ポール・J・ザック/ 著 柴田裕之/訳 「経済は「競争」では繁栄しない 信頼ホルモン「オキシトシン」が解き明かす愛と共感の神経経済学」読了
僕は絶対にオキシトシンの少ない人生を送ってきたのではないだろうかと、あるドキュメント番組を見ていて思うようになった。そこでオキシトシンについて書かれた本を探してみるとこんなタイトルの本が見つかった。
「オキシトシン」とはホルモンの一種なのでなんで経済学と関係があるのかといぶかしみながら著者紹介の欄を見てみると、正真正銘の経済学者であるが、その後、このオキシトシンに魅せられたかどうか、臨床神経学の教授となり、神経経済学という言葉を最初に使ったひとだということだった。「神経経済学」とはいったいなんなんだろうかということと、経済学とホルモンの取り合わせというのはどんなことが書かれているのかというのは楽しみだった。
まず、オキシトシンについて書いておこう。
オキシトシンとは、女性が出産するときに子宮を収縮させるために分泌されるホルモンである。なので、「出産ホルモン」と呼ばれる。そして、「抱擁ホルモン」と呼ばれたりする。この本の本題に関することは、この「抱擁ホルモン」と呼ばれる部分にある。なぜ、「抱擁ホルモン」と呼ばれるのか、それは、動物の感情のうちの、愛情を作り出すホルモンであるからだ。
アダム・スミスの国富論では、経済活動は合理的な行動のみによっておこなわれるということになっているが、著者はそう考えなかった。『繁栄に影響を与える他の要因を研究するうちに、絶対に見過ごせないものが、「信頼」であるということを発見し、社会における信頼のレベルこそが、その社会が繁栄するか貧困の淵に沈んだままでいるかを決めるもっとも強力で、かつ単一の要因であることを実証した。他人を当てにし、その人が約束したことを実行し、騙したり盗んだりしないと信じられることは、国家の経済発展にとって、教育や資源へのアクセスよりももっと強力な要因なのである。』というのである。
そして、2001年、とある学会に向かう途上、ヘレン・フィッシャーという学者に出会う。そんな話をしたときに、そういったことがすべてオキシトシンが要因として絡んでいるのではないかということを聞かされた。
そして、経済学者でありながら、オキシトシンの効果についての研究を始め、道徳的な行動の鍵であることを実証した。
『人は信頼されていると感じると、前よりも信頼できる人になる。すると、やがて他のひとたちからなおさら信頼されやすくなるという果てしないループが生まれる。オキシトシンは世界のあらゆる文化で正しいと生き方として推奨される類の「寛大で思いやりある行動」のお膳立てをする。それは協力的で優しく向社会的な生き方であり、この地上のどんな文化でも「道徳的」なふるまいである。』のだ。向社会的というのは、優しく、寛大で、協力的で、思いやりのある行動をとることである。
そしてそのことが社会の繁栄をもたらすのである。たしかに聞いているだけでもそんな信頼と思いやりのある社会は幸せだと思うのである。
そして、この本の目的もずばり、『なぜオキシトシンがこのような効果を持つのか、いつその効果が表れるのか、どうすればもっと頻繁にその効果を引き出せるのかを示す。』ことなのである。
オキシトシンの分泌を促すには、子供を産んだり、セックスをするという方法がある。また、鼻から吸入したりという人工的な方法もあるが、信頼の合図を送るだけでいい。信頼を込めて人と接すると、相手はオキシトシンが急増し、あまり関与をためらったり人を騙したりしなくなる。
そして、オキシトシンは適切な種類の刺激に反応して急増し、3分後には消えてゆくものの、肉体は黄金律を知っており、オキシトシンの分泌が妨げられないかぎり、その報いを感じることができる。
セックスするとオキシトシンが増えるとなると、あまりにも淡泊な僕はたしかに分泌量が少ないのだろうなとここで改めて悲しくなるのである。豊臣秀吉は54歳で秀頼をもうけたが、さすが人たらしというだけあって、大量のオキシトシンを分泌していたのだろう・・・。
