「サクラ(桜)」の葉が、少しずつ染まり始めました。赤でもなく、オレンジ色でもなく、その中に、かなりピンク色が入っているような、そういう不思議な色なのですが。それ故でしょうか、離れてみると、雨に濡れた黒い幹が浮き上がって、樹全体がピンクの靄がかかっているような具合なのです。本当にきれいな樹です。(「サクラ」の樹がこうなった)ということは、そろそろ里でも紅葉の季節になろうとしているということなのでしょうか。
さて、今日は、霧に包まれた朝で明けました。それも、学校へ着く頃にはかなり晴れ、強い陽射しが戻っています。今朝は、少しも寒くありません。マフラーなしで、皆、スッスッと歩いています。
ところで、ベトナム人の学生のことなのですが、来日後、彼等の苦難は、まず、お金のことから始まります。アルバイトを始める前は、ごく少人数を除いて、皆、定刻に来ますし、それなりに楽しんで勉強しているのです。ところが、アルバイトが始まってしまうと、疲れてしまって、勉強どころではなくなってしまうのです。これも、精神的なこともあるでしょうが、まず体力的にそれほど無理が利かないのです。
以前の中国人学生だったなら、こなしてしまうような量でも、時間の長さでも、彼等にとってはそうではなく、随分身体に堪えるようなのです。これも日本語がなかなかうまく話せないということから、できる仕事というのが限られてしまい、そのせいで、もらえた仕事にはかなりの無理をしてしまうことから来るのでしょう。
それで、学校としても、彼等がこういう状況にあるのなら(今の学生達の大半は、アルバイトをせずに学校へ通えるものなら、能力の問題はさておき、きちんと学校に来て勉強したいと言います。また私たちから見ても、それは本音であると思います)、それに応じた対策を取らねばということで、彼等向きにカリキュラムやら、授業の形態を変えてみたり、果ては教科書まで換えなければならないのではないかとまで思っているのです。
勿論、こういう学生がいるので、授業の形態も変えてみましたし、カリキュラムも彼等向きにしています。が、こういう、(言い方は悪いのですが)小手先でやれることは、皆、やってみた上で、やはり、教科書から換えていかなければならないのではないかと思うようになったのです。
まだ試みです。このやり方で彼等が今よりも読解力がつき、「話す」「聞く」が少しでも上の段階に行けるかどうかは、やってみなければわかりません。問題があれば、その都度変えていきます。これは彼等だけの問題ではなく、もしかしたら、次に来るベトナム人学生も同じようであるかもしれないのです。
彼等が学ぶ上での問題点の多くは、発音が区別できないということから来ています。勿論、彼等だけではなく、中国の福建省から来ていた学生にも発音上の問題はありました。けれどもそれは「ラ行」と「ナ行」との区別が出来ないくらいのものでしたし、タイの学生も、この発音の問題はかなり厳しいものがあったのですが、一見、同じようであっても、タイの学生の方が早くにそこから抜け出すことができたのです。これは母国での勉強の仕方が違っていた故かとも思われるのですが(定かなことはわかりません)。
このベトナム人学生の場合、まず先に単語を完璧に覚えておく、書けるようにしておくという作業が一人では出来ない人が多いのです。言いながら書く(口も手も、そして聞く耳も、それを見る目も使うわけですからこれはとても大切なことなのです)が、いくら言ってもそうしない、できないのです。そして、ディクテーションやテストの時には、いともたやすく周りの答えを見て書こうとします。多分、彼らの国では、いつもそうしてきたので、努力して書けるようにすることなど、愚かしい作業に過ぎぬとしか思えぬのでしょう。
けれども、この学校ではそういう考え方を、たとえ二年丸ごとかかろうとも、粉砕していこうと努力しています。当然のことながら、そういう老婆心が全く相手の心に響かないということもあります。けれども、たいていの場合、私たちが見ているところではそれをしなくなります。少しでも席を外せば、直ぐに教えあうというのは、何もベトナム人学生だけのことではありません。タイの学生も、ミャンマーの学生もスリランカの学生も中国人の学生もします。
