羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

野口三千三誕生月が終わって……つらつら思うこと

2014年12月01日 14時57分39秒 | Weblog
 11月の野口三千三誕生月は、ぴったり30日の日曜日、朝日カルチャー「野口体操講座」で終わった。
 一ヶ月間を通して、先生を偲ぶ月となった。
 五回目のテーマは「ボディビルディングと野口三千三」を選んだ。
 昭和29年から30年代はじめにかけて、日本の体育界や医学界が発した、ボディビル批判に対する野口の姿勢が実にさわやかだ、と私には思える。
 批判は次のようなことである。
 体育界からは「体が固くなる。神経系が鍛えられない。見せかけの体でスポーツに適用しない」
 医学界からは「両手で重い重量を挙げると腕や心臓を圧迫する作用があるのでよくない」

 さらに続いて「当時はよほど進歩的な医者でないかぎりボディビルディングに限らず、スポーツが健康によいという人はおりませんでした」「筋肉を鍛えても内臓は強化されない」ともいわれたそうだ。

 そうした批判に対して、野口三千三や盟友の松延博(東京教育大学教授)は次ような考えを示した。
「ボディビルディングはやり方によっては有効な運動だ。但し体育を綜合的な体づくりとしてとらえるならばボディビルディングは筋肉の発達と云う一面に集中しているかもしれない。しかしその様な見方をするならば全てのスポーツ競技はそのスポーツ特性に適した体の発達をしている」
 幅広い合理的な姿勢でボデイビルディングに対して適切なアドバイズをしたのが、指導理論と技術担当理事として当時の協会に積極的に参加した野口三千三その人だった。
『日本ボディビル連盟50年の歩み』体育とスポーツ出版社 平成17年(2005年)22~23㌻ 玉利齋氏の言葉として読むことができる。

 体育界や医学界やマスコミの批判に、野口らしく拳を挙げずに立ち向かった姿が目に見えるようだ。
 敗戦後に多くの日本人が持った肉体的劣等感の払拭に、僅かな期間とはいえ関わったことは、或る意味で素直な行動だった、と思える。

 ここ迄の半世紀、そしてこの本が出版されて9年。
 この間、一般人や高齢者の寝たきり予防のための筋肉トレーニングは大きく飛躍し、精度を増したことは間違いない。

 その一方で、野口体操の半世紀は、真逆のベクトルで人間のからだと動きを探求していったことに、驚異すら感じる。
 自分自身のからだに素直に向き合い、地球生命体としての生ものにとって、何が大切なのかを日々探る体操はオリンピック開催の蔭に隠れてしまいそうだが、そうなっては勿体ないと思っているのは私だけだろうか。
 
 ボディビルディングのとらえ方、そしてその世界から脱して、野口体操創発へと舵を切った野口の根底に流れているものは、人間が自然からもらった丸ごと全体の身体が潜める可能性の追求だったのではないだろうか。
 生命が持つ限りない価値を一つひとつ見いだし、磨きをかけ、愛おしむ感性を養って、戦時中に押し殺された個人としての人間を”人間として活かす復興”と同時に、矛盾のないあり方で人間を超えた自然への畏怖を実感してゆく道筋を見いだす行為、そのものが野口の体操に違いない。

 戦争の時代と真摯に向き合い、敗戦を自ら引き受け、8月15日を一年の始まりとした贖罪を背負った一人の体育教師としての生涯がたどり着いた地平は、生命体を超えて、生命を生んだ地球(宇宙)そのものへの憧憬へと通じていく体操の発見だった。
 
 生誕100年の野口を偲ぶまるまる一ヶ月を終えて、これまでぼんやりとしか見えなかったものが、すこしだけはっきりと立ち顕われ始めたような気がしている。
 つらつら思うこと多し。
 本日、師走の一日目。おーッ!
コメント
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