電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

白石一郎『海狼伝』を読む

2015年05月29日 06時19分02秒 | 読書
文春文庫で、白石一郎著『海狼伝』を読みました。第97回直木賞受賞作とのことですが、1987年に該当するようです。ジャンルとしては海洋時代小説ということになるのでしょうか、海を舞台にして、戦国武将や海賊たちが中心となって描かれます。

主人公は笛太郎。はじめはあまり大物には見えませんが、どうやら心優しき若者らしい。別の言い方をすれば、仁徳のある若者が船大将に成長する話です。笛太郎は、海を渡って帰ってこない夫・三島孫七郎を20年も待ち続けている母と二人、対馬で暮らしています。そこへ、海賊の宣略将軍が、青く塗ったジャンク船「青竜鬼」と共に帰郷します。母の紹介状を手に、義理の大叔父にあたるという宣略将軍のもとへ出向いた笛太郎は、麗花という明国の女武者と立ち合って敗れ、重臣の金崎加兵衛の配下にさせられてしまいます。船が好きな笛太郎は、将軍の焚書の手伝いをする隙を見つけて航海書を抜き取り、「青竜鬼」という50人乗りジャンク船の、和船にはない優れた構造と性能に魅力を感じます。宣略将軍の一党は残酷な海賊行為を続けますが、笛太郎は宋人で薩摩の奴隷となっていた屈強な男・雷三郎を助け、信頼を得ます。舵取りの才能を発揮する笛太郎に、武術に優れる雷三郎は良い相棒になったようです。

同じ海賊と言っても、やっぱり上には上がいるもので、たまたま襲った商船を守っていたのが、瀬戸内の村上水軍の船でした。作戦も統率が取れており、火薬を使う火攻めも巧妙です。笛太郎と雷三郎は、逆に捕えられて村上水軍の捕虜となってしまいます。そこでも笛太郎の父親の名前が効果を発揮し、命は助かりますが、銭勘定が得意で独立心の旺盛な小金吾の配下となります。村上水軍は、織田信長と対立する毛利方に付き、石山本願寺に物資を輸送することを請け負い、織田軍をさんざんに打ちのめします。
ところが、たまたま分捕った盗人船に乗っていた者たちの中に、雷三郎の同郷の女・玉琴がいたことがきっかけとなり、まわりまわって大山祇神社の三の乙女・晴と笛太郎が仲良くなります。小金吾と笛太郎、雷三郎らは、ボロ船を入手して改装し、巧みに商売をして稼ぎます。もっと儲けたい小金吾は、対馬の宣略将軍を仲介役に頼み、朝鮮との交易を企てますが、逆に宣略将軍に捕えられ、積み荷を横取りされただけに終わり、船はかろうじて脱出に成功します。

第二次石山合戦では、毛利水軍は織田信長が建造した鋼鉄張りの巨船に圧倒され、完敗します。しかし、小金吾は、配下の水夫を増やすために、水に浮かぶ兵たちの中から敵方だけを選んで救い上げます。その中の一人、小矢太は深江浦の船大工で、信長の鋼鉄船を作った男でした。しかも、大鉄砲も造れるという、船に関しては実に詳しい、得難い人材です。海賊に負けない商人船とするには、鉄張りで船を守るよりも、船足が速く逆風に負けずに航行でき、大鉄砲を備えたものが良いという持論を聞き、小金吾は全財産をはたき、さらに借金までして、南蛮船「黄金丸」建造します。
あまりに見事な出来上がりに、欲しくなった村上水軍の頭の村上武吉は、部下の船を横取りしようと攻撃して来ますが、黄金丸は村上水軍を軽く撃退。晴と玉琴を乗せて向かったのは、笛太郎の母親のところでした。そして、小金吾のうらみを晴らすべく、対馬の青竜鬼と対決しますが、南蛮船とジャンク船の勝負はどうなるのか?! というお話。



乗組員を生きたまま海に「捨てる」などというシーンも多く、捨てられる身になった時のことを想像すると恐怖ですが、まあ、わりにおもしろく読みました。

化学専攻らしい詮索を一つだけすると、火薬の製造について:

しかし硝石はどこにでもあるというものではなかった。古い家の床下とか洞穴のなか、しかも湿気のない土の中に少量含まれている。その土を水桶に入れて上澄みをとり、それを釜で何回も煮沸し、たいへんな手間をかけてようやく取れる。硝石に硫黄と灰、樟脳などを混ぜ合わせて、火薬が生まれる。(文庫版:p.178)

と、このように説明しています。しかしながら、これはいささか不正確でしょう。戦国時代の硝石の製法はもう少し合理的で、たとえば越中五箇山の硝石(煙硝)製造は、合掌造りの家の床下に四畳半くらいの深い穴を掘り、ここに麻畑の土やヨモギなどの干草、蚕の糞などを積んだ上に人や馬の尿を大量にふりかけ、土中の硝化細菌の作用でアンモニアを硝酸塩に変化させるというものだそうです。いわば、戦国のバイオテクノロジーが基礎になった秘伝・秘法と言えるでしょう。
また、当時の火薬と言えば黒色火薬でしょうが、その成分として、炭素粉がないのもおかしい。「灰」とあるのは、もしかすると炭灰つまり粉末状の木炭なのではないかと思われます。

もう一つ、日中の交易の観点から言えば、中国では硝石は取れたが硫黄が不足しており、日本は硫黄は豊富だったが硝石が不自由だった。そこに、海上の「硫黄の道」が誕生したという、日宋貿易の理解が新鮮な歴史書(*1)を読んだ記憶も鮮明です。時代はだいぶ異なりますが、興味深いことです。

(*1):山内晋次『日宋貿易と「硫黄の道」』を読む~「電網郊外散歩道」2012年10月

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