オキシトシンは単独でも効果を発揮するが、セロトニン(不安を和らげる)やドーパミン(脳の報酬を得るために繰り返す) オキシトシンは共感を生み出し、道徳的行動の原動力となる。それが信頼を招き、信頼がさらにオキシトシンの分泌を促し、オキシトシンがいっそうの共感を生むという信頼の好循環「HOME(ヒトオキシトシン媒介共感)」が生まれる。
ちなみに、こういった好循環を生み出すための動作というものがある。それは、人が猿であった時代から現代までグルーミングやゴシップについての雑談などであると言われている。それはすなわち、美容院や理髪店、ロッカールームやヨガ教室というようなところである。まさしく浮世床なのであるが、それも今では1回1,800円ほどでベルトコンベアに乗っているかのような流れ作業で髪を切られると浮世どころではなくなる。そういう世知辛い時代、どうも生きづらいと思っているのはきっと僕だけではないのだろうが、こんな小さなところでも信頼の好循環が途切れつつあるようだ。
ということで、オキシトシンは社会をひとつにまとめる接着剤の役割をはたすことになるのである。
オキシトシンと相反する物質にテストステロンというホルモンがある。この物質は、競争を促し、性的衝動(リビドー)を起こす。また、思いやりにブレーキをかけ、罰することに快感をもたらすという物質である。とくに男性に多く分泌されると言われているが、テストステロンのおかげかどうかは別として、競争に打ち勝ち、トップに立った人はときとして、嫌な人間に変わる。罰当たりの言葉を吐いたり、不謹慎に戯れたり、とげとげしくからかったりというひどく無礼な行動をおこす。また、他人はすべてよそ者や敵となり、共感を減らし罰したいという欲求を募らせる。
それがどういう形で現れるかというと、パワハラや地位の高さを利用して私利を得るというものだ。最近のニュースを見ているとそんなことばかりが目立つ。ワクチンを横取りしたり人に飲み食いをするなと言いながら自分たちはこっそり行き、秘書に暴言を吐く。なんだか政治家の先生ばかりの話のようだが、僕たちのような小さな会社の中にもそんなことがあったりする。前にもこのブログに書いたけれども、例の女帝のことを観察してみるときっとテストステロンが過多になっているに違いないと思えてくる。人を平気で罵倒するし、はばかることなくすぐに言うことを変える。横で見ていて滑稽だ。抑制する人がいないと人はこうなるという典型のようだ。そして、あの、自分の能力をあれだけ誇示できるのもテストステロンのなせるわざなのだろうと思うとこのホルモンの分泌機能が僕には備わっていないことを思わず願ってしまうのだ。
僕と同じような立場の同僚たちは毎日振り回され、そして毎日愚痴を言っている。僕の立場ではみんなの為にそこにブレーキをかけてやらねばならないのかもしれないが、自分のところにやってくる攻撃をかわすので手いっぱいだ。もともと、あと2年と少しで定年となるとこの会社の将来にはなんの憂いもない。どれだけ頑張っても評価が上がるわけではなく、そういう意味では今だけなんとかしのげればよいという不可逆的なサラリーマン人生なのである。
女のくせにとは言いたくはないが、女の割りにはオキシトシンが皆無でテストステロンの分泌が多すぎるのだ。
「独裁者が現れるのは、自分たちの努力で問題を解決せず、どこからか超人なり聖者なりが現れて、全部一人で背負い込んでくれるのを待っていたからだ。」と以前にも書いたけれども、この会社もまさにそういった愚民の集まりでしかないということだ。ご本人は転職をしながらキャリアアップしてここまで来たと言ってはいるけれども、どこの会社でも煙たがられるかなにかでここまで流れてきただけなのだろう。キャリアアップというのは誰でもうらやむ会社と仕事をしてこそ言える言葉であるはずだ。そうではないからこんな人でものさばっていられるというか、いいカモを見つけたようなものだ。社内では役職がないので自分で勝手に「統括」自分のことを呼んで箔をつけているのもおかしくてしかたがない。そしてそれを会社も認めているのだから不思議でならないのだ。マクベ大佐のように軍規上おかしい軍服の士官ばかりが指揮を執っている軍隊は遅かれ早かれ連邦軍に打ち負かされるのである。
