羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

生糸先物、115年の歴史に幕(日経新聞記事)

2009年10月01日 08時53分06秒 | Weblog
 今朝、この記事に目が止まった。
「そうなのか。生糸は穀物商品取引なんだ」
 なんでも1872年に富岡製糸場が創業を開始して、1894年には横浜蚕糸外四品取引所で生糸の先物取引が始まったとある。
 当時上場された四品目とは、製茶、綿布、織物、海産物。
 第二次世界大戦後も活況を呈した横浜商品取引所(当時は横浜生糸取引所)の年間受渡高は1970年に4万6600俵(1俵=60㌔)で過去最高を記録した。
 その後、国内産業の軸足が重工業にシフトして繊維産業が低迷し、化学繊維におされて生糸市場も縮小に縮小を重ねて、とうとうこの9月30日をもって東京穀物商品取引所の生糸取引が115年の歴史に幕を下ろした。
 現在、生糸の国内流通の9割が中国産で、国内取引価格も中国オファー価格と為替で決まっていると書かれていた。

 記事を読みつつ、お目にかかったこともない野口先生のお母様を思い浮かべた。
 なんでも大久保小町と呼ばれたおっか様は、熱湯で茹でている繭から熱いうちに糸を紡ぎ出す作業を行い、さらに町からやってくる仲買人を相手に値段の交渉をして、養蚕農家の現金収入を支えていらした姿に心を打たれたと伺ったことがある。

「仲買商人が計算を出すまえにおっかさんが金額を出すんだよね。それで相手が間違うとさっと訂正するんだよ。その計算の速さといったらない。子供ながらに感心しちゃったんだ」
 野口先生としては、生きているうちにその計算の仕方を習っておかなかったことが悔やまれるとおっしゃった。
「おっかさんなりの計算方法を身につけていたんだと思うよ」

 かつて日本の農家では、専業の養蚕農家でなくとも蚕を飼って生糸をつくっていた。
 農家が蚕を飼わなくなった時期と、その後の食料自給率低下が始まる時期が一致している。
 この記事に添えられている生糸束の写真からは、真珠光沢を思わせる艶が輝きをはなっているだけに、先物取引など関係がない私でさえ大事な何かが失われた歴史に寂しさを覚える。

 以前、柏樹社が出していた「月刊・柏樹」の連載に、野口先生のご実家の養蚕農家の暮らしを書かせていただいたことがある。
 そのとき写真家の佐治さんは、横浜のシルクセンター(?)まで足を運んで‘生きている蚕’を撮影してくださった。
 文章に写真を加えて掲載させていただいたことを懐かしく思い出す。
 明治以降、生糸は日本の主力輸出品のひとつとして輝いていたのだった。
 だから横浜なのだ。

 何十年先かは分からないけれど、中国に取って代わられるもの、次は自動車か?
 昨日から報道されているトヨタの米国内でのリコールは嫌なニュースだった。台数が凄いもの。
 
 シュウカツに奔走している若者が、先を見越すのは並大抵ではなさそうだ。
 この状況では起業にも二の足を踏む。
 時代の変化がはやすぎる。
 話が飛びすぎたが、なんともはや行く末が案じられる秋のはじまりである。
コメント (4)
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