毎朝、日経新聞朝刊、昨年から始まっている『琥珀の夢』ー小説、鳥居信治郎と末裔 伊集院静 の連載を楽しみにして読んでいる。
大枚をはたいて一等客船に乗り込んで、神戸港から小樽まで船旅をする主人公は、本日は横浜港に入港した。
当時の日本、イギリス、中国の関係をさらりとした描写。
明治の開国期における、軍事、貿易、異国とのかかわり、そして主人がカルチャーショックを受けながらも貪欲に、すべてを吸収していく姿がイキキと描かれている。
読み終わって視線をずらすと、見出しの『なにを食べたか』の文字が飛び込んで来た。
書いた方は「馬場あき子」さん。
懐かしかった。
90歳近くになられているが、筆の具合からお元気な様子がうかがえる。
野口先生が存命のころ、朝日カルチャーセンターの「野口体操講座」を終えて住友ビルを出る折りに、入れ替わりに入っていらっしゃる馬場さんとすれ違うことがあった。
普段着よりはちょっとだけよそゆきの和服をさらりと着こなして、楚々として歩かれる姿は、日本女性のしなやかな趣の名残でもあったような印象を受けていた。
つい、振り向いて後ろ姿を追ってしまう失礼を、毎回のこと繰り返していたことを思い出しながら、エッセーを読み終えた。
「昭和20年(終戦の年)の大晦日の夜に何を食べたか」というインタビューを受けた時、全く何も思い出せなかった。そのことがそれ以来頭から離れなかった、という書き出しからはじまって、食料事情が戦時中よりもむしろ悪化したのは戦後のこと。そのあたりの事情が日常の出来事にのせて綴られている。
戦後71年たった馬場家の大晦日の食卓には、『手作りならぬ料理が並ぶようになった。色彩豊かな御馳走を眺めながら、あの日の大晦日の切実な食への思いがよみがえり、食の原点を忘れてゆく今日に感慨無量である』
結ばれていた。
我が家の食卓にもこのところ、手作りに混じって小田原から取り寄せる御節が数種類ならぶようになった。
以前は、野口先生のお宅にお届けすることもあって、ほとんどすべてを手作りし、その量も相当であった。
20年間は続いていたことだが、その後、父も亡くなったこともあって、少しずつ手抜きが始まって久しい。
今年は、取り寄せ分は変わらないが、手作りの分量を極力少なくしたので、残り御節もはやめに食べ終わっていた。
とはいえ三ヶ日を過ぎて、もまだまだ残っている。
手をかえ品をかえて、食べ残さないようにしているが、さすがに飽きてくる。
そんなとき包みをあけるものがある。
年末に送ってくださるお漬け物である。なかみは山東菜と沢庵の二種類。
今年はとくに驚いた。去年もそうだったのかもしれないが、沢庵の太さと長さである。
いちばん太いところはゆうに10センチはこえる。ということは漬け込む前の大根は、大きくて太いに違いない。
正月4日の朝、まな板の上に半分にたたんでおいた沢庵をしみじみ眺めながら、ふと有田焼の皿を思い出した。磁器を窯に入れる前の大きさは、焼き上がった大きさを比べると信じられないくらい大きい。
「高温で焼かれるためにものすごく縮むんです」という説明を受けながら、焼く前と焼き上がった後の皿を見せてもらったことがあったからだ。そのとき焼き物の材料となる、有田の石をもらってきた。この石を砕くと微粉になる。
いやいや、沢庵にもどろう。
ところが、母は沢庵を好まない。大嫌いである、という方は正確な現状を言いあらわしている。
そこで一計を案じた。
まず、山東菜を細かく刻む。そのあとに沢庵も細かく刻む。その刻んだものを一つの器に何気なく盛る。
その上に鰹の削り節とすりごまをパラパラとかける。
さらに、一滴二滴、神経を集中して、ほんの気持ちだけ醤油をたらす。
このおつけものをいただくようになった当初から始めたこの策は、毎年のこと大成功なのである。
白いご飯を口に運ぶ合間に、おつけものにも箸が伸びているの見届けて、抑え気味にほくそ笑む私である。
思いは巡る。
「例年になく野菜が高かった去年にも、どれほどの漬けものをつくられるのだろう」
お裾分けまで出来る量だから、想像がつかない。
そして山東菜も沢庵も、気持ちいいほど切れ味がよいので、数珠つなぎになることはない。
つまり新鮮な材料の状態で、漬け込まれたことが包丁と握る手に伝わる。
いただいたその味はとても深い。
板垣さん、ありがとうございます。
ごちそうさまです。