そういえば、これも過去に書いているのだが、教育担当のラスプーチンもこの会社の所属である。それも今ではこの会社の取締役にまでなっている。僕の業界も意外と狭く、ラスプーチンの過去を知っているというひとが同業他社にいて、その人の話では、「なんであんな人が・・・。」ということだ。この会社にはまともな人間がいないのか・・。
なんだかわけのわからないことをいっぱい書いてしまったが、ここからがこの本のタイトルに関する本題にかかわってくる。著者は、『宗教や市場経済のようなしっかり確立された仕組みにさえオキシトシンは影響を及ぼす。』という。
宗教については、集団での礼拝や同じ食事、もしくは集団での踊りなどが共感を生むという。それにもオキシトシンが関与しているというのである。しかし、その共感が過度になってしまうと内集団バイアスが過度に進み外集団に対する敵意をかき立てられる。十字軍の遠征やパレスチナとイスラエルの対立はこういうことが原因なのかもしれない。
経済活動については、人類が営んできた歴史を見てみると、適度の競争は好成績につながることがわかる。それは罰則と協力のバランスであるともいえる。そのアクセルとブレーキがオキシトシンとテストステロンであると著者は分析している。ややもすると、テストステロンが勝ることが多い。アリストテレスの時代から商取引というものは、道徳に有害であるというひとつの感覚がある。それは人の心を叡智やほかのひとではなくお金に集中させすぎてしまうと考えられているからであるが、商取引は適切に行われると人々を豊かにする。しかし、人を出し抜いたり騙したりするようなテストステロンに由来する行為は共感や寛大という善循環を阻害する。勝者総取りという現代の状況に近い経済は不幸を招く。
だから、経済にも信頼と共感が必要であるというのが著者の結論になるのだが、それはたしかに理想のように思う。おそらく著者は、人の本質は勤勉であり信頼と共感のなかで勤勉に働けばすべての人が豊かになれるという前提で考えているのだろうけれども、ここはどうだろうか。人の本質は勤勉ではなく“怠惰”ということは社会主義の失敗が証明しているのではないだろうかとも思う。そしてすべての人が幸福になれる経済の鍵は、「愛」であるという結論はなるほどと思いながらもそれは経済学と言えるのかと突っ込みたくもなる。
また、様々な実験を通してオキシトシンの効果について証明され、人の行動はすべてオキシトシンとテストステロン(といくつかのホルモン)によって支配されるのだという論はあまりにも飛躍しすぎてはいないだろうか。人の性格と価値観は千差万別だ。微妙な濃度によって無数の効果のバリエーションがあるということもあるのだろうが、それだけではないような気がする。
ただ、オキシトシンの分泌を促すハグという行為が平和をもたらすひとつの鍵であるというのは信じたいと思う。しかし、僕にはそんな習慣がないので効き目のある薬を簡単に手に入れる方法はないものだろうかと思うのだ。ついでに同僚の分もお願いしたいものだ。
それよりも、もっと説得力がある言葉は、『頭は冷めていても、心は温かく、自分のもっともすぐれた力の少なくとも一部を、身の回りの社会的な苦しみと取り組むために進んで捧げる・・』だった。
今日から始まった朝の連ドラは、「人の役に立ちたい。」ということがテーマのひとつになっているそうだ。
それは、単なる化学物質がもたらす反応ではなく、もっと人が人として存在する神秘的な部分からあふれ出てくるものではないのだろうかと思う。
僕は絶対にオキシトシンの少ない人生を送ってきたのではないだろうかと、あるドキュメント番組を見ていて思うようになった。そこでオキシトシンについて書かれた本を探してみるとこんなタイトルの本が見つかった。
