羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

野口先生の高崎・中山道・烏川・・・

2019年03月24日 14時10分03秒 | Weblog

先日の群馬の旅で、生まれてはじめて無人駅に降り立った。

高崎駅から10時54分の下仁田行きの上信電鉄に乗る予定で、高崎市立中央図書館を早めに切り上げた。

道路ぎわの街路灯に「高崎映画祭」と書かれた旗に気を取られて、高崎駅までのんびりと歩いてしまった。

駅に到着すると、時間はギリギリ。わかりにくい場所を通り抜けて、電車が停車してる場所が、案外遠いことに気づいた。

時すでに遅し。

「乗せてくださーい」

大きな声をあげると、改札とホームにいる駅員さんが

「大丈夫ですよ」

声をかけてくれた。

走って飛び乗った電車は、私のために数分遅れて、発車。

息急き切って乗って乗ったかともうと、3駅目には「佐野のわたし駅」に到着。

改札口はない。

申し訳程度の屋根のあるベンチは可愛らしい雰囲気であった。

その時はじめて、無人駅であることを知った。

降りる際に運転手さんに切符を手渡した意味が、わかったのだった。

さらに単線であった。

周辺にはレンゲの花が咲いている。のどかな村である。

さて、そこからお目当の野口三千三先生が、昭和14年から18年までつとめた当時は「佐野尋常小学校(佐野国民学校)」と呼ばれていた「佐野小学校」へ向かうことにした。

なんとなくの方向を見定めたものの、自信はなく、駅で一緒になった8名ほどの保育園児を引率する保母さんに学校の道順を聞いた。

途中まで一緒に行くこととなった。

この駅は、烏川に近く海抜が低い。

まず大通りに出るためには、急な坂を登らなければならなかった。

園児達をかばいながら、ゆっくりと歩く。

その間、自動車の往来はかなり激しい。

最初の曲がり角で皆さんと別れて、それから延々1キロメートル以上、歩き続けた。

最後の大通りは中山道で、倉賀野方面とは逆方向にさらに歩く。

それでも数分のうちに教わっていて歩道橋に出る。

そこに佐野小学校に通じる細い道があって、無事たどり着くことができた。

ここまでの道みち、周辺は住宅地ばかりで、養蚕農家もあったはずだが畑は全くなくなっている。

小学校で、写真をとらせてもらって、20分くらいで帰りもまた同じ道に出た。

すると、バス停で、見知らなぬ中年の女性が、手を振って私を呼んでいる。

「高崎へいらっしゃるんでしょ」

「はーい」

また走った。

勘のいい女性だった。

二人でバスに乗り込んで、話をし続けた。

「昭和14年ごろ、高崎市内から佐野小学校まで通うには、歩いたんでしょうか」

「えー、そうね1・5キロくらいだから、歩いたかもしれませんね」

後ろに座っていた男性が話に加わる。

「私も今、散歩して、高崎に帰るところ。歩いたってどってことありませんよ」

「自転車ってこともありますよ」

他の乗客も話に入ってくる。

するとバスの運転手さんが

「当時だって、路線バスはあったはずですー」

私と女性の声が大きかった。

数名しか乗っていないバスの乗客が全員参加で、野口先生が佐野小学校に通った方法を考えてくれたのだった。

行きに乗った上信電鉄といい、帰りに乗った路線バスといい、皆さん親切である。

ちなみに、倉賀野宿は中山道六十九次(木曽街道六十九次)で、江戸から数えて12番目だそうだ。

江戸期には、烏川の舟運搬の河岸にあって賑わっていた。

 

思い出すことがある。

「ここは、旧中山道だよ」

野口先生の西巣鴨の家は、旧中山道に近いところにあって、そのことを嬉しいそうに教えてくれたことがある。

先生の声の調子から、中山道・烏川、という街道名と川の名前を言う時には、いつも特別な響きを感じていた。

ゆかりの地を訪ねて、歩いて、はじめてわかることってあるんですよね!

野口先生にとって、高崎、中山道、烏川は、深い愛着のある街であり街道であり川だった、のだ。

なんとなく実感が、私にも乗り移ってくれたようだ。

旅の収穫であります。

コメント
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