今日のテーマは「動詞的人生」について…。
ある人に「羽鳥さんは、メソッドをもっているから」といわれたことがある。
メソッド? そのときは、言葉の意味がわからなかった。。。。。。???
「どういうことですか」
とは聞き返さずに他の話題に移ってしまった。
こういうときに、聞き返すことが出来ない私がいる。
で、あとから、ひとりで「あの言葉の意味は、なんだったんだ」と考える。
いろいろ考えあぐねるのなら、即座に聞いてしまえばいいのに、と思ってもしないことの方が多い。しないというより、実のところできないのかもしれない。
今朝のことだが、私なりに一つの答えが浮かんだ。
正しいか、間違っているか、彼女の言葉を誤解しているのかはわからない。
しかし、私のなかでは、納得している。
「メソッドをもっている」ということは、観念的でないということを意味するらしいことは、始からなんとなく想定のうちだ。
そこでもう一歩、踏み込んでみると、これは私が野口体操をやっているうちに、磨きがかかったことかもしれないと思えた
体操の前に、私にはピアノがあった。そのピアノが弾けるようになるのは「そこにメソッドがあるから」だということは、以前から身をもって知っていた。
では……
「野口体操は、メソッドはあるのか」
問いかけてみると、西洋の音楽教育のような体系だったメソッドはない、といえそうだ。
しかし、野口先生ほど“方法”を大切にされた体操の教師はいないと思う。
これは、私なりの解釈だが、野口先生は、ある名詞に対して、それに対応する動詞、あるいは対応した動詞の反対の動詞、その派生語を、常に大事にされていた。
わかりにくい話かもしれない。
「わからないことを、わからないまま、大切にしよう」
この野口先生の言葉を、今日は残して、続きはまた明日へ。
ある人に「羽鳥さんは、メソッドをもっているから」といわれたことがある。
メソッド? そのときは、言葉の意味がわからなかった。。。。。。???
「どういうことですか」
とは聞き返さずに他の話題に移ってしまった。
こういうときに、聞き返すことが出来ない私がいる。
で、あとから、ひとりで「あの言葉の意味は、なんだったんだ」と考える。
いろいろ考えあぐねるのなら、即座に聞いてしまえばいいのに、と思ってもしないことの方が多い。しないというより、実のところできないのかもしれない。
今朝のことだが、私なりに一つの答えが浮かんだ。
正しいか、間違っているか、彼女の言葉を誤解しているのかはわからない。
しかし、私のなかでは、納得している。
「メソッドをもっている」ということは、観念的でないということを意味するらしいことは、始からなんとなく想定のうちだ。
そこでもう一歩、踏み込んでみると、これは私が野口体操をやっているうちに、磨きがかかったことかもしれないと思えた
体操の前に、私にはピアノがあった。そのピアノが弾けるようになるのは「そこにメソッドがあるから」だということは、以前から身をもって知っていた。
では……
「野口体操は、メソッドはあるのか」
問いかけてみると、西洋の音楽教育のような体系だったメソッドはない、といえそうだ。
しかし、野口先生ほど“方法”を大切にされた体操の教師はいないと思う。
これは、私なりの解釈だが、野口先生は、ある名詞に対して、それに対応する動詞、あるいは対応した動詞の反対の動詞、その派生語を、常に大事にされていた。
わかりにくい話かもしれない。
「わからないことを、わからないまま、大切にしよう」
この野口先生の言葉を、今日は残して、続きはまた明日へ。
ワカラナイこと認めました。実感しました。それでいいんでしょ?
こういうのって自分にとって、新鮮を通り越して異次元です。「みんなワカルようになりましょうね、ワカラナイひと、いないようにしましょうね」って世界で生きてきましたから。
「続きはまた明日」ですか。しょうがない…ワカラナイまま一日ウロウロしてます。
これって、体操?
わからないでいる自由を我等に!