「オキシトシン」とはホルモンの一種なのでなんで経済学と関係があるのかといぶかしみながら著者紹介の欄を見てみると、正真正銘の経済学者であるが、その後、このオキシトシンに魅せられたかどうか、臨床神経学の教授となり、神経経済学という言葉を最初に使ったひとだということだった。「神経経済学」とはいったいなんなんだろうかということと、経済学とホルモンの取り合わせというのはどんなことが書かれているのかというのは楽しみだった。
まず、オキシトシンについて書いておこう。
オキシトシンとは、女性が出産するときに子宮を収縮させるために分泌されるホルモンである。なので、「出産ホルモン」と呼ばれる。そして、「抱擁ホルモン」と呼ばれたりする。この本の本題に関することは、この「抱擁ホルモン」と呼ばれる部分にある。なぜ、「抱擁ホルモン」と呼ばれるのか、それは、動物の感情のうちの、愛情を作り出すホルモンであるからだ。
アダム・スミスの国富論では、経済活動は合理的な行動のみによっておこなわれるということになっているが、著者はそう考えなかった。『繁栄に影響を与える他の要因を研究するうちに、絶対に見過ごせないものが、「信頼」であるということを発見し、社会における信頼のレベルこそが、その社会が繁栄するか貧困の淵に沈んだままでいるかを決めるもっとも強力で、かつ単一の要因であることを実証した。他人を当てにし、その人が約束したことを実行し、騙したり盗んだりしないと信じられることは、国家の経済発展にとって、教育や資源へのアクセスよりももっと強力な要因なのである。』というのである。
そして、2001年、とある学会に向かう途上、ヘレン・フィッシャーという学者に出会う。そんな話をしたときに、そういったことがすべてオキシトシンが要因として絡んでいるのではないかということを聞かされた。
そして、経済学者でありながら、オキシトシンの効果についての研究を始め、道徳的な行動の鍵であることを実証した。
『人は信頼されていると感じると、前よりも信頼できる人になる。すると、やがて他のひとたちからなおさら信頼されやすくなるという果てしないループが生まれる。オキシトシンは世界のあらゆる文化で正しいと生き方として推奨される類の「寛大で思いやりある行動」のお膳立てをする。それは協力的で優しく向社会的な生き方であり、この地上のどんな文化でも「道徳的」なふるまいである。』のだ。向社会的というのは、優しく、寛大で、協力的で、思いやりのある行動をとることである。
そしてそのことが社会の繁栄をもたらすのである。たしかに聞いているだけでもそんな信頼と思いやりのある社会は幸せだと思うのである。
そして、この本の目的もずばり、『なぜオキシトシンがこのような効果を持つのか、いつその効果が表れるのか、どうすればもっと頻繁にその効果を引き出せるのかを示す。』ことなのである。
オキシトシンの分泌を促すには、子供を産んだり、セックスをするという方法がある。また、鼻から吸入したりという人工的な方法もあるが、信頼の合図を送るだけでいい。信頼を込めて人と接すると、相手はオキシトシンが急増し、あまり関与をためらったり人を騙したりしなくなる。
そして、オキシトシンは適切な種類の刺激に反応して急増し、3分後には消えてゆくものの、肉体は黄金律を知っており、オキシトシンの分泌が妨げられないかぎり、その報いを感じることができる。
セックスするとオキシトシンが増えるとなると、あまりにも淡泊な僕はたしかに分泌量が少ないのだろうなとここで改めて悲しくなるのである。豊臣秀吉は54歳で秀頼をもうけたが、さすが人たらしというだけあって、大量のオキシトシンを分泌していたのだろう・・・。
オキシトシンは単独でも効果を発揮するが、セロトニン(不安を和らげる)やドーパミン(脳の報酬を得るために繰り返す) オキシトシンは共感を生み出し、道徳的行動の原動力となる。それが信頼を招き、信頼がさらにオキシトシンの分泌を促し、オキシトシンがいっそうの共感を生むという信頼の好循環「HOME(ヒトオキシトシン媒介共感)」が生まれる。
