イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「近代民衆の記録 7 漁民」のうち、『魚の胎から生まれた男』読了

2023年10月19日 | 2023読書
岡本達明 「近代民衆の記録 7 漁民」のうち、『魚の胎から生まれた男』読了

菊版2段組み578ページもある本なのでなかなかすべてを読む勇気と根気がない。それなのにどうしてこの本を借りたかというと、この本に収録されている、「魚の胎から生まれた男」という作品を読みたかったからだ。

この本に登場する人が、スパンカーを発明した人だということを何かの本で知って、ぜひ一度読んでみたいと思った次第だ。ここに収録されているのはその中の一部抜粋して編集されたものだそうだ。52ページ分のボリュームがある。
この本の主人公(というか、語り部)は石橋宗吉という千葉県の夷隅(いすみ)地方というところに住む漁師である。日本でも1、2を争う水揚げ量で有名な勝浦漁港のそばである。この作品は石橋宗吉と高垣眸聞という作家との会話形式で書かれている。

ネットで石橋宗吉という人を調べてみると、『明治34(西暦1901)年7月27日生まれ。千葉県勝浦の網元弥惣兵衛(やそべえ)をつぐ。漁具や漁法の改良につとめ,1本の道糸に100本の擬餌鉤(ぎじばり)をつける「ハイカラ釣り」などを開発した。みずから「魚の胎(はら)から生まれた男」と称した。』と書かれていた。
漁業の技術については研究熱心な人だったらしく、日本全国から集まってくる漁師たちの漁法を学んで独自に改良を加えて、より効果のある漁法に作り上げてきたという。そして、それを特許も取らず、秘密にすることなく多くの人に広めたというのが石橋宗吉の功績だったということだ。黄綬褒章という勲章ももらっているそうである。まあ、ゼロから作り上げているというのではないというのはどうかとも思うが、世の中のほとんどのものが何かの模倣でもあるそうだからそれも仕方がない。

そして、その、スパンカーについてであるが、茨城県からやってきた20トンクラスの漁船が船尾に三角形の1枚帆を取り付けていたのを見て、もっと効果的な帆はないかと改良を試みた結果生まれたものだそうである。
船の釣りをする人ならスパンカーとは何かというのは当然知っているだろうが、知らない人もこのブログを読んでくれているのかもしれないのでちょっとだけ説明を書いておく。これがスパンカーというものだ。



この帆は、船の姿勢を安定させるために装備されている。この帆を立てることで船は、常に風上を向くようになる。これがないと、船は次第に舷から風を受けるようになりクルクル回り始めるのである。そうなってくると、長い仕掛けを使って魚を釣ることが難しくなる。スパンカーの無い船はエンジンをリバースに入れて風上に立てるような操作をするが船の姿勢はあまり安定しない。エンジンがなかった時代は、櫓の漕ぎ手を二人配して姿勢を保ったそうだ。
そんなことをしていると人手がかかって仕方がない。それを解消するための方法が茨城県の漁船が採用した三角帆だったのである。
ちなみに、スパンカーという名前は、西洋の帆船の船尾に取り付けられている三角形や台形の帆の名前だそうだ。くだんの茨城県の漁船は、この、西洋の帆船を参考にこの帆を開発したらしく、その名前が今でも使われているということだ。僕の父親なんかは、「艫帆(ともほ)」なんていう呼び方をしていたが・・。
石橋宗吉はこの帆をさらに改良し、2枚をV字型に配することによって風見鶏の原理で確実に船の向きを確実に風上に向けられるようにした。勝浦の測候所の風向計を見てひらめいたそうである。
ぼくはずっと外国語の名前がついているから、国外からもたらされたものだと思いながら、同時に、外国の漁港の映像を見ても日本の船のスパンカーをつけた船を見ることがないのでこれはどこから来たものだろうと思っていたのだが、これで謎が解けたという感じだ。
昭和の初めごろに発明されたというのだから、まだ100年も経っていない新しい技術だったのである。それが今ではほとんどの釣り船が同じ形のものを装備しているというのがすごいことである。

