イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

紀ノ川河口~双子島沖釣行

2020年08月30日 | 2020釣り
場所:紀ノ川河口~双子島
条件:中潮 3:42満潮
釣果:ボウズ

加太では多彩な釣果があがっているようだが、それは釣りが上手な人たちの話だ。僕には無理だし、おまけに今日も暑いそうだ。少しは一矢報いたいと思うところだが体力が持たないしやっぱり行っても釣る自信がない。
日曜日だし散歩代わりに紀ノ川でルアーを投げてみようと出港した。

前回はルアーを回収中にその近くでライズがあったので今日は水面直下を高速でリトリーブできるルアー、(なんという名前のカテゴリーのルアーかは知らないが昔買ったやつで、リップがボディと一体化しているような形をしている。)をバッグに追加した。今日はこれ一本で通そうと考えている。

午前4時半に出港。今年は水温も高いのか、小船の底にはかなりの数のカキが成長しているようでこの半月ほどでガクンと速度が落ちてしまった。もう、微速というくらいでしか走らなくなってしまった。エネルギーセンターの前まで行くのに15分もかかってしまった。少しずつ空が白んでくるのでもどかしいところだが仕方がない。
やっと到着してルアーをキャストし始めるがまったく生体反応がない。朝焼けが見えるころまで頑張ってみたがダメだ。



そしで青岸の灯台の方を見ると今日もタチウオを狙っている船がいくつか見える。禁断の仕掛けを持ってきてはいないけれどもワインド仕掛けがある。2,3匹釣ったらおかずになるから場所を移動。さっそくキャストをしてみるけれども小さなエソが1匹釣れただけだ。それに買ったワームが安すぎるのか、この部分はなんというのだろう、水圧を受けてピロピロアピールするしっぽの部分がすぐに切れてしまう。これでは釣れないじゃないかと悪態をついていたときに僕に近づいてくる船がある。よく見ると僕の隣に係留しているNさんではないか。そしてこのブログにもコメントを寄せてくれるちからさんも乗っている。これから加太に向かうらしい。タチウオも数匹釣れましたよとのこと。さすがだ。
ちなみにその時の僕の姿はこんな感じ。Nさん曰く、「腰が入ってませんよ!」外から見てもやる気が感じられなかったようだ。



それをしおにルアーの釣りは終了。
道具を片付けるときにワームを見てみたら、たくさんの傷がついている。ワームのしっぽは勝手に切れたのではなくてタチウオがさわっていたようだ。ぼくのほうがアタリを捉えられていなかったのだ。やっぱり腰が入っていない。




その後は冷凍にしたままのエサが残っていたのでタコを狙ってみた。本当はこの場所でやってみたかったのだけれども、ルアーをキャストしてみた感じでは流れが速い。これではテンヤを改造しているとはいえ底が取れないのではないかと双子島の沖に移動。

 

結果はやはりボウズであったのだが、鉛を大きくしたテンヤは底をしっかり取ることができる。また来年になってしまうけれども、紀ノ川でも試してみよう。


家に帰ってから服を着替えて図書館から給油のために港へ。Nさんとちからさんが帰港していて釣果を聞くと、二人で7匹の真鯛を釣り上げたそうだ。さすがだ。

僕はその足で市立博物館へ。
今日ここで、円珠院に関するシンポジウムが開催される。



円珠院というのは、僕の家と港のちょうど中間くらいの場所にある寺院なのだが、ちょっと不思議なところだ。僕が通るメインのルートではなく、もうひとつある信号の多いルート沿いに、ペンキで書いたような「円珠院」という看板が立って、時たま前を通るたびに一体ここは何なのだろう、勝手に入ってもいいのだろうかと思っていた。初めて訪れたのは7年前のことである。そこはまさに神仏習合の極致のようなところで、お堂の前には大きな鳥居がある。ここは愛宕山と秋葉山の間にある場所なので、きっとこういう神様と仏教が結びついた施設なのだろうという感じであった。当時も不思議に思ったらしく、僕も少しは調べていたようでブログには紀州徳川家と関係があって、南方熊楠も海外からの遊学から帰り、行くところがないのでここに逗留していたことがあったらしいというようなことが書かれていた。

