イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「反哲学入門」読了

2022年06月02日 | 2022読書
木田元 「反哲学入門」読了

以前に読んだ、「哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる」の著者が、「自分の知る限り一番わかりやすい哲学の入門書である。」と紹介していた本だ。

著者はユニークな哲学者で、終戦直後は闇屋をやっていたそうだ。儲けたお金で大学に入ったというのだからすごい。
さて、「一番わかりやすい・・」とはいえ、元々が難解であるのが哲学であるのでそんなにすぐに哲学がわかるわけがない。最後は著者の研究の本山であるハイデッカーについて書かれているのだが、到底そこまで理解できるわけがなく、この感想文ではソクラテス、プラトン、アリストテレスと哲学の世界の転換点になったことくらいまでを追いかけたいと思う。

まず、タイトルであるが、哲学の入門書なのになぜ、”反”という言葉を入れたかという説明から入っている。
日本ではその歴史を通して、哲学がなかったと言われている。そういう日本人からは哲学というものは西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方だと著者は考えている。日本人が哲学を理解することはそうした「哲学」を批判し、そうしたものの考え方を乗り越えようとする作業ではないかと考えたことから、それを「反哲学」と呼ぶようになったと述べている。(この本は基本的に、著者の口述記録を編集者が文章に起こしたものである。だから文章自体は会話調になっていてそれが意外と読みやすい。)
この本は、そういう立場から哲学の歴史をふりかえって、哲学とは何であったのかということを考える試みであるとしている。
哲学は何を考える学問なのかというのは、「哲学の名著50冊が・・」では、「存在」について考えることであると書かれていた。この本ではもう少し詳しく、『「ありとしあらゆるもの(存在するものの全体)が何か」ということを問うて答えるような思考様式であり、しかもその際、何らかの超自然的原理を設定し、それを参照しながら、存在するものの全体を見るようなかなり特定の思考様式である。』と解説されている。
ありとしあらゆるものがどうしてこの世界に存在するかということを考える時、「つくる」「うむ」「なる」という三つの動詞にその発想が集約されるという。これは世界中のはじまりの神話の数々を分類すると見えてくるのだが、例えば、日本神話では国はイザナギ・イザナミの二神が生んだということになっているし、旧約聖書では神が世界を「つくる」ことになったし、メラネシアの神話では、世界に内在する神秘的な霊力の作用で具現化した(なった)ということになっている。そういうところから「イデア」というような観念が生まれてきた。

西洋哲学の大きな特徴は、自然は世界を形作るための無機的な材料、質料にすぎないもの、すなわち物質になってしまっているということである。自然とは、もともと文字どおりおのずから生成してゆくもの、生きて生成してゆくものであるが、それが超自然的原理を設定し、それに準拠してものを考える哲学のもとでは、死せる制作の材料になってしまう。そういう意味では哲学は自然の性格を限定し否定して見る反自然的で不自然なものの考え方ということになる。超自然的な存在が自由自在に操ることができるのが自然だったのである。

しかし、ソクラテス以前の思想家、アナクシマンドロスやヘラクレイトスが活躍した時代のギリシア人はそんな反自然的な考え方はしていなかったが、ソクラテスやプラトンの時代に、たとえばプラトンのいう、「イデア」のような自然を超えた原理軸にする発想法に転換した。それ以来、西洋という文化圏では、超自然的な原理を参照にして自然を見るという特異な思考様式が伝統になったのである。
19世紀後半、ニーチェはこのことに気付いた。この時代というのは産業革命が起き、大量生産、大量消費の時代で、植民地政策が破綻し始める時代でもあった。人々が次第に工業化、資本主義に呑み込まれていくという行き詰まりの原因を、超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機的な材料と見る反自然的な考え方自体にあると見抜き、「神は死せり」という言葉で宣言し、形而上学的な思考から脱却しようした。著者の専門である、ハイデッカーなどもそれに追随する考えを持った。こういう人たちの思考は「脱構築」と呼ばれる。
だから、西洋哲学の世界ではニーチェの考えが大きな転換点になっていると言われているのである。

