電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

明治初期の化学教科書の著者と翻訳者

2015年05月30日 06時06分52秒 | 歴史技術科学
明治初期に発行され、初等中等教育において広く用いられた教科書として、ロスコウ著『小学化学書』があります。この本の実物は、山形県内では県立博物館の教育資料館(*1)で見ることができますが、1872(明治5)年に発行された原著"Chemistry"(Science Primers-第2巻)を、市川盛三郎が翻訳し、1874(明治7)年に文部省が発行したものです。原著の発行にはイギリス側の事情が興味深いものがあり、日本での翻訳の素早さと発行までの期間の短さは驚くばかりです。

まず、原著の発行の事情です。1866年から11年間続いた南北戦争によって、米国南部からの綿花の輸入が急減し途絶えます。これによって、産業革命の柱の一つであった英国ランカシャー地方の工場の操業が止まります。これに対し、労働者に同情したT.H.ハックスリー(Huxley)やチンダル(Tyndall)などが、労働者の資質向上による再就職を狙い、通俗講演会を開きます。また、マクミランの要請によって、1870年にロスコウ、ハックスリー、スチュアート(B.Stewart)が編集者となり、Science Primersという叢書が編集・刊行されます。大沢眞澄(*2)によれば、この刊行の趣旨は、

  1. 学校において年少者の第一段階での教科書として使えるもの、
  2. 実験はきわめて容易な生徒自身が行えるもの
  3. 実験を基礎に学習を進めるもの
  4. 各科の学習順序が入門→化学→物理学のように教育的配慮がなされているもの
  5. 廉価であるもの(定価は1ペニー)

とするとのことです。
このうち、第2巻「Chemistry」は、内容が優れていたために広く普及し、ドイツ、アイスランド、ポーランド、イタリア、トルコ、インド、日本などで翻訳が行われたのだそうです。

この「Chemistry」の翻訳は、1873年版の原著が刊行された翌年の1874(明治7)年10月に、文部省から刊行されます。原著刊行から日本語版の刊行までの期間の短さに驚かされますが、さらにこの序文の内容が、まったく現代に通じるような、たいへん興味深いものです。現代表記に直せば、

原序
この書は化学の原理を説き、童蒙をしてその大意を知らしむるものなり。ただし、その主意たるや、いたずらに事物の理を論じ、生徒をしてこれを暗記せしめんと欲するにあらず。その要する所は生徒を誘導し直に造化に接して自らその妙理を悟らしむるにあり。これがために許多の試験(注:実験のこと)を設け、各事、もっぱら実地についてその真理を証するを旨とす。ゆえに教師たる者、丁寧にこの諸試験(実験)をなして生徒に指示せずば有るべからず。このごとくすれば生徒自ら事物を見てその理を考えるに慣習して大いに利益ありとす。また、時に問を設け生徒をしてこれに答えしめ、その学力進歩の多少を試みることもっとも緊要とする所なり。
                1873年 ロスコウ識るす。

というものです。ファラデーが示し、リービッヒがシステマティックに開始した教育システムの中心にある、理論と実験を通じて化学を学ぶという方法が、ここでも貫かれていることがわかります。

著者のロスコウ(Sir Henry Enfield Roscoe,1833-1915,*3)は、1833年にロンドンに生まれ、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでウィリアムソン教授らに学んだ後、大学卒業後にドイツのハイデルベルグ大学の、リービッヒの盟友であったブンゼンを訪ね、1855年に助手となり、老ブンゼンを助けて働きます。都市ガスが普及するロンドンで購入してきた一本立てのガスバーナーをブンゼンと共に改良し、今日化学実験室に普及するブンゼンバーナーに改良したほか、この無色の炎を利用してセシウムとルビジウムという新元素を発見、また光が化学反応を促進することを追及し、光化学の変化量は吸収した光のエネルギーに比例するというブンゼン・ロスコウの法則を発見して、光化学の分野の開拓者となります。


(左から、キルヒホッフ、ブンゼン、ロスコウ)


(晩年のロスコウの執務姿)

ロスコウとブンゼンの師弟関係は親密で、学生が実験を通じて化学を学ぶという思想とスタイルをそのままに受け継いだようです。このロスコウのところに留学していたのが杉浦重剛(*4)で、彼は途中で挫折しましたが、帰国後に本書の翻訳を監修します。そして、直接に翻訳に携わったのが、市川盛三郎でした。

市川盛三郎は、1852(嘉永5)年8月に、幕府の洋学者の子として江戸に生まれます。幼時より才能をかわれ、川本幸民(*5)がいた幕府開成所に入り、1866(慶応2)年に幕府の留学生としてロンドンに向かいますが、1968年に幕府が崩壊したことにより帰国、補助的な立場で教職に就きます。1870年11月より、大阪理学所においてお雇い外国人教師リッテルを助け、各種の著作の翻訳編集にあたります。1873(明治6)年に東京に移り、この頃に『小学化学書』を翻訳したようです。21歳のことでした。
1875(明治8)年養子となって平岡姓を名乗り、1877(明治10)年にはマンチェスターのオーウェンズ・カレッジに私費留学、病を得て1879(明治12)年に帰国し、1881(明治14)年には東京大学理学部教授となりますが、翌1882年に病没、31歳の若さでした。

(*1):山形県立博物館の教育資料館
(*2):大沢眞澄「明治初期の初等化学」(『科学と実験』1978年10月号)
(*3):ヘンリー・エンフィールド・ロスコー~Wikipediaの解説
(*4):明治初期の留学生の行先~「電網郊外散歩道」2015年2月
(*5):北康利『蘭学者川本幸民』を読む~「電網郊外散歩道」2008年9月

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