羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

やってみてはじめて見えること・聴こえること・感じられること たとえ文字記録であっても

2022年08月19日 19時48分13秒 | Weblog
1960年から1974年の野口ノートを読みくだいて、どのノートに何が書いてあったのか、主な項目だけを手書きにしてみた。

そのほか10年以上も前だと思うが、関連書籍はバラして断裁機で切り離しデジタル化した。
同時に「野口三千三関係資料」として新聞・雑誌・月刊誌・手書き文等々もその時デジタル化しておいた。
それをどの端末でもみられるようにDropboxに上げてある。

今日は、試しにMacBook Airで、資料を一つずつ引き出して、軽く目を通してみた。
ところが、「やってみてはじめて分ること」を、すでに実感している。

まずは14年間だけだが野口先生の歩みを、ノートに記されている手書きを通して解読することで、どの時期に何を深掘りしていたか、どの時期に何を集中的に考えていたのかがわかったことで、照らし合わせて読んでみた資料がまったく変わって読むことができることに驚かされた。

自分の頭の中で、まだ記憶も新しいこともあって、ノートの内容と資料のそれが結びついて、より鮮明にその時点での先生の発想や行動が立体的に見えてくるような気がする。

私にとっては小学校高学年から音大を卒業して2年目までの14年間だ。
それなのに、イキイキと情景が浮かんでくるから不思議だ。

まさかノートを読む作業がここにつながってくるとは思ってもいなかった。
とんでもなく面白い。
しかし、これを文章にまとめるとなると、気が遠くなる。
もう一つ飛躍が必要だ。

実は、3ヶ月間、断裁機とスキャンスナップとPCを使って記録をデジタル化する作業を、ひたすらやり続けていた時も資料に目を通していた。
ところが、その時と今とでは、まったく印象が違う。
ノートを読み込んだことは無駄ではなかった。

行動する。
作業をする。
そうすることでしか方法は生まれてこない。
文字記録でも克明に記されたものならば、という条件であるかもしれない。
そして実際に体操を野口三千三先生から習い、断片的であっても折に触れて少しずつ聴いてきた話が理解の助けになってくれている。
些細なことが、決して些細でもなんでもない出来事に繋がる。
生きた記録とは、こういうことか。

それでも年の離れた相手と、たわいのないことも含めて話をする相手がいてがほしい、と今は思う。
それにはもうすこし、自分の中で整理しないといけませんね。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一歩踏み出す前に 「兵隊文庫」 | トップ | 活字として残っている、とい... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事