかしながら、大きな部屋の営業用のクーラーは、価格も高く、そう簡単には交換出来ず
何度も二の足を踏んできました。
いつ壊れても不思議でない状態であったのですが、遂にその日が来たようです。

所で、考えてみれば、同じように耐用年数が過ぎた生活機器や営業機器が増えてきました。
時代時代で新しいものに取り換えて来たのですが、数十年に渡ってそのまま使っている物もあり
部屋を見渡しただけで、昭和の匂いが感じられます。
消費経済社会で生きて行くには、時代に応じて、その都度、社会の流れに付いて行かねば
成らないのでしょうが、クーラーと言わず、様々な時代物が、沢山の思い出と共に
まるで時代に取り残されたようです。

日本が高齢化社会に突入したと言う事は、新たなる時代と成ったともいえるのですが、
時代に取り残された人が非常に増えているともいえるのです。
第一線を退き、悠々自適の生活を送っている方も多いのですが、長く生きている事に
苦慮している人も数多くいるのです。
食べて行くだけで精一杯の高齢者も少なく無く、国からの補助によって辛うじて老後の生活を
繋いでいる人も多く、中には、自力で働いて生きて行かなければならない高齢者もいます。

日本は、決して高齢者にとって過ごしやすい国とは言えず、この事は、生活を保障されている
生活に余裕のある人たちにとっても、決して気持ちよく老後を送れる社会とは言えません。
政府は、衣食住が満たされば、老後は、幸せに生きられると考えている様ですが、
実際は、殆どの方が、息苦しい生活を送っています。
彼らの満たされない部分は、心の中に在り、見た目の生活を豊かにしたところで、
満足できるものでは有りません。

最大の不満は、日本の高齢者たちが、若い人たちの心の中に居ない事です。
厄介者とは言わないまでも、若者たちにとっては、過去の時代の人達であり、自分達とは
合い入れない、別の人種の様な存在と言えるのです。
何故なら、彼らは、小さい頃から、人との関わり合いより、自分の利益を求める教育を受け
周囲の人達を気遣って生きる環境に育っていないからです。
自分の利益となる物には、心を向けるのですが、利益と成らなかったり、関心のないものには
興味すら示さない生活を送って来たからです。

人間関係は、自分の利益となる場合のみ成り立ち、たとえそれが家族であっても、学校で有っても
職場で有っても、同一レベルの感覚であり、高齢者と言うのは、無関心の対象と成っているのです。
社会に出て、高額所得者と成り、沢山の税金を払うようになったとしても、その税金が社会に役立ち
高齢者の生活に役に立っているとしても、それは、社会人の義務として支払っているに過ぎず、
人の為に成っているという感覚は無いのです。
徹底的に、経済的な利益を求め、今の社会にしっかりと適合して行く事を自分の人生の目的とし
人間としての様々な関わり合いには、自分自身の中で価値観を感じる事は無いのです。
社会人としての義務を果たす事で、自分の社会に於ける役割を果たしたとし、人との関わり合いを
持つ喜びは感じないのです。

今や、若者達と高齢者達の接点は益々遠のいています。
新たなる価値観を持った若者達と、過去の時代の人間関係にこだわる高齢者とは
お互いに合い入れない関係であり、同じ日本人として同じ土俵に立っていないのです。
多くの高齢者の孤独は、自分達の年齢が若者達より遥かに高いと言うことだけでなく、
まるで、陸の孤島の様に、日本人の社会から切り離されている事を感じる事です。

日本社会を繋ぐのは、急激に発達したネットであり、人々は、その高速度で動く
コンピューターの世界で生きているのです。
全てのシステムがコンピューターで繋がる事に依り、何でも自分の思いは達成でき
そこに、確実性の低い対人関係は無駄と考えるのです。
ネットの力を最大限に利用すれば、居ながらにして、何でも手に入れる事が出来るのです。

私達高齢者は、何かを手に入れる為には、多くの人の気持ちに触れ合う事が原則でした。
多くの人達との関わり合いを持って、お互いに生活レベルを上げ、地位を築きあげて
来たのです。
立派な社会人と成るには、如何に自分の心と身体を鍛え、様々な知識や経験を身に付け
沢山の人達の思いを知る事でした。

しかしながら、高齢となった今、現役を去った老兵同士の昔話は有っても、現実の戦士との

関わりが断たれているのです。
ただ、餌を与えられ、高齢のペットの様に余生を送っている事で、どれだけの高齢者が
満足できるでしょう。
人々の間で、お互いに切磋琢磨して、自分の地位と価値を気づいて来たのに、今では、
自分の価値を認める人も無く、自分の思いを伝える相手もいない事に、多くの方々が
何の為に生きているのか、生き甲斐を失っているのです。

どんなに美味しいものを食べても、世界中を飛び回っても、それは、自分が持ちえない、

思いが叶えられない多くの世界を知るだけなのです。
人は、どんなに年老いても、生きている限り、この世にいる意味と価値を感じたいものです。
中でも、人としてこの世に存在する価値は、いま、現役で働いている人達から認められないと
生き甲斐とはならないのです。

年をとっても、身体が思うように動かなくなっても、この世に生きている意味と価値を

認められてこそ、長く生きる意味が有るのです。
高齢者だから大切にしましょうとか、労わりましょうと言うのは、そういう事が出来ない方への
メッセージであり、生きている限り、如何に役に立っているかを感じたいのです。
日常的なほんの些細な事であっても、周囲の人たちが感じさせてあげる事が大切です。

高齢者が生きている事で、誰が助かり幸せになるかを解り合える社会が必要です。

ただ意味なく長生きしたとしても、高齢者たちは、本当に心から幸せとは思わないのです。
今や、若者たちの労りの言葉や行動に、高齢者たちは戸惑い、余計に気を使っているのです。
親切にされればされる程、自分達は、社会とは遠く離れた存在であることを自覚して、
寂しさを覚えるのです。

私達は、生まれて死ぬまで、一人の個性ある人間としてこの世に存在し認められたいのです。

その為に、人と違う生活をしたり、ファッションを楽しんだりするのです。
周りの人達に、唯一無二の存在として認められたいのです。
この事は、若者も高齢者も同じなのです。
家庭に於いても、学校に於いても、社会に於いても、自分を認められないで、差別されたり
決めつけられる事に強い反発と怒りを感じるのです。

外見的な優劣を付けられたり、一方的な価値判断をされたりする事は、大きく心を傷つけられ

様々なトラブルを生む原因と成るのです。
今の日本社会は、様々な所で格差や差別が存在し、一部の人達の独占的な社会が存在しています。
欲望を達成できる人々と、欲求不満の我欲に満ちた人たちで溢れています。
そんな人達から取り残されているのが、老人社会と言えます。

新たなる欲望を満たすことも無く、未来の自分を夢見ることない高齢者は、社会の人達とは

隔絶した、人として末期の世界と言えます。
ただ、時間が立つことに身を任せ、その日を待つだけでは、長生きする喜びは無いのです。
新たなる未来を創る力は無くとも、若者たちの夢や未来を助ける力を感じたいのです。
それには、生きている証が必要です。自分が存在している価値が必要なのです。
日本人の高齢者が、経済的豊かな生活を送れたとしても、本当に幸せと思っているのか
理解できるかが、高齢者社会を考える大切な観点と言えるのです。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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