「野口体操の会」会報「早蕨SAWARABI」Vol.5 の編集がほぼ終わりに近づいた。
今週末には、印刷所に入れることができそうだ、と佐治嘉隆さんが最後の段取りに取り掛かるところである。
そうこうするうちに、私の中に、Vol.6 の「野口三千三伝」のイメージが浮かんできた。
そこで、復刻版「時刻表」を手に入れた。
大正14年、昭和9年、そのほか、昭和15年、昭和17年、昭和19年、昭和20年・・・・。
編纂は鐡道省、発行元は、現在まで続くJTBである。
まず、このJTBの名称が時代を表している。
昭和15年までは、ジャパン・ツーリスト・ビューロー 日本旅行協會である。国家総動員法施行で、表紙には「遊楽旅行廃止」とあるのに、裏拍子には、伊勢大神宮・橿原神宮・熱田神宮といった聖地参拝の広告が載せられている。
昭和17年になると社團法人「東亜旅行社」になる。軍隊に合わせて鉄道も24時間を実施するようになる。
昭和19年の時刻表は財團法人「東亜交通公社」となる。この年は、毎月発行されていたものが、通年で5冊になったという。裏拍子には「旅行防空心得」が5項目記されている。そのほかの注意として「防空服装で」「食糧非常用品携行」とある。
昭和20年7月1日現在で、とうとうたった1枚の裏表印刷になってしまう。財團法人「東亜交通公社」発行は変わらない。終戦間近に発行された時刻表の姿には、日本の敗戦が映し出されている。これでも軍部は戦争を続行しようとあがいていた。
7冊の時刻表の広告を見ていると時代の様相がしっかりと見えてくる。
戦前と戦時で、発行元の交通公社の名前がカタカナ語から東亜に変更されて行く。
ちなみに私が子供の頃にときとき遊び気分で立ち寄っていたが、新宿伊勢丹の筋向かい角にあった「日本交通公社」になり、最近では「JTB」と名称を戦前の名前に戻しているわけだ。Tはトラベルか? ちょっと調べていません。
どの時刻表にも旅館やホテルの宣伝は多い。その中に嫁いできた叔母の実家の旅館名を発見した。
時刻表一つに、戦前・戦中、そして終戦直前の日本が、生きているのである。
野口三千三を巡る旅も、いよいよ鐡道旅行となってしまったー!
私、鐡子になるかな?