イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝」読了

2021年12月03日 | 2021読書
藤澤志穂子 「釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝」読了

著者は元産経新聞の経済記者。半ば左遷のように支局長として配属された秋田県でやたらと釣りキチ三平のキャラクターに出会うことでマンガと経済の関係に興味を持つ。
(ネットでは著者が産経新聞の記者であったということを調べられるのだが、この本のプロフィール紹介では「全国紙の経済記者」とだけ書かれているのだが、なにか事情があるのだろうか・・?)
マンガの原画というのは印刷に回されたあとは著者に返却されいわばゴミのようなものになる。しかし、それが一度市中に出回ると大きな価値を持つものがある。今では海外でも相当な値で取引されるという浮世絵のような現象も起こっている中、秋田県横手市にはマンガ美術館という、日本で初めて「まんが」をテーマにした美術館があるということを知り、その設立に尽力した漫画家が秋田県横手市出身の矢口高雄であったということを知る。
そういったマンガと経済のかかわりについての取材を進めるうちに矢口高雄というひとの人となりやその思いに共感してこの本を書くことになった。
横手市増田まんが美術館は矢口高雄のマンガの原画を蒐集、保存する目的で作られた施設で、当初、「矢口高雄記念館」と名付けられる予定であったが、本人が、自分が死んだあとのことを考えて現在の名前になったそうだ。現代ではマンガもパソコンで描かれるため原画自体が無くなり、酸性紙を使っているために劣化もひどくこういった施設は歴史としてマンガを保存するためにも貴重な存在であるらしい。

特に矢口高雄のファンであるというわけでもなく、この本も図書館の蔵書検索でキーワードを「釣り」と打ち込んだら見つかったというものだった。この本には、釣りキチ三平の影響で釣りを始めた人が多数いて、1970年代の釣りブームを巻き起こしたと書かれているが、おそらく僕は釣りキチ三平には何の影響も受けていないように思う。ただ、マンガに描かれている風景や魚の姿には憧れるものがあった。だから、しかし、ちょうど去年の今頃、矢口高雄が亡くなったというニュースが流れていて、その時に知ったことであるが、この人は30歳でプロデビューという遅咲きの作家だったそうだ。この本にはそういった経緯も詳しく書かれていて、貧しい家庭ながら中学時代の恩師の勧めで高校進学をすることができ、村始まって以来の高校生となり、村始まって以来の銀行員として社会人生活をスタートさせた。そんな人がどうして30歳で安定した職を捨ててまで夢に賭けようとしたのだろうかということには興味があった。

矢口高雄とマンガの出会いは小学制時代。手塚治虫のマンガに感動し、自らも漫画家としても夢を捨てることが出来ずに妻子がいるのにも関わらずひとり上京するのであるが、その時の奥様の言葉がかっこいい。『もし反対したら、あとで一生私を責め続けるに違いない。そのほうが私には耐えられない。だからどうぞおやりなさい。ただし、2人の娘を不幸にすることだけは許しません。』高度経済成長の時代だからどんな職にも就けるという安心感もあったのだろうが、「ゲゲゲの女房」といい、漫画家の奥さんというのは肝っ玉が大きい。また、その期待に応えることができるご本人もやっぱりすごいと思うのだ。

僕も釣りキチのひとりと自負はしているので矢口高雄の名前は知っていたし、「釣りキチ三平」も読んだことがある。しかし実はこの本を読むまではずっと少年チャンピオンに連載されていたマンガだと思い込んでいた。北海道でイトウを釣るという物語は確かにリアルタイムで読んでいた記憶があり、僕はチャンピオン派で一時期であるが毎週それを買っていた時期があるのでその時に連載されていたのがこの編であったのだと思っていたのだ。少年マガジンの連載というのが正解なのだが、僕は一体どこでこのマンガを読んでいたのだろう・・。

自分が描く物語のテーマを、破壊されてゆく自然、廃れてゆく地方に対する危機感とし、そして、かつては悪書と言われたマンガの地位向上を目指すのだということが矢口高雄の目標となった。
そしてそのとおり釣りキチ三平を大ヒットさせたことで自身の自然観、そしてなにより自分が心血を注いだマンガという分野を芸術といえるほどまで高めることができたのである。

テレビのインタビューなんかを見ていると相当温和な感じでどこにそんな強い意志とエネルギーが秘められているのかと思うが、何かひとつを成し遂げる人というのは違うのだろうなと思わせられるのである。もっとも、矢口高雄自身も村始まって以来の高校生であり、村始まって以来の銀行員になったというのだからもともとは相当優秀な人であったのだろうが、人がどう言おうと自分が信じた、自分の好きな道を、人がとやかく言ったとしてもそれを無視して突き進むというのはやっぱりどこか違うのであろう。成功しなければただのバカ者であるとなるのだが、それでも悔いはないと思える人だけが栄冠を勝ち取るチャンスを持っているということだろう。
僕の船を係留している港のもうひとつ奥の港釣りの世界では相当有名な釣り船の船長がいる。聞けば僕とまったく同じ年だそうだ。おそらく小学生の時は僕の港の前にある隣の小学校に通っていたのだと思う。僕もこの辺りではよく魚釣りをしていたのでひょっとしたらすれ違っていたかもしれない。同じ釣り好きでも方や日本を代表するメーカーのプロスタッフ。テレビにも出演し、自らの名前を冠したタックルもプロデュースするほどだ。この人はきっと小さいころからそれこそ釣りキチ三平のように釣りに没頭していたのだろう。おそらく周りからは、「あいつは釣りばっかりやってていっこも勉強しくさらん。」と言われ続けていたに違いない。しかし、結果はどうだ、しがないサラリーマンよりもこの人のほうがよほど地位も名誉も収入もはるかに上に違いない。
自分を信じて突き抜けること、それがないと自分の好きなことをして飯を食っていけないという好例が目の前にあった。もちろん才能という前提はあるのだろうが・・。

文学、特に純文学というのは、自虐、自己批判、孤独というのがベースになっているが、マンガはその対極で、友情、努力、勝利がポリシーだ。そういう意味では、陰陽思想に出てくる対極の考えのごとくマンガも芸術の一端として考えられてもおかしくはないし、発行部数からいくと、純文学の数千倍はいっているということは、実はマンガが正統であって純文学のほうがマイノリティであるのかもしれない。

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