まず、教師がいるところではしないようになるということが、第一番目の目標なのです。それは「ずるいことだ」と思うようになることが。
こう言いますと、では、お金がある学生を選んで連れてきたらどうだとよく言われます。けれども、これは、お金の問題ではないのです。勿論、彼等の家庭が留学させることが出来ないほど、そのための資金を準備できないほど貧しければ、日本でアルバイトしても全部国に送ってしまうでしょうから、勉強することなど全く出来ません。これでは、学校に入っているという意味がありません。ですからこれでは困るのです(何となれば、私たちは教えたいのです)。
彼等の家庭でも、「勉強が大切だということを知っている。そのための準備はしてやれる。けれども、日本に来たら、頑張って自分の力で勉強して生き抜いていけ」くらいのものは欲しいし、学生にもそれくらいのたくましさが欲しいのです。
お金と言えば、この学校にも、ベトナム人で、お金に少しも不自由しないという学生がいたことがあります。けれども、こりゃ、うちには必要ないわと言いたくなるような人でした。するのは「ふり」だけ。如何にも自分は頭がいい、勉強ができるのだと言わんばかりに、全く読めない(そうとしか思えない)文法書を開けているのです。その時学んでいる教科書は見ずに、勉強と全く関係のないところを開いているのです。みんながしていることなどちゃんちゃらおかしい、自分はもっと上のレベルだというふうに。
こういうのも疲れるだろうと思うのですが、こういう人はこういうこと(見え)で、疲れるのを全く意に介さないようで、その意味ではタフな神経だなと思います。
ここの学校では勉強したい人、が、ほしいのです。お金があっても勉強しない人は、困るから要りません。自分の国で勉強できるなら、わざわざ大金を使って外国へ行く必要などないのです。外国へ行くと言うことは、自分の国では見つけられない何かを求めて行くのです。そのためにその外国、ここでは日本ですが、の言葉が必要なのです。
それが、おそらくは、こういう日本語学校の存在する意味なのでしょう。
日々是好日
さて、今日は、霧に包まれた朝で明けました。それも、学校へ着く頃にはかなり晴れ、強い陽射しが戻っています。今朝は、少しも寒くありません。マフラーなしで、皆、スッスッと歩いています。
ところで、ベトナム人の学生のことなのですが、来日後、彼等の苦難は、まず、お金のことから始まります。アルバイトを始める前は、ごく少人数を除いて、皆、定刻に来ますし、それなりに楽しんで勉強しているのです。ところが、アルバイトが始まってしまうと、疲れてしまって、勉強どころではなくなってしまうのです。これも、精神的なこともあるでしょうが、まず体力的にそれほど無理が利かないのです。
以前の中国人学生だったなら、こなしてしまうような量でも、時間の長さでも、彼等にとってはそうではなく、随分身体に堪えるようなのです。これも日本語がなかなかうまく話せないということから、できる仕事というのが限られてしまい、そのせいで、もらえた仕事にはかなりの無理をしてしまうことから来るのでしょう。
それで、学校としても、彼等がこういう状況にあるのなら(今の学生達の大半は、アルバイトをせずに学校へ通えるものなら、能力の問題はさておき、きちんと学校に来て勉強したいと言います。また私たちから見ても、それは本音であると思います)、それに応じた対策を取らねばということで、彼等向きにカリキュラムやら、授業の形態を変えてみたり、果ては教科書まで換えなければならないのではないかとまで思っているのです。
勿論、こういう学生がいるので、授業の形態も変えてみましたし、カリキュラムも彼等向きにしています。が、こういう、(言い方は悪いのですが)小手先でやれることは、皆、やってみた上で、やはり、教科書から換えていかなければならないのではないかと思うようになったのです。
