日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「若いうちに外国に住むということには、目に見えない良さがある」。

2012-11-08 16:20:30 | 日本語の授業
 晴れ。東の方からゆっくりとオレンジ色の光の範囲が広がってきます。光を遮る物は何もありません。時には光を受けて黒く見える雲の姿もありません。いいお天気になりそうです。

 この行徳地区にも外国から来た人達がかなり多く住んでいるのですが、そういう人達と、(外国人でも)日本語学校に通っていたり、日本の企業に勤めていたりしている人達との違いは、かなりの程度、見て取れます。これは日本語が話せるからとか、肌の色でわかるとかいうのではなく、日本に来ても彼らの国の習慣(物言いや態度など)を色濃く引きずっているいないかなのでしょう。

 それが、大の大人がまるで喧嘩でもしているような、大きな声で話したり、笑ったりしているとか、車と同じ左側通行をしている自転車(これはルール通りです)に、自転車で向かってきて文句をつけるとか、そんな、他愛のないことでわかる時もあるのですが。

 私もそういう目に遭ったことがあります。何語かはわかりませんでしたが、きっと「ぶつかるから、あっちへ行け」くらいのことを言ったのでしょう。一目で外国人とわかる人でした。

 普通日本人なら、ルール無視をしている方が、相手を避けます(遠くから来ていることがわかりますから、適当な距離のところでUターンするか反対側へ行くか、横道にそれるかするものなのです)。けれども、こういう人たちは「そこ退け、そこ退け、おいらが通る」で、やってしまおうとするのです。彼らの国では、それでも、自分のやり方で押し通せるのかもしれませんが、相手は男でしたからね。日本でそれをやると、ちょっとね。誰でも眉を顰めてしまいますし、もう相手にはしてもらえないでしょう。

 その時は、うざったいなと、無視していましたが。誰も教える人がいないと、日本の狭い道でも、車道まで広がって大声で話しながら悠然と歩き(日本の道は本当に狭いのです。そこに人の通る道と車道とがあるものですから、もっと狭く窮屈に感じられてしまいます)、足早に急いでいる人の行く手を、故意に塞いでいるよう見えることさえあるのです。
日本だから、車は止まってくれるのです。彼らの国だったら疾うに轢かれています

 当然のことながら、日本語が話せませんと、同国人の輪の中でしか生きていけません。お金が十分にあれば、お金を出してだれかにやってもらうということもできるでしょうが、日本は人件費が高いのです。それでどうしても、先に日本に来ていた同国人に頼ることになってしまいます。その、先に来ていた同国人が日本の事情に通じていたり、日本人の心情がある程度理解できていれば、あまり問題は生じないのでしょうが、それに長けていないと、全くわけがわからない人達が塊で存在するということになってしまいます。

 そうなりますと、嫌でも、彼らの住んでいるところで、日本人との間に、様々な軋轢が生じてしまいます。これは誰が悪いとかいうものではなく、いわゆる日本や日本人に対する無知・無理解から来ているもので、正確な情報さえ得られていれば防げることなのです。本来なら外国人を入れた行政がするべきことなのでしょうが、それにも限界があります。それで、親戚を頼って観光ビザで来た人達でも、一定期間いるうちに、やはり言葉が話せなくては自分で情報をとれないということに気づき、日本語学校で学びたいと思ったりするのでしょう。

 ただ、学ぶと言いましても、単に話したり聞き取れたりすればいい(工場で働く程度のことです)くらいのことでしたら、「非漢字圏」の人であれば、それほどの時間はかかりません(母語の種類にもよります。確かに、なかなか日本語の音がとれなくて苦労すると人もいるので一概には言えませんが)。それが、「話す・聞く」は、かなりできるが、漢字が書けないだけだから漢字を覚えたいとか、文章が書けるようになりたいとか、そういう人が、日本語学校で(それだけを)身につけたいとやって来ても、だいたい一ヶ月は持ちません。直ぐにやめてしまいます。続かないのです、強い意志がない限りは。

 日本語学校では「読む・聞く・話す・話す」を、それぞれ組み合わせながら、同時に或いは時間差をつけて学んで行きます。「私は話すことが出来るから、書くだけやりたい」とやって来ても、一斉授業ですから、自分がわからないことだけ(他の人のことを考えず)、学ぼうと、本時に関係のないことを質問し続けようとすれば、「ちょっと来てください」と注意されるのは当然のことです。

 日本人は周りを見ながら判断していくという傾向があるので、日本人の間では、普通、こういうことは起こりません。それで、そういう人達が来ると、最初の時には、戸惑うのですが、慣れてくると、スパッと切るようになります。こちらで待ってやれば、一寸譲れば二寸踏み込むという感じになってしまうのです。これでは、他の学生達が堪りません。

 きっと、こういう人達は、待てないのしょう(一ヶ月いくらで来ているから)出来るだけ早く聞いてしまって、適当なところでやめようと、どうしてもそこに返ってしまうので、腰が落ち着かないのです。言語というのは、勉強して、直ぐにできるようになるものではありません。他の人達を無視して、しゃべり続けて平気とかそういうことが一斉授業で許されるはずもないのです。「あなた、一人だけのための授業しているのではない」と言っても、「私はお金を払った」と言って終わりです。

 多分、こういうタイプだろうなと、(会った時にある程度はこちら側も予測がきますので)説明の時に、必要な事項をいれておくのですが、(そういう人に限って)直ぐに忘れてしまいます。やりたいことだけを覚えていて、自分に都合が悪いことは頭から消えているのです。これも故意にしているというわけではなく、端っから入っていなかったのでしょう。言うだけ無駄という人達も、中にはいるのです。勿論、相手がどうであれ、言わねばならぬことは言っておくのですが。

 日本語学校というのは、外国人が、共に切磋琢磨しながら学んでいるところです。それぞれ異なった文化を背負って、一つの教室の中で、日本語を学んでいるのですから、時にはいらいらすることも、割り切れぬこともあるでしょう(何と言っても、自分の気持ちを十分に伝えることの出来ない道具を使わなければならないのですから)。けれども、二年という、決して短くはない年月を共に学びながら過ごしていくと、どこが変わったというわけでもないのですが、自分の裡で他者を許せる範囲が広がってきたような感じがしてくるものです。

 気短で、これまでは、五分しか待てなかった者が、十分待てるようになっていたり、嫌なことを言われると直ぐにカッと頭に血が上っていた者が、ちょっと待てよと一呼吸おくことが出来るようになっていたりするのです。

 日本語学校の良さというのは、日本語だけを要領よく学ぶという点にあるのではなく、もしかしたら、こういう付随的なことの方が大切なのかもしれません。何と言いましても、彼等はここを卒業した後、専門学校に進めば二年、大学へ進めば四年、そしてその後も、日本で働くとなれば後数年は、この日本という国にいて生活していくことになるのですから。

日々是好日
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