電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

『藤沢周平未刊行初期短篇』執筆時期の秘密

2007年04月24日 06時10分33秒 | -藤沢周平
文藝春秋社から発行された『藤沢周平未刊行初期短篇』について、先に執筆時期を「昭和37年11月から39年の8月号の月刊雑誌に発表された、藤沢周平が最初の夫人である悦子さんと暮らした時期、しかも娘が生まれ(38年2月)妻が病死する(38年10月)、まさにその時期の作品群」と紹介(*)しました。

これを書きながら、不思議に思ったことがありました。それは、業界新聞に勤務しながら、しかも妻の発病と死という過酷な時期に、なぜ小説など書く余裕があったのだろうか、という点でした。

地元紙の木曜日の夕刊に連続して特集されている藤沢周平没後10年の記念の記事に、まさにその疑問に答えた記事が掲載されました。筆者は、藤沢周平氏が入学した山形大学の同期生で、ずっと交友の深かった蒲生芳郎氏です。

蒲生氏は、平成19年4月19日付けの山形新聞夕刊で、「死にゆく妻を看取る合間に、その枕辺で」書き続けたのは、「今にも崩折れそうな精神を書くことによって支えようとする作家魂というよりは、妻の命を一日でも長かれと未認可の特効薬を買い求めながらの入院費を支えるための血の滲むような作業だったかもしれない」と書いています。

藤沢周平『半生の記』では、この間の事情は詳しくは語っていませんし、作者自身は年譜に対してもこれらの初期作品を秘匿したように見えます。妻の発病と入院、闘病生活を支えるため、お金のために作品を書き、それが空しい結果となったとき、小説を書く目標は明確に違ったものになったのではないか。妻の死によって中断された雑誌連載は、ほぼ一年間の沈黙に変わります。この沈黙の時期に、運命の不条理に憤る作家・藤沢周平への再生が行われたのかもしれません。

(*):「藤沢周平未刊行初期短編」を読む
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