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羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

動詞的人生

2005年11月18日 08時01分20秒 | Weblog
 今日のテーマは「動詞的人生」について…。

 ある人に「羽鳥さんは、メソッドをもっているから」といわれたことがある。
 メソッド? そのときは、言葉の意味がわからなかった。。。。。。???

「どういうことですか」
 とは聞き返さずに他の話題に移ってしまった。
 こういうときに、聞き返すことが出来ない私がいる。
 で、あとから、ひとりで「あの言葉の意味は、なんだったんだ」と考える。
 いろいろ考えあぐねるのなら、即座に聞いてしまえばいいのに、と思ってもしないことの方が多い。しないというより、実のところできないのかもしれない。

 今朝のことだが、私なりに一つの答えが浮かんだ。
 正しいか、間違っているか、彼女の言葉を誤解しているのかはわからない。
 しかし、私のなかでは、納得している。

 「メソッドをもっている」ということは、観念的でないということを意味するらしいことは、始からなんとなく想定のうちだ。
 そこでもう一歩、踏み込んでみると、これは私が野口体操をやっているうちに、磨きがかかったことかもしれないと思えた
 
 体操の前に、私にはピアノがあった。そのピアノが弾けるようになるのは「そこにメソッドがあるから」だということは、以前から身をもって知っていた。

 では……
「野口体操は、メソッドはあるのか」
 問いかけてみると、西洋の音楽教育のような体系だったメソッドはない、といえそうだ。
 しかし、野口先生ほど“方法”を大切にされた体操の教師はいないと思う。
 
 これは、私なりの解釈だが、野口先生は、ある名詞に対して、それに対応する動詞、あるいは対応した動詞の反対の動詞、その派生語を、常に大事にされていた。

 わかりにくい話かもしれない。
「わからないことを、わからないまま、大切にしよう」
 この野口先生の言葉を、今日は残して、続きはまた明日へ。
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11 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (com.)
2005-11-18 10:03:21
うん…確かにワカラナイ。

ワカラナイこと認めました。実感しました。それでいいんでしょ?

こういうのって自分にとって、新鮮を通り越して異次元です。「みんなワカルようになりましょうね、ワカラナイひと、いないようにしましょうね」って世界で生きてきましたから。

「続きはまた明日」ですか。しょうがない…ワカラナイまま一日ウロウロしてます。

これって、体操?

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Unknown (団塊世代)
2005-11-18 10:14:27
わからない人が居ないようにしよう…という考え方は、すべての人に「わかっている」ことを求める点で、一種のファッショであるような気がします。

わからないでいる自由を我等に!
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名詞的人生と、、、 (阪口圭一)
2005-11-18 11:51:08
名詞的人生と、熱い、柔らかい、かたい、明るいなど、形容詞の中で生きること



 あまり深くものごとを考えず、あるいは感じないで、この世界を見てみると、色々な「もの・名詞」が集まって、この世界ができているように見えたりします。(要素論)

 例えば、「机の上に、鉛筆、ノート、パソコンが載っている」のが見える、と。

 しかし、丁寧にものごとに触れ、かつ自分の認識が生まれる過程をつぶさに感じてみると、私に見えていること、感じることは、硬い、柔らかい、丸い、角張っている、黄色い、黒い、熱い、冷たい、重い、などの形容詞です。

 それらの情報を元に、私が私の中で、鉛筆があると、人間として、勝手に認識しているだけです。

 夜中に、ゴキブリやねずみがやってきて、私が鉛筆と観ているものを、障害物とか、あるいは食べ物と認識しているかもしれません。



 私は、そのように世界と世界認識を捉えています。



「いや、鉛筆という名詞に対応して、エンピツという本質が存在する」と、捉える人々(実在論者)もいます。

 哲学の世界では、唯名論と実在論との論争が、長く続いてきました。



 哲学論争はさておき、私は、「まっすぐに立つ」というときの、「まっすぐ」を、自分のからだで探ります。



 気をつけの姿勢を「まっすぐ」と疑わない人もいるでしょう。

 太極拳の立禅や武道の自然体を「まっすぐ」という人もいるでしょう。

 私の場合、まっすぐに立ったつもりでも、丁寧に観じてみると、微動している、揺れていることを感じます。

 「(決定的な、不動的な)まっすぐがあるわけではない、かといって無いわけでもない」と、地球にブラ上がる度に感じます。



 更に、「生きる意味(名詞ですね)」について感じることがあります。

 「生きる意味」といった<もの・名詞>が、世界の側に転がっているわけではない、と思っていますので、「物を探すように生きる意味を探しても、見つからない」と思っています。

 だから、年齢を重ねる内に、「意味を探したけれども、見つからない」と虚無感が生まれてきたりするのも、ある面自然かなと思っています。

 生きる意味が、ものとしてあるわけでない、かといって、生きている意味を感じることが無いわけでもない、と思うのです。



 これを心理学に当てはめると、

「嫌だなあ、傷つくなあ」と感じることはあっても、「心の傷・トラウマ」(もの・名詞)が、突飛な行動をさせることなどは、私には、ないということになります。



 「まっすぐに立つ」ということを探りながら、私はそのように感じています。

 
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Unknown (com)
2005-11-19 08:06:06
阪口さんのコメント、5分の2くらい、ワカリました。いや、5分の3かな…ビミョーなとこです。悔しいけど5分の4は、いってないです。
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形と姿 名詞的人生と動詞的人生 (阪口圭一)
2005-11-24 08:36:24
 羽鳥操さんの著書「野口体操入門」からだからのメッセージの18・19ページに次ぎのような記述があります。

