めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

幸せを感じない日本の高齢者

2016-05-14 15:21:52 | 高齢化社会

これ程にも世の中が低迷していると、誰もがお金が有ったら、
良い仕事に付けたら、と思ってしまいます。
高額の当選金につられて財布のひもを緩めても、東京都民の
数名にしか当たらないと言う確率を知る事も無く、この次は
当るかもと言う期待を抱かせてしまう華やかなコマーシャルに
踊らされている人は、星の数ほどいる事でしょう。

お金に苦労している人は、もし、溢れる程のお金が有ったら、
どれ程素晴らしい毎日が送れるだろうと夢を抱きます。
しかしながら、どんな職業につこうと、苦しい生活をしようと
お金に不自由しない生活をしようと、人は、いかなる環境でも
不安と不満を持つものです。

宝くじで大金を手にしても、以前より幸せをかみしめる時は短く
新たなる不安に包まれたり、さらなる欲求の膨らみに、心は
休まることがない毎日を送ることも有るのです。
しょせん人間は、生きている限り平穏な心を持つことは難しく、
現実に生まれて来る問題を見て見ぬ振りをする為にも、
夢や欲望を抱く様になっているのかも知れません。

しかしながら、そんな思いも、いつしか無くなって、世の中に対する
望みも不満も怒りも、感情の全てが消えて行く時代がやって来ます。
そう、それが人生の末路であり、この世を去る日が頭のどこかに
ちらついて来る頃であります。

若い頃に頑張って築き上げた巨万の富も財産も、物としては存在しても
心を癒すものでは有りません。単に、他の人との差別化に、
心の中の優越感を抱かせるくらいのものです。
いかにお金を手に入れても財産を大きくしても、確実に無くなって行くもの
それは命の火です。生まれた時から、燃え続け、年を重ねるにつれて
次第にその火力は衰えて行きます。
不変の財産を持っても、命の炎は次第に弱くなり、いつか消え去る日が
頭をよぎる時期が必ずやって来るのです。

私達は、高齢になると、身体も動きづらくなり、自分の身の回りすら
自分でできなくなってきます。
そうなると、誰かに生活の面倒を見てもらう事が必要と成って来ます。
当然、生きるための最低限の所得と健康維持費が必要と成ります。
そのため、私達は、若い頃から年金を国で積み立てて行くのです。
贅沢な生活ではないものの、最低限の生活が保障され、この制度は
高齢者にとって素晴らしい対策と言えます。
生活が保障されることは、幸せな老後を送れると誰もが信じて疑わず、
若い頃から、せっせとお金を国に預け続けます。

また方や、若い頃に一生苦労しないだけの財を成す方も居ます。
普通ならば、退職金や年金い頼らなければ老後を安心して過ごせないと
思われますが、このような方々は、すでに若い頃から、高齢になった時の
幸せが保障されていると言えます。

つまり、国であろうが個人であろうが、老後の生活が保障されていれば
高齢者は幸せに生きていけると思われるのです。

しかし、このどちらのパターンであっても、本当に高齢者たちは幸せと言えるのか
今の日本社会を冷静に見て、断言できる人はいないのです。
しっかりと働いて、その間、老後の積み立てをし、年金をもらう様になっても
使いきれない程の財産を持って引退した人であっても、本当に幸せかと
問いただせば、心の奥は、暗く沈んでいる高齢者が意外と多いのです。

きちんと食べて行けて、健康管理に関する心配も無ければ、
幸せに違いないと思っているのは、このような制度を作った方々だけでしょう。
お金や財産を幸せの数値として考える方々の浅はかな思い込みと言えます。

生活できるだけの財を持って生きて行く高齢者も、多くの財産に囲まれて
悠々自適の生活が保障されている高齢者も、いずれも、近い将来、
この世から消えて行かなければならないのです。
つまり、ロウソクの火は次第に消えかかり、消える日も近いのです。