ちなみに、こういった好循環を生み出すための動作というものがある。それは、人が猿であった時代から現代までグルーミングやゴシップについての雑談などであると言われている。それはすなわち、美容院や理髪店、ロッカールームやヨガ教室というようなところである。まさしく浮世床なのであるが、それも今では1回1,800円ほどでベルトコンベアに乗っているかのような流れ作業で髪を切られると浮世どころではなくなる。そういう世知辛い時代、どうも生きづらいと思っているのはきっと僕だけではないのだろうが、こんな小さなところでも信頼の好循環が途切れつつあるようだ。
ということで、オキシトシンは社会をひとつにまとめる接着剤の役割をはたすことになるのである。
オキシトシンと相反する物質にテストステロンというホルモンがある。この物質は、競争を促し、性的衝動(リビドー)を起こす。また、思いやりにブレーキをかけ、罰することに快感をもたらすという物質である。とくに男性に多く分泌されると言われているが、テストステロンのおかげかどうかは別として、競争に打ち勝ち、トップに立った人はときとして、嫌な人間に変わる。罰当たりの言葉を吐いたり、不謹慎に戯れたり、とげとげしくからかったりというひどく無礼な行動をおこす。また、他人はすべてよそ者や敵となり、共感を減らし罰したいという欲求を募らせる。
それがどういう形で現れるかというと、パワハラや地位の高さを利用して私利を得るというものだ。最近のニュースを見ているとそんなことばかりが目立つ。ワクチンを横取りしたり人に飲み食いをするなと言いながら自分たちはこっそり行き、秘書に暴言を吐く。なんだか政治家の先生ばかりの話のようだが、僕たちのような小さな会社の中にもそんなことがあったりする。前にもこのブログに書いたけれども、例の女帝のことを観察してみるときっとテストステロンが過多になっているに違いないと思えてくる。人を平気で罵倒するし、はばかることなくすぐに言うことを変える。横で見ていて滑稽だ。抑制する人がいないと人はこうなるという典型のようだ。そして、あの、自分の能力をあれだけ誇示できるのもテストステロンのなせるわざなのだろうと思うとこのホルモンの分泌機能が僕には備わっていないことを思わず願ってしまうのだ。
僕と同じような立場の同僚たちは毎日振り回され、そして毎日愚痴を言っている。僕の立場ではみんなの為にそこにブレーキをかけてやらねばならないのかもしれないが、自分のところにやってくる攻撃をかわすので手いっぱいだ。もともと、あと2年と少しで定年となるとこの会社の将来にはなんの憂いもない。どれだけ頑張っても評価が上がるわけではなく、そういう意味では今だけなんとかしのげればよいという不可逆的なサラリーマン人生なのである。
女のくせにとは言いたくはないが、女の割りにはオキシトシンが皆無でテストステロンの分泌が多すぎるのだ。
「独裁者が現れるのは、自分たちの努力で問題を解決せず、どこからか超人なり聖者なりが現れて、全部一人で背負い込んでくれるのを待っていたからだ。」と以前にも書いたけれども、この会社もまさにそういった愚民の集まりでしかないということだ。ご本人は転職をしながらキャリアアップしてここまで来たと言ってはいるけれども、どこの会社でも煙たがられるかなにかでここまで流れてきただけなのだろう。キャリアアップというのは誰でもうらやむ会社と仕事をしてこそ言える言葉であるはずだ。そうではないからこんな人でものさばっていられるというか、いいカモを見つけたようなものだ。社内では役職がないので自分で勝手に「統括」自分のことを呼んで箔をつけているのもおかしくてしかたがない。そしてそれを会社も認めているのだから不思議でならないのだ。マクベ大佐のように軍規上おかしい軍服の士官ばかりが指揮を執っている軍隊は遅かれ早かれ連邦軍に打ち負かされるのである。
