石井 あらた 「「山奥ニート」やってます。」 読了
この本は自称ニートのひとが和歌山県の山奥での生活を綴ったものだ。“自称”と書いたのは僕から見るとこの著者はきちんと自立した人と思えるからである。
著者は1988年生まれ。両親は教員で自分も教師を目指して大学に入るが教育実習のときに挫折しそのままニートの生活に入る。
そしてSNSで知り合ったニート仲間に誘われて和歌山県の山奥で共同生活をするようになる。それが2014年、執筆時点で5年目になるそうだ。
ニートにとっては都会で引きこもろうが山奥で引きこもろうがどちらも変わらないという考えが面白い。アマゾンで注文したものはきちんと届くし、電気と水道とインターネットがあれば生活は都会とほとんど変わらないという。
そこは田辺市の五味集落というところで、この本の執筆当時地元住人は5人。平均年齢は80歳を超えているという限界集落だ。共同生活をすることとなったジョーさんが見つけてきた場所なのだが、「共生舎」というNPO法人が運営する施設の第1号としてここで暮らすようになった。彼らはNPO法人の職員でもあるのだ。
紆余曲折があって最終的には小学校の廃校跡をもらい受け著者もそのNPO法人の理事となる。共同生活に必要な費用は食費を含めてひとり18000円。(食費が9000円、光熱費他が9000円)住める資格はニートの人であることが条件だが、それだけ支払えばだれでも住むことができる。基本的に来るものは拒まず、去る者は追わずで、審査もしないのは、これだけの山奥までくる決意を持った人たちなら大丈夫ということらしい。もともとニートは他人に対してあまり興味ももたないし干渉もしないので重大なトラブルが起こらないと考えているらしい。(今のところ)
村の生活なら、普通なら住民とのトラブルということが大きな問題になるのだけれども、NPOの理事長であった山本利昭さんの存在が大きく、自然と村には溶け込めることになった。それに、著者曰く、ニートという半人前の人間を孫のように見てもらえたことが村人にかわいがってもらえた大きな要因ではなかったかということであった。
紆余曲折というのは、住み始めて3日後にその山本利昭さんが亡くなってしまう。大きな後ろ盾を失ったニートたちは自分たちで住むところを探し、NPO法人の運営もしていかねばならなくなった。
NPO法人の理念は、「公的支援に頼らず、さまざまな人が集まり、共生していくこと。」で、ニートたちの自立を促すのが目的であるが、地域おこしをしようなんて思っていなし、改革を起こしたいわけでもない。現場の人にとってはただ、日常を生きていくということだ。
ここまでまとめてみて、この生活はきっと縄文時代の人たちの生き方というのはきっとこういうものではなかったのだろうかと思い至った。階級のない小さな社会で自給自足で必要以上には働かず日常を生きる共同生活というのはまさにそうではなかろうか。
廃校は大きな施設なので著者自らニコニコ動画やユーチューブ、ブログで情報発信しながら同居者を募る。そこは縄文時代と異なる。そして普通のニートとも違う。
著者は別のインタビューで、「ニートにも二通りあって、働き者のニートと、怠け者のニートがいるんですよ。いずれも、あくせく働きたくはないなというのは心の中にあるのですけど。」と言っているが、行動的でもある。働きたくはないといいながら、同じ集落や別のNPO法人の人たちのために食品の加工場を作ったりもする。
必要に迫られるということでもなく、なんとなく流れで人の役に立っていくというところがニートらしいといえばニートらしいし、ひとの興味を引くところでもあるのだろう。
5年間で200人くらいのひとが見学に来たらしい。ましてや本まで出版しているのだ。
著者も書いているけれども、山奥ニートとしての生き方はこれからの人の生き方のヒントになると考えている。
ニートとは自分の意思に反してまで働かず日常を生きる(非日常的なことには興味を示さない。)それはある意味超経済的な生き方だ。だから意に反してまで働く必要がない。加えて山奥で共同生活することでその固定費を極限まで低くすることができ村で発生する小さな仕事で報酬を得るくらいで賄えることができる。
著者は、「持続可能なニートはモラトリアムではなく人類が目指すべき場所。」であると言い切るのだ。そして、お金がないから非日常的な経験はできないこととの引き換えに、「資本主義社会では人々は生活を人質に取られ手足を縛られている。しかしニートは違う。札束で顔をひっぱたかれても働きたくないと言える。」という自由さと独立性の高さを強調する。
非日常な体験ができないというけれども、山奥の生活自体が僕にとっては非日常であると思うのである。
インターネットと古くからある既存のインフラがもたらす新たな生き方といえるのである。だから限界集落を無くしてしまってはいけないのだとも言う。
僕もリタイアしたらこんな生活ができないものだろうかと思う。何か人の役に立とうと思ってもすでにそんなスキルがないということは証明されてしまった。それなら自分がやりたいと思ったことだけをやりそれさえもしたくなければ何もしない生活。そういえば今もそれに近い。釣りに行っていなければぼ~っとBSを見ているだけだ。会社員としてはただ会社に行っているだけだからそこのところはないに等しい。だからそこのところを考えに入れなければ僕は今でも立派なニートだ。この本を読んでいると僕のマインドは限りなくニートに近い。「自分が働くことに納得していなければ苦痛なだけである。」と著者も書いているけれども、特に最近はそう思う。
そのときに、魚釣りというのは日常なのか非日常にはいるのか、問題はその1点である。
震災を経験し、さらにこのコロナ禍のなかではこういうことを真剣に考え方を変える必要があるのかもしれない。この本は書かれたのが2019年の12月までなので、著者は今、どういったことを考えているだろう。著者は今でもブログを更新している。
