電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

『ながい坂』と『風の果て』

2007年04月18日 06時24分55秒 | -藤沢周平
先日、藤沢周平の『風の果て』上下巻を読み終えた勢いで、山本周五郎の『ながい坂』を読みました。この二つの作品は、物語の構造と言う点で、よく似た面があると感じます。どちらも剣の腕の立つ下級武士が出世して藩の執政等、臣下のトップになる話ですし、その間の権力闘争が描かれるところも共通です。引き立てる君主が暗愚ではなく、英明なところも共通でしょう。荒地の開墾が舞台として重視されるところも似ていますし、藩の財政窮乏で資金源を大商人にあおがざるをえないところも共通です。複数の女性が登場し、一方は無理解で、他方は日陰の理解者、というところも似ています。そういう意味で、物語の基本的な構造に共通性を感じるのだと思います。

しかし、この二つの作品は、たとえば次の点でだいぶことなっています。

まず、『ながい坂』の主人公は、主君を除き、家族にも周囲にも理解されず、きわめて孤独な存在ですが、『風の果て』の方は若い時分の友情とその結末を描き、決して孤独な存在ではありません。最後の野瀬市之丞との果し合いにしても、旧友を討ち取った辛い体験から歪んでしまった半生と死病の結末を、ライバルであり理解者でもあった隼太との対決によって幕を引くことを望んだ、とも読み取れます。「どーせ死ぬなら、あいつも道連れにするか、あいつの手にかかって死にたい」という境地でしょうか。

また、『ながい坂』では、おてんばじゃじゃ馬娘が結局は主人公にくびったけになりますが、『風の果て』では母娘ともにわがままし放題の悪妻のままです。出世してから物欲のないのが救いだと書かれてはいますが、女性の見方はかなりリアルです。
濡れ場の描き方もだいぶ違います。『ながい坂』では、銀杏屋敷の場面など少々下品な描写があり、作品の印象をだいぶ落としていますが、『風の果て』では出戻りの下女の真情を抑制された筆致で描いています。

山本周五郎『ながい坂』の初出は昭和41年、藤沢周平『風の果て』の初出は昭和60年。
1950年代の米ミュージカル映画に登場する可憐で可愛いヒロインの性格と、「マイフェアレディ」のような可愛いだけではないヒロインの描き方のように、時代の差というものがあるのでしょうか、それともあくまでも作家の個性の範囲にとどまるものでしょうか。
興味深いところです。
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