そういえば、これも過去に書いているのだが、教育担当のラスプーチンもこの会社の所属である。それも今ではこの会社の取締役にまでなっている。僕の業界も意外と狭く、ラスプーチンの過去を知っているというひとが同業他社にいて、その人の話では、「なんであんな人が・・・。」ということだ。この会社にはまともな人間がいないのか・・。
なんだかわけのわからないことをいっぱい書いてしまったが、ここからがこの本のタイトルに関する本題にかかわってくる。著者は、『宗教や市場経済のようなしっかり確立された仕組みにさえオキシトシンは影響を及ぼす。』という。
宗教については、集団での礼拝や同じ食事、もしくは集団での踊りなどが共感を生むという。それにもオキシトシンが関与しているというのである。しかし、その共感が過度になってしまうと内集団バイアスが過度に進み外集団に対する敵意をかき立てられる。十字軍の遠征やパレスチナとイスラエルの対立はこういうことが原因なのかもしれない。
経済活動については、人類が営んできた歴史を見てみると、適度の競争は好成績につながることがわかる。それは罰則と協力のバランスであるともいえる。そのアクセルとブレーキがオキシトシンとテストステロンであると著者は分析している。ややもすると、テストステロンが勝ることが多い。アリストテレスの時代から商取引というものは、道徳に有害であるというひとつの感覚がある。それは人の心を叡智やほかのひとではなくお金に集中させすぎてしまうと考えられているからであるが、商取引は適切に行われると人々を豊かにする。しかし、人を出し抜いたり騙したりするようなテストステロンに由来する行為は共感や寛大という善循環を阻害する。勝者総取りという現代の状況に近い経済は不幸を招く。
だから、経済にも信頼と共感が必要であるというのが著者の結論になるのだが、それはたしかに理想のように思う。おそらく著者は、人の本質は勤勉であり信頼と共感のなかで勤勉に働けばすべての人が豊かになれるという前提で考えているのだろうけれども、ここはどうだろうか。人の本質は勤勉ではなく“怠惰”ということは社会主義の失敗が証明しているのではないだろうかとも思う。そしてすべての人が幸福になれる経済の鍵は、「愛」であるという結論はなるほどと思いながらもそれは経済学と言えるのかと突っ込みたくもなる。
また、様々な実験を通してオキシトシンの効果について証明され、人の行動はすべてオキシトシンとテストステロン(といくつかのホルモン)によって支配されるのだという論はあまりにも飛躍しすぎてはいないだろうか。人の性格と価値観は千差万別だ。微妙な濃度によって無数の効果のバリエーションがあるということもあるのだろうが、それだけではないような気がする。
ただ、オキシトシンの分泌を促すハグという行為が平和をもたらすひとつの鍵であるというのは信じたいと思う。しかし、僕にはそんな習慣がないので効き目のある薬を簡単に手に入れる方法はないものだろうかと思うのだ。ついでに同僚の分もお願いしたいものだ。
それよりも、もっと説得力がある言葉は、『頭は冷めていても、心は温かく、自分のもっともすぐれた力の少なくとも一部を、身の回りの社会的な苦しみと取り組むために進んで捧げる・・』だった。
今日から始まった朝の連ドラは、「人の役に立ちたい。」ということがテーマのひとつになっているそうだ。
それは、単なる化学物質がもたらす反応ではなく、もっと人が人として存在する神秘的な部分からあふれ出てくるものではないのだろうかと思う。
いつもコメントありがとうございます。
ブログにも書きましたが、あと2年と少し波風が立たずに過ぎ去っていってくれればと、それだけでいいんです。
同じ時に異動してきた、僕より5歳ほど若い同じカンリショクソウトウショクの同僚にそんなことを話したら、あなたがうらやましいと言われてしまいました。
この現状で自己実現を目指さねばならない人は少し可哀想な気がしています。