「天山来客」さんの文章では、もうすでに「蝉」が常客となっているようですね。そうだったっけ?もう蝉がいるんだと、北京のこの頃を全く忘れてしまった私は懐かしく思っています。
東京はまだまだ。まだまだ夏ではないのでしょう。蝉の声が聞こえぬ限り、日本人にとって夏ではないのです。「夏の風物詩は」というと、さていくつぐらい上げられるでしょうか、みなさんには。
先日、午後自習をしていたインド人の学生が、「先生、先生」と血相を変えて飛び込んで来ました。「いったい何事が起こったのか」とびっくりしていると、中国人の学生が、「大丈夫、大丈夫」と言いながら、後ろからのんびりと上がってきました。「先生、これ」と見せてくれた足を確かめると、蚊が食いついて、その跡が大きく腫れていたのです。
インド人の学生は、まだ日本語が上手ではありませんので、とにかく大げさな身振りや、大きな声で訴えようとします。それに、我々も驚かされてしまいますが、言語が不自由なうちは、その方が大事に至らなくていいのかもしれません。
それで、アースマットやら、塗り薬やらを捜しますが、まだかまれた跡に塗って、痒みを止めるものしか入っていません。それを塗って、「大丈夫」と聞くと、にこにこして「大丈夫、大丈夫」と帰って行きました。東京でも、もう一歩一歩夏のただ中へと進んでいるのですね。なんと言っても、蚊ですもの。
インド人の学生の、このときの気持ちは、言語に翻訳すると「大変だ、なんてこった、これは毒か、何なのだ、こんなに腫れている」。この「大変だ」は、いわゆる江戸弁の「てえへんだ」と読んだ方がいいのかもしれません。「大変」な焦りようでしたから。
なんといっても、私たちが忙しい時に、ひらがなやカタカナ、最近は漢字までチェックしてくれる「小さな先生」なのですから。
けれど、「会話」はすぐに、この中国人の学生よりも上手になるでしょう。そうしたら、今度は彼が、会話の先生になります。
インドの学生はこんなことを言っていました。「私たちは見ます。聞きます。覚えます。テストの時だけ、書きます」。これはインドでの勉強法です。
これまで受けてきた教育の方法が違うのです。しかし、彼が日本に来てからのこの一ヶ月、初めはお愛想程度にしか書く練習をしていなかったのに、昨日は上のクラスのディクテーションに参加して、曲がりなりにもついていこうという気持ちを見せてくれました。ひらがなカタカナを練習したノートももう一冊が終わろうとしています。
昨日から、新しいクラスが始まりました。ひらがなカタカナから始めます。
ひらがなをまだ覚えていない学生が二人(在日の方で就学生ではありません)。中国人の学生は「書く」と言うことに関しては、それほど注意する必要はないのですが、けれども、変な書き方を母国で習ってきていて、もうどうしても変えられない人も少なくないのです。これだけは辛い。仮名もカタカナも漢字からのものですから、突拍子もない書き方というわけではない。それで、日本人が読めない、ということもないのです。それで、直そうという気分にならないのでしょうね。
一方、非漢字圏の学生は、一日でも書かなかったら、たとえ半年学んできた学生であろうとも、見事に忘れてしまいます。要注意です。けれど、初級のうちは、「聞いて、話して(『言って』に近い)の練習が主ですから、(教室においては)漢字圏の学生は、非漢字圏の学生に呑まれてしまいます。
さて、昨日始まった「初級クラス」は、和気藹々として楽しそうでした。大学を卒業して何年かたった人も、高校を卒業したばかりの人も、教室の中では「一から学ぶ」学生です。見ているうちに、私も、向こうの席に座り、一緒に大きな声で、発音してみたいような気持ちになりました。
日々是好日
東京はまだまだ。まだまだ夏ではないのでしょう。蝉の声が聞こえぬ限り、日本人にとって夏ではないのです。「夏の風物詩は」というと、さていくつぐらい上げられるでしょうか、みなさんには。
先日、午後自習をしていたインド人の学生が、「先生、先生」と血相を変えて飛び込んで来ました。「いったい何事が起こったのか」とびっくりしていると、中国人の学生が、「大丈夫、大丈夫」と言いながら、後ろからのんびりと上がってきました。「先生、これ」と見せてくれた足を確かめると、蚊が食いついて、その跡が大きく腫れていたのです。
インド人の学生は、まだ日本語が上手ではありませんので、とにかく大げさな身振りや、大きな声で訴えようとします。それに、我々も驚かされてしまいますが、言語が不自由なうちは、その方が大事に至らなくていいのかもしれません。
それで、アースマットやら、塗り薬やらを捜しますが、まだかまれた跡に塗って、痒みを止めるものしか入っていません。それを塗って、「大丈夫」と聞くと、にこにこして「大丈夫、大丈夫」と帰って行きました。東京でも、もう一歩一歩夏のただ中へと進んでいるのですね。なんと言っても、蚊ですもの。
インド人の学生の、このときの気持ちは、言語に翻訳すると「大変だ、なんてこった、これは毒か、何なのだ、こんなに腫れている」。この「大変だ」は、いわゆる江戸弁の「てえへんだ」と読んだ方がいいのかもしれません。「大変」な焦りようでしたから。
なんといっても、私たちが忙しい時に、ひらがなやカタカナ、最近は漢字までチェックしてくれる「小さな先生」なのですから。
けれど、「会話」はすぐに、この中国人の学生よりも上手になるでしょう。そうしたら、今度は彼が、会話の先生になります。
インドの学生はこんなことを言っていました。「私たちは見ます。聞きます。覚えます。テストの時だけ、書きます」。これはインドでの勉強法です。
これまで受けてきた教育の方法が違うのです。しかし、彼が日本に来てからのこの一ヶ月、初めはお愛想程度にしか書く練習をしていなかったのに、昨日は上のクラスのディクテーションに参加して、曲がりなりにもついていこうという気持ちを見せてくれました。ひらがなカタカナを練習したノートももう一冊が終わろうとしています。
昨日から、新しいクラスが始まりました。ひらがなカタカナから始めます。
ひらがなをまだ覚えていない学生が二人(在日の方で就学生ではありません)。中国人の学生は「書く」と言うことに関しては、それほど注意する必要はないのですが、けれども、変な書き方を母国で習ってきていて、もうどうしても変えられない人も少なくないのです。これだけは辛い。仮名もカタカナも漢字からのものですから、突拍子もない書き方というわけではない。それで、日本人が読めない、ということもないのです。それで、直そうという気分にならないのでしょうね。
一方、非漢字圏の学生は、一日でも書かなかったら、たとえ半年学んできた学生であろうとも、見事に忘れてしまいます。要注意です。けれど、初級のうちは、「聞いて、話して(『言って』に近い)の練習が主ですから、(教室においては)漢字圏の学生は、非漢字圏の学生に呑まれてしまいます。
さて、昨日始まった「初級クラス」は、和気藹々として楽しそうでした。大学を卒業して何年かたった人も、高校を卒業したばかりの人も、教室の中では「一から学ぶ」学生です。見ているうちに、私も、向こうの席に座り、一緒に大きな声で、発音してみたいような気持ちになりました。
日々是好日