まだ試みです。このやり方で彼等が今よりも読解力がつき、「話す」「聞く」が少しでも上の段階に行けるかどうかは、やってみなければわかりません。問題があれば、その都度変えていきます。これは彼等だけの問題ではなく、もしかしたら、次に来るベトナム人学生も同じようであるかもしれないのです。
彼等が学ぶ上での問題点の多くは、発音が区別できないということから来ています。勿論、彼等だけではなく、中国の福建省から来ていた学生にも発音上の問題はありました。けれどもそれは「ラ行」と「ナ行」との区別が出来ないくらいのものでしたし、タイの学生も、この発音の問題はかなり厳しいものがあったのですが、一見、同じようであっても、タイの学生の方が早くにそこから抜け出すことができたのです。これは母国での勉強の仕方が違っていた故かとも思われるのですが(定かなことはわかりません)。
このベトナム人学生の場合、まず先に単語を完璧に覚えておく、書けるようにしておくという作業が一人では出来ない人が多いのです。言いながら書く(口も手も、そして聞く耳も、それを見る目も使うわけですからこれはとても大切なことなのです)が、いくら言ってもそうしない、できないのです。そして、ディクテーションやテストの時には、いともたやすく周りの答えを見て書こうとします。多分、彼らの国では、いつもそうしてきたので、努力して書けるようにすることなど、愚かしい作業に過ぎぬとしか思えぬのでしょう。
けれども、この学校ではそういう考え方を、たとえ二年丸ごとかかろうとも、粉砕していこうと努力しています。当然のことながら、そういう老婆心が全く相手の心に響かないということもあります。けれども、たいていの場合、私たちが見ているところではそれをしなくなります。少しでも席を外せば、直ぐに教えあうというのは、何もベトナム人学生だけのことではありません。タイの学生も、ミャンマーの学生もスリランカの学生も中国人の学生もします。
まず、教師がいるところではしないようになるということが、第一番目の目標なのです。それは「ずるいことだ」と思うようになることが。
こう言いますと、では、お金がある学生を選んで連れてきたらどうだとよく言われます。けれども、これは、お金の問題ではないのです。勿論、彼等の家庭が留学させることが出来ないほど、そのための資金を準備できないほど貧しければ、日本でアルバイトしても全部国に送ってしまうでしょうから、勉強することなど全く出来ません。これでは、学校に入っているという意味がありません。ですからこれでは困るのです(何となれば、私たちは教えたいのです)。
彼等の家庭でも、「勉強が大切だということを知っている。そのための準備はしてやれる。けれども、日本に来たら、頑張って自分の力で勉強して生き抜いていけ」くらいのものは欲しいし、学生にもそれくらいのたくましさが欲しいのです。
お金と言えば、この学校にも、ベトナム人で、お金に少しも不自由しないという学生がいたことがあります。けれども、こりゃ、うちには必要ないわと言いたくなるような人でした。するのは「ふり」だけ。如何にも自分は頭がいい、勉強ができるのだと言わんばかりに、全く読めない(そうとしか思えない)文法書を開けているのです。その時学んでいる教科書は見ずに、勉強と全く関係のないところを開いているのです。みんながしていることなどちゃんちゃらおかしい、自分はもっと上のレベルだというふうに。
こういうのも疲れるだろうと思うのですが、こういう人はこういうこと(見え)で、疲れるのを全く意に介さないようで、その意味ではタフな神経だなと思います。
ここの学校では勉強したい人、が、ほしいのです。お金があっても勉強しない人は、困るから要りません。自分の国で勉強できるなら、わざわざ大金を使って外国へ行く必要などないのです。外国へ行くと言うことは、自分の国では見つけられない何かを求めて行くのです。そのためにその外国、ここでは日本ですが、の言葉が必要なのです。
それが、おそらくは、こういう日本語学校の存在する意味なのでしょう。
日々是好日