あまり深くものごとを考えず、あるいは感じないで、この世界を見てみると、色々な「もの・名詞」が集まって、この世界ができているように見えたりします。(要素論)
例えば、「机の上に、鉛筆、ノート、パソコンが載っている」のが見える、と。
しかし、丁寧にものごとに触れ、かつ自分の認識が生まれる過程をつぶさに感じてみると、私に見えていること、感じることは、硬い、柔らかい、丸い、角張っている、黄色い、黒い、熱い、冷たい、重い、などの形容詞です。
それらの情報を元に、私が私の中で、鉛筆があると、人間として、勝手に認識しているだけです。
夜中に、ゴキブリやねずみがやってきて、私が鉛筆と観ているものを、障害物とか、あるいは食べ物と認識しているかもしれません。
私は、そのように世界と世界認識を捉えています。
「いや、鉛筆という名詞に対応して、エンピツという本質が存在する」と、捉える人々(実在論者)もいます。
哲学の世界では、唯名論と実在論との論争が、長く続いてきました。
哲学論争はさておき、私は、「まっすぐに立つ」というときの、「まっすぐ」を、自分のからだで探ります。
気をつけの姿勢を「まっすぐ」と疑わない人もいるでしょう。
太極拳の立禅や武道の自然体を「まっすぐ」という人もいるでしょう。
私の場合、まっすぐに立ったつもりでも、丁寧に観じてみると、微動している、揺れていることを感じます。
「(決定的な、不動的な)まっすぐがあるわけではない、かといって無いわけでもない」と、地球にブラ上がる度に感じます。
更に、「生きる意味(名詞ですね)」について感じることがあります。
「生きる意味」といった<もの・名詞>が、世界の側に転がっているわけではない、と思っていますので、「物を探すように生きる意味を探しても、見つからない」と思っています。
だから、年齢を重ねる内に、「意味を探したけれども、見つからない」と虚無感が生まれてきたりするのも、ある面自然かなと思っています。
生きる意味が、ものとしてあるわけでない、かといって、生きている意味を感じることが無いわけでもない、と思うのです。
これを心理学に当てはめると、
「嫌だなあ、傷つくなあ」と感じることはあっても、「心の傷・トラウマ」(もの・名詞)が、突飛な行動をさせることなどは、私には、ないということになります。
「まっすぐに立つ」ということを探りながら、私はそのように感じています。
1956年に、神田共立講堂において、第一回「ミスターニッポンコンテスト」が開かれ、その時、野口三千三先生が審査委員長を務められました。
<野口は、会が進行するに従って、居並ぶボディービルダーたちが、銅像のようにじっと動かず、ただ力みかえって筋肉を誇る姿にいたたまれなくなっていた。(中略)野口が立ち上がった。「動きの美しさがともなわなければ本当の力強さにはならない」と言いながら、すでに研究を進めていた独自の体操で、力を抜くことの大切さを訴えた。>
日本語に姿形ということばがあります。
「形」と「姿」は似たような言葉ですが、
「形」とは、今目の前に静止して見えるものです。(名詞的)
「姿」とは、一連の動きを捉えたものです。(動詞的)
人間の一連の動きを捉えて、「所作」といったりします。
「美形・美人」であっても、「所作・姿」のだらしない人がいます。
「美形・美人」でなくても、「所作・姿」の美しい人がいます。
形の美しさを求める人生を、「名詞的人生」、所作の美しさを追求する人生を「動詞的人生」といってもいいのではないでしょうか
野口先生の動詞って、内側のイメージが感じられるような気がするんですけど…
人間の行動というものには、必ず対人的な目的、動機があると私はおもっています。
内側の動きとは、私にとっては、その動機・目的のことです。
しかし、それは、筋肉の動き、外側の一連の動きになって現れる、と私は思っています。
筋肉の動きを伴わない精神活動は無い、と私は思っています。
少なくとも自分は、筋肉を「内側」と感じてます。体の中にあるからっていうんじゃなくて、心と同じように自分の目では見えなくて、でも確かに自分の中にあって、感じることでしか分からないから。
ほかの人の筋肉は外から見えるけど、それは自分にとっての筋肉じゃないし、手術でもして取り出したら自分の筋肉だって見えるわけだけど、切り取っちゃったらもう生きてないから、それは筋肉じゃなくて、ただの肉塊ですよね。
内側は精神活動で、それが外側の動きにつながるって、分けて考えちゃうのって、自分には抵抗あります。人間の形の皮の内側が、心も筋肉も何もかもヒックルメテ自分、外側は世界っていうか、他の人間や生き物の領分だと思ってるんで。
「私は、自分自身の生身のからだの動きを手がかりに、今ここで直接、体験するからだの中身の変化の実感によって、人間(=自分)とは何かを探検するいとなみを、体操とよんでいる。」とあります。
今から、約30年前、初めて野口先生とこの言葉に出会ったとき、とても衝撃を受けました。
「体操」という言葉に対して、そのような使い方をする人を知らなかったからです。
運動音痴だった私は、体操とは、人よりどれだけ上手に動けるかを競うもの、として捉えていたからです。
いまここ、相互のからだの動きを感じることのできないパソコン上で、言葉を手がかりに、話し合いをするということに、難しさを感じています。
「体操」という言葉は同じでも、その定義は人それぞれ違うでしょうし、「内側」「外側」という言葉にしてもそうです。
話し合うということは、話し合って、意見が一緒になることだけが目的でなく、違いを感じることも、目的になると思っています。だから、開かれたコメントという機能を、プログは付けているのだと思います。
言葉というものは、本来「分けるもの」ですから、その分けるもので、分けられない全体を表現することに、いつも苦労しています。
そんな時私はいつも、右足と左足を例に話をします。右足用の靴を左足には履けません。右足と左足は、一緒ではありません。じゃ別のものかというと、別のものともいえません。ひとつのからだに付けられた名前です。
もしよろしければ、直接私にメールを頂けないでしょうか。あるいは、私のプログにコメントをお願いいたします。
そちらで、お話し合いをいたしましょう。
k1s@siren.ocn.ne.jp
http://d.hatena.ne.jp/k1s