大枚をはたいて一等客船に乗り込んで、神戸港から小樽まで船旅をする主人公は、本日は横浜港に入港した。
当時の日本、イギリス、中国の関係をさらりとした描写。
明治の開国期における、軍事、貿易、異国とのかかわり、そして主人がカルチャーショックを受けながらも貪欲に、すべてを吸収していく姿がイキキと描かれている。
読み終わって視線をずらすと、見出しの『なにを食べたか』の文字が飛び込んで来た。
書いた方は「馬場あき子」さん。
懐かしかった。
90歳近くになられているが、筆の具合からお元気な様子がうかがえる。
野口先生が存命のころ、朝日カルチャーセンターの「野口体操講座」を終えて住友ビルを出る折りに、入れ替わりに入っていらっしゃる馬場さんとすれ違うことがあった。
普段着よりはちょっとだけよそゆきの和服をさらりと着こなして、楚々として歩かれる姿は、日本女性のしなやかな趣の名残でもあったような印象を受けていた。
つい、振り向いて後ろ姿を追ってしまう失礼を、毎回のこと繰り返していたことを思い出しながら、エッセーを読み終えた。
「昭和20年(終戦の年)の大晦日の夜に何を食べたか」というインタビューを受けた時、全く何も思い出せなかった。そのことがそれ以来頭から離れなかった、という書き出しからはじまって、食料事情が戦時中よりもむしろ悪化したのは戦後のこと。そのあたりの事情が日常の出来事にのせて綴られている。
戦後71年たった馬場家の大晦日の食卓には、『手作りならぬ料理が並ぶようになった。色彩豊かな御馳走を眺めながら、あの日の大晦日の切実な食への思いがよみがえり、食の原点を忘れてゆく今日に感慨無量である』
結ばれていた。
我が家の食卓にもこのところ、手作りに混じって小田原から取り寄せる御節が数種類ならぶようになった。
以前は、野口先生のお宅にお届けすることもあって、ほとんどすべてを手作りし、その量も相当であった。
20年間は続いていたことだが、その後、父も亡くなったこともあって、少しずつ手抜きが始まって久しい。
今年は、取り寄せ分は変わらないが、手作りの分量を極力少なくしたので、残り御節もはやめに食べ終わっていた。
とはいえ三ヶ日を過ぎて、もまだまだ残っている。
手をかえ品をかえて、食べ残さないようにしているが、さすがに飽きてくる。
そんなとき包みをあけるものがある。
年末に送ってくださるお漬け物である。なかみは山東菜と沢庵の二種類。
今年はとくに驚いた。去年もそうだったのかもしれないが、沢庵の太さと長さである。
いちばん太いところはゆうに10センチはこえる。ということは漬け込む前の大根は、大きくて太いに違いない。
正月4日の朝、まな板の上に半分にたたんでおいた沢庵をしみじみ眺めながら、ふと有田焼の皿を思い出した。磁器を窯に入れる前の大きさは、焼き上がった大きさを比べると信じられないくらい大きい。
「高温で焼かれるためにものすごく縮むんです」という説明を受けながら、焼く前と焼き上がった後の皿を見せてもらったことがあったからだ。そのとき焼き物の材料となる、有田の石をもらってきた。この石を砕くと微粉になる。
いやいや、沢庵にもどろう。
ところが、母は沢庵を好まない。大嫌いである、という方は正確な現状を言いあらわしている。
そこで一計を案じた。
まず、山東菜を細かく刻む。そのあとに沢庵も細かく刻む。その刻んだものを一つの器に何気なく盛る。
その上に鰹の削り節とすりごまをパラパラとかける。
さらに、一滴二滴、神経を集中して、ほんの気持ちだけ醤油をたらす。
このおつけものをいただくようになった当初から始めたこの策は、毎年のこと大成功なのである。
白いご飯を口に運ぶ合間に、おつけものにも箸が伸びているの見届けて、抑え気味にほくそ笑む私である。
思いは巡る。
「例年になく野菜が高かった去年にも、どれほどの漬けものをつくられるのだろう」
お裾分けまで出来る量だから、想像がつかない。
そして山東菜も沢庵も、気持ちいいほど切れ味がよいので、数珠つなぎになることはない。
つまり新鮮な材料の状態で、漬け込まれたことが包丁と握る手に伝わる。
いただいたその味はとても深い。
板垣さん、ありがとうございます。
ごちそうさまです。
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