母が高齢者施設に入所して、一ヶ月が過ぎた。
まったく安心とまではいかないが、少しずつ落ち着いてきた。
この間、住まいの部分の片付けは、相当に進んだ。
残すものと捨てるものを仕分けして、かなりの量を捨てさせてもらった。
この際だから勢いに乗って、蔵の中のものを処分できるものから整理しよう、と流行りの「断捨離」を決行しようか、と考えてみた。
ひとつの理由は、簡単だ。
直近の母をみていると、元気そうなのである。
食事も完食するようになった。それも自分の箸で、自分の歯で食するのは普通食である。
ちゃんとお風呂にも入れてもえらえる。
入れ歯はない。口腔ケアは一週間に一度の割合で受ける手筈はととのって、すでに3回は受けている。
自宅にいたとき同様に常備薬はない。
トイレトレーニングも受けているようだ。
すべてこれでよし!とはいかないが、それなりに安定期に入ってくるのだろうことが、顔の表情からも読み取れる。
まだまだ長生きしそうな元気さを見てとった。
しかし、である。
「家に帰りたい」
一言も言わない。
それが不気味でもあり、有り難くもある。
で、ふと、思ったこと。
もし、仮に、私が先に死ぬようなことがあったら、この家はどうなるのか。
ぞっとした。
遺品整理を誰かにおねがいせねばなるまい、と。
想像すると気が遠くなるのである。
たとえプロの業者に頼むとしても、それだけではすまされない事情がある。
たとえ誰かが采配を引き受けてくれる、としても気の毒である。
どうするの!?
まったくお手上げ。
「捨てられるものから、手をつけはじめようか……」
そう簡単ではない、と思った矢先に親戚の者と電話で話した。
「操ちゃん、年内はまだ手を付けない方がいいと思うわ。まだ六十代でしょ……」
その一言で冷静になれた。
施設は近くにあるとはいえ、68年ともに暮らした母と別れたばかりなのだから。
お互いに心の内は尋常ではないはず。
そのような状態でくだす判断は危うい、ということを遠回しに言ってくれたのに違いない。
時がくれば自然にからだが動いて片付けるだろう、と自分を信じてみることにした。
半地下に二階建ての蔵の建坪は、およそ十五坪である。
捨てるものばかりである、と想う。
それもひとりでは片付けられない事は自明である。
今、すべきことは、時間をかけて自分自身の老後の暮らしも視野に入れて、よーく、案を練ることだ。
それって、実は、大変なこと。
つまり、安易に「断捨離」をしていけない、という結論に至った。
そこで思い出した言葉がある。
甲骨文字研究に没頭したなかで見いだした野口三千三の名言だ。
「信」という漢語にそのままぴったりの和語はない、という前提をおっしゃる。
たどり着いた「信」の訓みは、ひとつではなかった。
『「信(じる)」とは、負けて・参って・任せて・待つ』
思わず、膝を打った。
信じてみよう。
「機が熟す」
死んだあとではなく生きているうちに、その時はかならずくる、と。
極端な話「死んでしまえばおしまいよ」
腹をくくった。
なんだか、急に楽になった。
あッ、これが「断捨離」なのか?!
まったく安心とまではいかないが、少しずつ落ち着いてきた。
この間、住まいの部分の片付けは、相当に進んだ。
残すものと捨てるものを仕分けして、かなりの量を捨てさせてもらった。
この際だから勢いに乗って、蔵の中のものを処分できるものから整理しよう、と流行りの「断捨離」を決行しようか、と考えてみた。
ひとつの理由は、簡単だ。
直近の母をみていると、元気そうなのである。
食事も完食するようになった。それも自分の箸で、自分の歯で食するのは普通食である。
ちゃんとお風呂にも入れてもえらえる。
入れ歯はない。口腔ケアは一週間に一度の割合で受ける手筈はととのって、すでに3回は受けている。
自宅にいたとき同様に常備薬はない。
トイレトレーニングも受けているようだ。
すべてこれでよし!とはいかないが、それなりに安定期に入ってくるのだろうことが、顔の表情からも読み取れる。
まだまだ長生きしそうな元気さを見てとった。
しかし、である。
「家に帰りたい」
一言も言わない。
それが不気味でもあり、有り難くもある。
で、ふと、思ったこと。
もし、仮に、私が先に死ぬようなことがあったら、この家はどうなるのか。
ぞっとした。
遺品整理を誰かにおねがいせねばなるまい、と。
想像すると気が遠くなるのである。
たとえプロの業者に頼むとしても、それだけではすまされない事情がある。
たとえ誰かが采配を引き受けてくれる、としても気の毒である。
どうするの!?
まったくお手上げ。
「捨てられるものから、手をつけはじめようか……」
そう簡単ではない、と思った矢先に親戚の者と電話で話した。
「操ちゃん、年内はまだ手を付けない方がいいと思うわ。まだ六十代でしょ……」
その一言で冷静になれた。
施設は近くにあるとはいえ、68年ともに暮らした母と別れたばかりなのだから。
お互いに心の内は尋常ではないはず。
そのような状態でくだす判断は危うい、ということを遠回しに言ってくれたのに違いない。
時がくれば自然にからだが動いて片付けるだろう、と自分を信じてみることにした。
半地下に二階建ての蔵の建坪は、およそ十五坪である。
捨てるものばかりである、と想う。
それもひとりでは片付けられない事は自明である。
今、すべきことは、時間をかけて自分自身の老後の暮らしも視野に入れて、よーく、案を練ることだ。
それって、実は、大変なこと。
つまり、安易に「断捨離」をしていけない、という結論に至った。
そこで思い出した言葉がある。
甲骨文字研究に没頭したなかで見いだした野口三千三の名言だ。
「信」という漢語にそのままぴったりの和語はない、という前提をおっしゃる。
たどり着いた「信」の訓みは、ひとつではなかった。
『「信(じる)」とは、負けて・参って・任せて・待つ』
思わず、膝を打った。
信じてみよう。
「機が熟す」
死んだあとではなく生きているうちに、その時はかならずくる、と。
極端な話「死んでしまえばおしまいよ」
腹をくくった。
なんだか、急に楽になった。
あッ、これが「断捨離」なのか?!
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