この世に存在すると言う事は、自分自身の存在価値が、周囲の人たちに
有る事であり、自分の存在が他の人の存在を助けている事です。
人は、御互いに相手の存在を認める事に因り、御互いの存在理由が
生まれて来るのです。
単に、生かされているだけでは、生きている意味も生甲斐も無くなるのです。

国によって生かされ、財産によって生かされていても、人によって生きる価値を
知らされないと心が萎え、この世に存在する意味が見いだせなくなるのです。
高齢者の多くが、それまで何十年に渡って、家族を養い、会社を支え、
社会の一員として存在を自覚しながら生きてきました。
その時、お金を持っていようが持っていなかろうが、自分の存在意味を感じ
人を生かす事で自分の価値を高めてきたのです。

ところが、退職したり隠居したりした後、突然、自分の役割が消えてしまいます。
すると、自分の存在意味を成す物が無くなってしまい、自らの生きる理由が消え
単に、食によって生かされているに過ぎなくなってしまうのです。
どんなに苦しい生活をしていても、自分のが生きている事を否定し無い限り、
自分が人と関わることを無くさない限り、私達は、先へ進めるのです。

現代の日本人の多くが、自分の存在意味を感じられなくなっています。
自分は一体何のために生きているのか、何を求めて生きているのかが
解からなくなってる方が増えているのです。
生活が豊かに成る事により幸せと成り、生甲斐を感じるのではと
常にお金や物を求めている方が多くなっています。
更には、財産やお金が多くある人は、より幸せを手に入れる事が出来ると
思い込んでいます。

でも、そんなとき、多くの財産を得た自分を妬む人は有っても、心から
存在を認めてくれる人が居なかったら、いくら財力を増しても、いくら沢山
お金を稼いでも幸せはやって来ません。
と成ると、次に思う事は、その財産を誰かに奪われないかと疑心暗鬼と成り
以前にも増して、心が安らぐことが無くなってしまいます。

高齢者と言えど、同じ人間です。しかも、もうすぐ、自分の存在が消えてしまいます。
その残り少ない限られた時間に、自分の存在を財力や生活力で決められるとしたら、
長い現役の間、感じてきた自分の存在の喜びは全くなくなってしまうのです。

高齢者が本当に望む事、それは、高齢であっても、家族にも社会にも、
一人の人間として存在価値を与えられることです。
つまり、自分たちが生きている事で、誰かが生きている喜びを感じられる
存在になっていたいのです。
死ぬ一歩前まで、この世の誰かの生きる意味を知らせられる存在でいたいのです。

手厚い医療政策、衣食住の確保はとても大切な事です。
しかし、これらは、生きて行く為の手段に過ぎません。
これ等の事が、高齢者の生きがいと成るものでは有りません。
国の高齢者対策は、莫大なる予算を投じて、高齢者を生かす事では有りません。
どんなに莫大な予算をつぎ込んだとしても、本当に高齢者は喜んでいるかと
言えば、実際は、殆ど心に訴えていない事を知らなければなりません。

様々な対策を講じてくれる事に、感謝はしていても、それが本当に一人一人の
幸せを増しているかと言えば、無駄なお金が使われている場合が多いのです。
国のお世話にならないで生きていける人達も、心を癒せない代わりに、
有り余る財を使って、自分は豊かな老後を送っていると自らを慰めていると
行っても良いのです。

そのため、老人たちの話の多くが、自分の医療関係の話と、お金の話しか
有りません。自分がいかに幸せな心豊かな生活を送っていると言う話題が
今の日本の高齢者たちの間では交わされていないのです。
高価なもので身をまとい、際限ないお金を使い自由に振る舞う事を幸せと思い
持たざる人との格差を楽しむに過ぎない、可哀想な老後を送らざるを得ないのです。

お金が有ろうが無かろうが、人々が思う心の気持ちは同じです。
その共通の部分で幸せを感じないで、身に付ける物、財産で優劣を決めるのは、
本当の幸せとは言えないのです。
人生に後半を生きる人々に、本当の幸せを感じさせるには、ただ与えるだけの
援助ではなく、彼らの心に生きている価値と意味を感じさせるものでなければ
本当の高齢者対策とはならないのです。





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