フリーペーパーの記事にこの催しが紹介されていたのでこれはぜひ行ってみようというのと、こんな催しには一体どんな人たちが集まるのかという興味もあったので午後1時の開催時間に博物館を尋ねた。

そこで説明されたのを箇条書きにしてみると、
・天台宗の寺院である。
・元は愛宕山にあった愛宕大権現の神宮寺のような位置づけであった。
・その愛宕山大権現は明治の初めに台風で壊れたのでそこにあったものは円珠院に集められた。
・ちょうどその頃は、神仏分離の最中であったけれども、ここは免れることができたようだ。司会の人は、和歌道(今の国道42号線)からよく見えるところだがどうしてそんなに目立つところが残ることができたのは不思議であると言っていた。
ひとつの説では、和歌山では神仏分離はお城の周辺ともうひとつの都市圏であった湊付近だけすればいいという解釈があって免れたのかもしれないということだった。その反論としては、東照宮にも雲蓋院という神宮寺があったが、これは解体させられたので円珠院が残ったのはおかしいという意見があった。シンポジウムというのはこんな意見を交わすところなのかと少し感動した。ちなみに、この、雲蓋院というところはその後復活して玉津島神社のそばにある。あしべ通りからひとつ奥まった狭い道沿いにえらい大きなお寺があって、ここは一体何なのだと思っていたら、その疑問もひとつ解けた。
・建立当初から紀州徳川家と関係が深く、こういうお寺は檀家を持てないので、ずっと寄付や、その寄付を金融業につかって利息を稼いだり代々の住職の私費で維持されてきたらしい。今は、前の道路の拡張工事で相当な補償があったらしく、半永久的に維持費には問題がないそうだ。
・檀家がいないことから、いままでが調査されたことがなく、いったいどんな収蔵物が眠っているのかはわかっていなかった。今回が初めての本格的な調査になったそうだ。
・愛宕山には本地仏である勝軍地蔵が祀られていたらしいが、その仏像自体は残っていない。
・仏間には地蔵菩薩立像など、貴重な仏像や位牌が残っていて、今回紹介されたのはごく一部でまだ調査をし切れていないものも多数あるらしい。



・今はお堂が二棟残っているが、それらは明治4年頃に建てられている。その中にも今回紹介された弁天様の絵のほかにもいろいろなものが残っているようだ。

 

ざっとこんな感じで、愛宕山と秋葉山という、ある意味神秘的なところに人知れずこんなところがあったというのが驚きだ。僕が通っていた小学校はここのすぐそばにあり、校歌の出だしは、「あた~ごの やま~の きり~はれて・・」というのであったけれども、つい最近まで愛宕の山がどこにあるのかも知らず、別に知ろうとも思わなかった。しかし、まあ、これも歳なのか、そんなことに何故だか興味が湧いてくる。


そして、こういう催しに集まる人たちであるが、雰囲気から、どうも壇上の人たちと講演を聞いている人たちのほとんどは顔見知りかどこかでつながりがある人たちのようだ。質問に立った人たちの何人かは教師をしていたと言っていたが、基本的には文教関係の人たちらしく、普通のサラリーマン風情は完全に外様のような感じだった。
壇上の人たちは研究者として携わっているが、聴衆のそういった人たちはただのディレッタントのようでもある。しかし、それぞれ交流があるくらいだからその研究者並みに詳しそうだという、ここにも別世界があったのだという驚きがこんな催しに初めて参加した感想だった。ディレッタントの側はおれはこんなことも知っているのだというちょっとマウンティングをしているような臭さもあったのは事実であるが・・。

コメント
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