羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

腕まわし

2011年12月05日 15時26分05秒 | Weblog
 野口体操の運動の名称は、独特である。名前を聞いて動きのイメージが伝わることもあるが殆どの動きは「?」マークがついてくる。「腕まわし」と名付けられた動きは、外からみると腕が回っているので「腕まわし」でもいい。ところがこの運動のやり方の説明を聞くと、大きく動くところは腕で間違いないが、その動きを生み出す動き方は全身の動きなのである。
「動きって、全身でしょ」
「いやいや、この場合の腕は、力が抜けているからまわるの」
「えっ?」
「肩や腕の筋肉で腕をまわすわけではないのよ」

 聞いた人は目を白黒させる。
 少しだけ動き方の説明をしてみよう。
 まず、腕を振り落とす時は片足の重さを乗せるのがきっかけとなる。右手を主に書いてみよう。
 右手は後ろに振り上げる。その瞬間に左足に重さを乗せておく。力を抜いて右手を振り落とすきっかけは左足から右足に重さを移し替える瞬間に行う。イメージとして上方に腕がぶら上げられると肩の真上に乗ってくる。今度は左足に重さを移し替える。上方で肩甲骨が伸ばされている実感を確かめたら後方に振り落とす。落ちる瞬間に右足に重さを戻す。ここまでが前半。

 後ろから落とされた腕が前方水平まで振り上げられたら方向を換える。後ろから振り上げて前を通って落として来る。右足に乗っていた重さを左足に乗せ替える。腕が肩の真上に乗っているときには左足から右足に重さが移っているのを実感してみよう。前から振り落とされる瞬間に再び左足に重さが戻ってくることになる。

 右・左・右、が前半の重さの移し替え。
 左・右・左、が後半の重さの移し替え。
 つまり腕がまわる動きは足の裏での重さの移し替え、乗せ替えによって促された運動だとも言える。

 さらに足の裏から手の指先まで、片方ずつ交互に真下から真上に「鉛直軸」がすーっと通っていることが肝心なのだ。腕全体が放り上がったときは「ぶら上がり」と言われる。最初はおかしい言葉遣いだ、と思う。重さが活かされて上がった時には、まさに「ぶら上がり」感覚なのだ。

 更に、ぶらあげられた時の肩甲骨は、外側から前方にズレて骨端は背中側から脇の真下にまで移動してくる。片方ずつ腕回ししてみると片側の腸骨稜から片側の背中側の筋肉全体が、脊柱を挟んで半分だけ伸ばされているのを感じる。伸ばされている腕側の肋骨は開かれ、腕の力が抜けてぶら下げられている側の肋骨は縮んでいるのが感じとれるはず。

 もっと細かいことを言えば、バランスが崩れている上体の真上に片腕が乗って真っ直ぐに伸ばされている時、からだ全体で「立つ」バランスをとるために、薦(仙)骨を立った状態に保つためには腸腰筋が、腕全体を保つために腰骨同士を結ぶように横に走っている腹横筋(内蔵を支える)も目覚めているのではないか、と感じられる。

 言いたかったことは、「腕まわし」と名付けられた動きは、片足の上に乗ることと同時に、体幹を支える筋肉によって成り立っている極めて複雑な身体感覚を目覚めさせる動きであると言える。
 苦戦して数年、という御仁のために言葉にしてみた。が、しかし、より分からなくなったかも?!
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師走そして防犯

2011年12月01日 08時57分16秒 | Weblog
 本日から師走。
 今年は何もしないうちに一年がたってしまったような気もしているが、振り返って見ると収穫の多い年であった。しかし、その実感が薄いのは、なぜだろう。やはり東日本大震災、巨大津波被害、原発事故が常に頭の上を覆い、さらに政治への失望感が失せないことにある。

 今週は、来年度のシラバス編集連絡が次々入ってきて、できるところから仕上げている。
 今年の前期は、計画停電と余震によって授業回数が減ったこともあり、それに加えて気持ちの不安定さが、授業内容を変更せざるを得なかったことがあった。後期には落ち着きを取り戻したものの、例年の雰囲気とは異なっていることを感じる。
 ともかく東京も震災への現実感が鮮明になり、暮らしを、仕事を、見直さざるを得なくなっている。一瞬にして日常が失われる恐怖感が、日々、無意識あるいは非意識、あるいは本能をぐらつかせて、これでよいのか?という問いかけが身体の根底で発せられ続けてそろ九ヶ月にもなろうとしている。
 そんな中、私はと言えば、せめて出来る時くらいは、町内の防犯パトロールに参加しようと、昨日は二回目、前回とは違う班の見回りについてまわった。
 驚くほど細い道の奥に木造アパートがひしめいていたり、郵便受けにチラシが溢れていて空き家であることがはっきりしている家がある。そばには手入れされていない庭木が隣家にせり出し、茂った葉が家の中を暗くしたり人が隠れやすい情況を作り出したりしている。町の中には危険が潜んでいることをこの目で見ることができた。
「火の用心、ご用心」
「振り込め詐欺にもご用心」
 一人暮らしのお年寄りを目に浮かべて、夕方に声を張り上げてくまなく歩く。
 通りすがりの人には挨拶をし、知的障害がある人にも用心を促し、ここには「人の目がある」ことを知らせることで防犯になることは間違いないと実感した。年末の夜回りにも一回は参加しようと思っている。はじめて地域社会に目を向けるようになったのも、今年こそであり、おそらく私だけでなく、そうした意識が芽生えた人も多かろうと想像している。
 こうしてじわりと価値観の転換が起こりつつある2011年も残すところ一ヶ月となった。 
 出来ることは少ないけれど、ひとつ一つできることをやっていくしかなさそうだ、というのが得られた教訓である。ちょっと固い言い回しの〆になってしまったが。
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