電網郊外散歩道

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藤沢周平『風の果て』下巻を読む

2007年04月10日 06時56分07秒 | -藤沢周平
文春文庫版、藤沢周平著『風の果て』下巻は、物語の転機となる町見家の田口半平の来訪準備から始まります。町見家とは、今で言う測量技術者のことでしょう。

若い田口は、阿蘭陀流の町見術を修めていますが、まだ藩内では顔も名も知られてはいません。代官に昇進している桑山隼太は、太蔵ヶ原に水を引き、三千町歩の美田を実現し、藩政の一角に食い込みたいのです。田口の護衛役を頼んだ野瀬市之丞に鼻で笑われても、苛政を少しでも和らげることができれば、と願うのでした。しかし、凶作続きのある年に、苛政にあえぐ百姓の不穏な動きに対し素早く的確に対処した桑山隼太に対して藩首脳が示したのは、左遷人事でした。

転機となったのは、田口半平から届いた図面と、杉山中兵衛を中心とする大黒派追い落としの政変です。執政の座に就いた杉山は、桑山隼太を郡奉行に任命しますが、野瀬市之丞にはなんの褒賞もありませんでした。そういえば、命に服さない旧大黒家老とその息子を葬ったのは野瀬市之丞でしたが、あの日の政変劇の際にも、野瀬はひそかに暗躍しておりました。

杉山は、太蔵ヶ原の開墾費用を、国元の政商・羽太屋重兵衛に出させるという隼太の案を認め、開墾事業の進展とともに藩主も桑山隼太という存在に次第に信任を厚くします。郡奉行から郡代に進み、さらに中老に推挙される頃、旧友杉山忠兵衛は隼太をライバルと見なしはじめますが、隼太はじっと機をうかがいます。最大の政変劇は、藩主と家臣団の居並ぶ前で演じられ、ドラマチックかつ見事です。

政敵・杉山を追い落とした後の執政としての藩政の苦労は、やはりかわりがありません。財政問題には、特定の悪役などいないからです。そんな中に行われた旧友・野瀬市之丞との果し合いの情景には、老年に入った者の、取り返しのつかない年月の重みが描かれているようです。

本文中(p.51)より、まだ敵味方に分かれる前の野瀬市之丞との対話。

それにしても、過ぎ去ったつつましい思い出が、消えるどころか、だんだん好ましさを増して思い出されて来るのはなぜだろうか。
「そうか」
気を取り直して隼太は言った。
「おれは愚痴を言ったりしちゃいかんのだな」
「愚痴なんぞ言うな、おれも言わん」
市之丞が酔いの回った声で言った。二人は比丘尼町から肴町の表通りに出ていた。そのまま行けば青柳町で、市之丞はその前に横町に入らないと、家に遠くなる。
「おれはおれの道、おまえさんはおまえさんの道を行くしかない。ひとそれぞれだ。いちいち後悔してもはじまらん」
通行人の姿もない道に、市之丞の声がひびきわたった。そして市之丞は、不意に片手を上げると、右手に現れた路地に入っていった。

このあたりの余韻は、中年の感傷とばかりは言えない気がします。
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