 1956年に、神田共立講堂において、第一回「ミスターニッポンコンテスト」が開かれ、その時、野口三千三先生が審査委員長を務められました。



<野口は、会が進行するに従って、居並ぶボディービルダーたちが、銅像のようにじっと動かず、ただ力みかえって筋肉を誇る姿にいたたまれなくなっていた。(中略)野口が立ち上がった。「動きの美しさがともなわなければ本当の力強さにはならない」と言いながら、すでに研究を進めていた独自の体操で、力を抜くことの大切さを訴えた。>

 

 日本語に姿形ということばがあります。

「形」と「姿」は似たような言葉ですが、

「形」とは、今目の前に静止して見えるものです。(名詞的)

「姿」とは、一連の動きを捉えたものです。(動詞的)

人間の一連の動きを捉えて、「所作」といったりします。

  

 「美形・美人」であっても、「所作・姿」のだらしない人がいます。

 「美形・美人」でなくても、「所作・姿」の美しい人がいます。

 

 形の美しさを求める人生を、「名詞的人生」、所作の美しさを追求する人生を「動詞的人生」といってもいいのではないでしょうか

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Unknown (com)
2005-11-25 00:05:07
所作って、ちょっと外側のイメージが多くありません?

野口先生の動詞って、内側のイメージが感じられるような気がするんですけど…
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内側と外側 (阪口圭一)
2005-11-25 08:24:40
 確かに「所作」という言葉に、外側のイメージを抱く人もいるでしょうね。



 人間の行動というものには、必ず対人的な目的、動機があると私はおもっています。



 内側の動きとは、私にとっては、その動機・目的のことです。

 しかし、それは、筋肉の動き、外側の一連の動きになって現れる、と私は思っています。



 筋肉の動きを伴わない精神活動は無い、と私は思っています。
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Unknown (com)
2005-11-25 11:19:43
筋肉って内側じゃありません?

少なくとも自分は、筋肉を「内側」と感じてます。体の中にあるからっていうんじゃなくて、心と同じように自分の目では見えなくて、でも確かに自分の中にあって、感じることでしか分からないから。

ほかの人の筋肉は外から見えるけど、それは自分にとっての筋肉じゃないし、手術でもして取り出したら自分の筋肉だって見えるわけだけど、切り取っちゃったらもう生きてないから、それは筋肉じゃなくて、ただの肉塊ですよね。

内側は精神活動で、それが外側の動きにつながるって、分けて考えちゃうのって、自分には抵抗あります。人間の形の皮の内側が、心も筋肉も何もかもヒックルメテ自分、外側は世界っていうか、他の人間や生き物の領分だと思ってるんで。
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まあまあ (詩人)
2005-11-25 13:23:05
様々な意見があって良いのではないでしょうか。皆さん「生きてる途中」です。誰の意見も、変化する可能性を秘めた「現在の結論」に過ぎません。明日は何れにか行く星々、赤い星、青い星、とりどりに宇宙に漂う野口体操の世界です。
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ことばと全体 (阪口圭一)
2005-11-25 16:37:25
「原初生命体としての人間」三笠書房刊の冒頭、4ページに、

 「私は、自分自身の生身のからだの動きを手がかりに、今ここで直接、体験するからだの中身の変化の実感によって、人間(=自分)とは何かを探検するいとなみを、体操とよんでいる。」とあります。

 

 今から、約30年前、初めて野口先生とこの言葉に出会ったとき、とても衝撃を受けました。



 「体操」という言葉に対して、そのような使い方をする人を知らなかったからです。

 運動音痴だった私は、体操とは、人よりどれだけ上手に動けるかを競うもの、として捉えていたからです。



 いまここ、相互のからだの動きを感じることのできないパソコン上で、言葉を手がかりに、話し合いをするということに、難しさを感じています。



「体操」という言葉は同じでも、その定義は人それぞれ違うでしょうし、「内側」「外側」という言葉にしてもそうです。



 話し合うということは、話し合って、意見が一緒になることだけが目的でなく、違いを感じることも、目的になると思っています。だから、開かれたコメントという機能を、プログは付けているのだと思います。



 言葉というものは、本来「分けるもの」ですから、その分けるもので、分けられない全体を表現することに、いつも苦労しています。



 そんな時私はいつも、右足と左足を例に話をします。右足用の靴を左足には履けません。右足と左足は、一緒ではありません。じゃ別のものかというと、別のものともいえません。ひとつのからだに付けられた名前です。



 もしよろしければ、直接私にメールを頂けないでしょうか。あるいは、私のプログにコメントをお願いいたします。

 そちらで、お話し合いをいたしましょう。



 k1s@siren.ocn.ne.jp

http://d.hatena.ne.jp/k1s

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