そのほかのエピソードについては、船の操船について、動力船のなかった時代、櫓を2丁取り付けた船で風が出てくると帆を張って船を走らせたという話などは、僕の父から聞いた話とまったく同じである。祖父と父も二人で櫓を漕いで、時には帆を張って田倉崎まで魚を獲りに行っていたらしい。こういうのも技術の交流が全国的におこなわれていたという証左だろう。
そして、そんな人たちに釣りの技が追いつけるはずがないと話を聞くたびに思ったものだ。海を知りつくしていないと、人力だけでそんな沖まで出てゆく勇気が湧いてこない。僕は90馬力のディーゼルエンジンをもってしてもいつも不安のなかで航海をしている・・。
船の維持についても、船底を焼いたりコールタールを塗ったりと、そういったことは僕が小学生のころでも雑賀崎や田ノ浦で見ることができたものだ。
そんなことを見たり聞いたりした世代というのは僕らくらいがきっと最後なのだろうなと、まあ、言い伝えるほどのことでもないがそういうことを知っているのだよとちょっと自慢もしたくなるし、僕の魚釣りはまったく垢抜けしないのはきっとそういう時代にあこがれを持っているからなのだろうなと納得もするのである。

その他、明治の終わりから戦後くらいまでの漁業事情やそこで暮らす人たちの生き方などが語られている。
伝説の漁師とも言われる人だから武勇伝ももっともなのだろうけれども、その辺は自慢しすぎで聞き手の側の作家もあまりにも持ち上げすぎではないだろうかと思えなくもないが、おそらく僕の祖父(父方の)も同じ時代を生きたひとであった。この人たちが味わった苦労と同じものを経験していたのかもしれないと思うと、なんだか他人の話ではないような気もしてくるのである。

夷隅地方と同じように、水軒の集落も半農半漁の集落であったというのはまったく同じだ。夷隅の地では嫁取りや入り婿で親戚関係を作ることで食料確保をしていたという。それも水軒とまったく同じだ。僕の父の妹は農家の叔父さんの家に嫁いで農家と漁師のつながりができた。これは夷隅や水軒だけでなく日本のどこでもそういったことで日本人は食べるものを確保してきたのだろう。網元からの搾取、地主からの搾取、仲買からの搾取に耐えながら生き延びてきたのである。叔父さんの家もかつては小作農で、戦後の農地解放でやっと自作農になれたのだというような話を聞いたことがある。
しかし、漁業に関しては、この時代のほうがはるかに魚は多かったという。漁業技術は現在に比べるとはるかに低いがそれをはるかに上回るほどの魚がいたというのだから、ある意味、うらやましい時代で、自分たちが食べてゆくくらいは楽に獲れたので搾取の中でも生き抜くことができたということだろう。
農業については栽培技術が高くなるほどに収量は増え、水軒に限って言うと地価が上がり土地は不動産としての価値がえらく上がってきて生活は楽というのを通り越してきたようである。しかし、漁業はというと、水軒浜の埋め立てと水質汚染が原因で漁師で生計を立てている人は皆無になった。漁業組合もすでに解散して久しい。
完全に負け組になったのだ。
我が一党はその負け組の一員であるのだが、ここで漁業が生活として成り立ってくれていたら、僕の人生もかなり変わったものになっていたのではないだろうかといつも残念に思うのである。そうは言っても、石橋宗吉のように創意工夫と情熱のかけらもないというのであれば僕自身は衰退するしかなかったのではないかというのは確かである。


以前、“自分のルーツは”ということを妄想したことがあったけれども漁業を生業としていた僕の一党は水軒の地で絶えてしまったのだろうかと、今の勤務先の顧客データベースをこっそり調べてみたことがあった。この会社は全国規模の会社なので同じ姓の人たちがどこに住んでいるのかということを国土全体のレベルで見ることができる。マツフサなんて相当特殊な名前だからその住所の分布を調べると意外とどこからどこへ行ったのかみたいなことがわかるのではないかと思った。
珍しい姓だから顧客名簿には20人程度しか出てこなかったが、そのうちの数人が千葉県の住所であった。そして和歌山県在住の人が圧倒的多数でもあった。
これはもう、妄想ではなく確信だが、この人たちの先祖(それもごく直近の)はきっと和歌山から渡っていった人たちではないだろうか。しかも僕の一族につながる人に違いない。
この作品にも書かれていたが、千葉の勝浦には全国から漁船が集まり、その中には紀州から来た人たちもいたというのだから我が一族の誰かも房総沖に魚を獲りにいってそのまま住み着いたひとがいたのだろうと考えてもあながち間違いではないだろう。
ご先祖さまの信州から紀州、房州への流転を考えると、半径10キロ以内でしか生きられない我が身が恥ずかしくなってくるのである・・。

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