時間をみつけて読んでみようと思う。
この本は自称ニートのひとが和歌山県の山奥での生活を綴ったものだ。“自称”と書いたのは僕から見るとこの著者はきちんと自立した人と思えるからである。
著者は1988年生まれ。両親は教員で自分も教師を目指して大学に入るが教育実習のときに挫折しそのままニートの生活に入る。
そしてSNSで知り合ったニート仲間に誘われて和歌山県の山奥で共同生活をするようになる。それが2014年、執筆時点で5年目になるそうだ。
ニートにとっては都会で引きこもろうが山奥で引きこもろうがどちらも変わらないという考えが面白い。アマゾンで注文したものはきちんと届くし、電気と水道とインターネットがあれば生活は都会とほとんど変わらないという。
そこは田辺市の五味集落というところで、この本の執筆当時地元住人は5人。平均年齢は80歳を超えているという限界集落だ。共同生活をすることとなったジョーさんが見つけてきた場所なのだが、「共生舎」というNPO法人が運営する施設の第1号としてここで暮らすようになった。彼らはNPO法人の職員でもあるのだ。
紆余曲折があって最終的には小学校の廃校跡をもらい受け著者もそのNPO法人の理事となる。共同生活に必要な費用は食費を含めてひとり18000円。(食費が9000円、光熱費他が9000円)住める資格はニートの人であることが条件だが、それだけ支払えばだれでも住むことができる。基本的に来るものは拒まず、去る者は追わずで、審査もしないのは、これだけの山奥までくる決意を持った人たちなら大丈夫ということらしい。もともとニートは他人に対してあまり興味ももたないし干渉もしないので重大なトラブルが起こらないと考えているらしい。(今のところ)
村の生活なら、普通なら住民とのトラブルということが大きな問題になるのだけれども、NPOの理事長であった山本利昭さんの存在が大きく、自然と村には溶け込めることになった。それに、著者曰く、ニートという半人前の人間を孫のように見てもらえたことが村人にかわいがってもらえた大きな要因ではなかったかということであった。
紆余曲折というのは、住み始めて3日後にその山本利昭さんが亡くなってしまう。大きな後ろ盾を失ったニートたちは自分たちで住むところを探し、NPO法人の運営もしていかねばならなくなった。
NPO法人の理念は、「公的支援に頼らず、さまざまな人が集まり、共生していくこと。」で、ニートたちの自立を促すのが目的であるが、地域おこしをしようなんて思っていなし、改革を起こしたいわけでもない。現場の人にとってはただ、日常を生きていくということだ。
ここまでまとめてみて、この生活はきっと縄文時代の人たちの生き方というのはきっとこういうものではなかったのだろうかと思い至った。階級のない小さな社会で自給自足で必要以上には働かず日常を生きる共同生活というのはまさにそうではなかろうか。
廃校は大きな施設なので著者自らニコニコ動画やユーチューブ、ブログで情報発信しながら同居者を募る。そこは縄文時代と異なる。そして普通のニートとも違う。
著者は別のインタビューで、「ニートにも二通りあって、働き者のニートと、怠け者のニートがいるんですよ。いずれも、あくせく働きたくはないなというのは心の中にあるのですけど。」と言っているが、行動的でもある。働きたくはないといいながら、同じ集落や別のNPO法人の人たちのために食品の加工場を作ったりもする。
必要に迫られるということでもなく、なんとなく流れで人の役に立っていくというところがニートらしいといえばニートらしいし、ひとの興味を引くところでもあるのだろう。
5年間で200人くらいのひとが見学に来たらしい。ましてや本まで出版しているのだ。
著者も書いているけれども、山奥ニートとしての生き方はこれからの人の生き方のヒントになると考えている。
ニートとは自分の意思に反してまで働かず日常を生きる(非日常的なことには興味を示さない。)それはある意味超経済的な生き方だ。だから意に反してまで働く必要がない。加えて山奥で共同生活することでその固定費を極限まで低くすることができ村で発生する小さな仕事で報酬を得るくらいで賄えることができる。
著者は、「持続可能なニートはモラトリアムではなく人類が目指すべき場所。」であると言い切るのだ。そして、お金がないから非日常的な経験はできないこととの引き換えに、「資本主義社会では人々は生活を人質に取られ手足を縛られている。しかしニートは違う。札束で顔をひっぱたかれても働きたくないと言える。」という自由さと独立性の高さを強調する。
非日常な体験ができないというけれども、山奥の生活自体が僕にとっては非日常であると思うのである。
インターネットと古くからある既存のインフラがもたらす新たな生き方といえるのである。だから限界集落を無くしてしまってはいけないのだとも言う。
僕もリタイアしたらこんな生活ができないものだろうかと思う。何か人の役に立とうと思ってもすでにそんなスキルがないということは証明されてしまった。それなら自分がやりたいと思ったことだけをやりそれさえもしたくなければ何もしない生活。そういえば今もそれに近い。釣りに行っていなければぼ~っとBSを見ているだけだ。会社員としてはただ会社に行っているだけだからそこのところはないに等しい。だからそこのところを考えに入れなければ僕は今でも立派なニートだ。この本を読んでいると僕のマインドは限りなくニートに近い。「自分が働くことに納得していなければ苦痛なだけである。」と著者も書いているけれども、特に最近はそう思う。
そのときに、魚釣りというのは日常なのか非日常にはいるのか、問題はその1点である。
震災を経験し、さらにこのコロナ禍のなかではこういうことを真剣に考え方を変える必要があるのかもしれない。この本は書かれたのが2019年の12月までなので、著者は今、どういったことを考えているだろう。著者は今でもブログを更新している。
時間をみつけて読んでみようと思う。