ここで、哲学の世界で使われる言葉について書いておこうと思う。これは西洋哲学を知るうえでも、その転換点について知るうえでも大きく関わることである。

●そもそも、「哲学」という言葉の語源について
「哲学」の直接の語源は、英語のphilosophyあるいはそれに当たるオランダ語で、これは古代ギリシア語のphilosophia(フィロソフィア)の音をそのまま移したものである。この言葉は、philein(フィレイン:愛する)という動詞とsophia(ソフィア:知恵ないし知識)という名詞を組み合わせてつくられた合成語であり、「知を愛すること」つまり「愛知」という意味になる。「愛知」というのは地名にもあるからというのかどうかは知らないが、それを江戸時代の最後の時期に活躍した西周という学者が「哲学」という訳を当てたのである。
もともとは「希哲学」という訳し方をしていたそうだ。儒教で語られる「士希ㇾ賢」(士は賢を希う(ねがう)と同じだろうということで「希賢」としたがこれでは儒教臭が強いというので「賢」とほとんど同義の「哲」という言葉を当てたが、明治になって書かれた著作では「希」が抜けてしまって「哲学」になっていたという。「愛」の部分がすっぽりと抜けてしまっているので著者はこれは誤訳だろうと言っている。
●「形而上学」という言葉について
英語ではmetaphysics、ギリシア語のta meta ta physika(タ・メタ・タ・フィジカ)の訳語として造語されたものである。もともとはアリストテレスがリュケイオンでおこなった講義ノートを250年後に整理編纂した際に生まれた言葉だそうだ。
アリストテレスはプラトンの弟子であるが、この講義の順番で最後に受講するのが「形而上学」というものであった。その順番というのは、まず具体的な科学研究(動物学、植物学、心理学など)や理論思考の訓練を受けて、次に、自然学(運動論や時間論などを含めた物理学)を学び、最後にイデアのような超自然的原理を学ぶ、「第一哲学(プローティー・フィロソフィー)を学ぶことになっていた。これは「自然学の後の書」と呼ばれていて、「自然を超えた事がらに関する学」という意味で、「超自然学」という意味で定着した。
これが日本に入ってきたとき、「超自然学」と訳さず、「易経」の繋辞伝にある、「「形而上者謂之道、形而下者謂之器(形より上なるもの、これを道と謂い、形より下なるもの、これを器と謂う)」という言葉から訳された。
●「理性」という言葉について
哲学でよく語られる、「理性」という言葉だが、これは普通に語られる意味では使われない。日本人が「理性」と呼ぶものは、人間の持っている認知能力の比較的高級な部分であるので、人によって理性的であったりそうでなかったりするものである。しかし、哲学の世界では、「理性」とは人間のうちにはあるものだがそれは神によって与えられたもの、つまり神の出張所ないし派出所のようなもので、したがってそれを正しく使えばすべての人が同じように考えることができるし、世界創造の設計図である神的理性の幾分かを分かちもっているようなものだから、世界の存在構造も知ることができる、つまり普遍的で客観的に妥当する認識ができるということになるのである。

では、哲学はどうして発生する必要があったかということであるが、プラトンの時代、彼はポリス間の闘争に敗れた祖国アテナイの政治をなんとかしたいと考えた。
スパルタとの戦いに敗れた要因となった、ある意味民主的な「なりゆきまかせの政治哲学」から、正義の理念を目指して「つくられるべき」ものに変革しなければならないのだという政治哲学を主張しようと考え、それを基礎づけるための「つくる」理論に立つ一般的存在論を「イデア論」というかたちで構想した。目差す道を指し示す超自然的存在が必要であったのである。
また、キリスト教では、キリスト教の教義体系を構築するための下敷きとして利用された。教義のなかで自然的な事象に関わるものを整理するにはアリストテレスの「自然学」を使い、神の恩寵や奇跡のような超自然的な事象に関わるものを整理するのには「自然学の後の書」すなわち、形而上学を使った。
これらは、真に、「存在するということの理由」を解明するというよりも、政治や宗教を効率よく進めたり広めたりするツールでしかなかったと言えなくもない。もとあった哲学的思考を政治や宗教のほうが都合よく利用したのか、それとも哲学自体が政治や宗教のために生まれたのかは定かではないけれども、どちらにしても思考の変化というのはえてして自分たちの都合の良い方向に向かっていく傾向にあるものだ。そう考えてしまうとなんだか、真理を求めているはずがそれに関わる人たちの心のバイアスが時間の経過とともにいっぱい盛り込まれてしまっているような感じになってくる。

結局、宗教も政治も宇宙が開闢したときから存在していたものではなく、それを補完するために哲学が存在するのなら哲学も宇宙や世界の真理を語っているものではないとなってしまうのだろうか。しかし、哲学から生まれた自然科学が宇宙や世界の真理を解き明かそうとしているのも事実である。となると、やはり哲学は、宇宙が開闢したと同時に存在し、人間はひたすらその姿を解明するために埋もれた土の中から掘り起こす作業をしてきたのだということになるのだろうか。どちらにしても、自らの存在理由を解明するためには、世界を俯瞰的に見るという、ある意味、神の位置、すなわち超自然的な位置というものが必要であったのだろう。

こういう複雑な思考というものもありなのだろうが、東洋思想の根幹のひとつである仏教の考え方である、自らは無から現れてまた無に帰っていく存在で、現世というのはその間に現れたコブのようなものなのであるという考え方のほうがよほどスッキリしていると思えるのである。

この本にはまだまだ理解をしなければならない哲学が満載されている。図書館で借りるだけでは追いつかないと思い、同じ本を買ってしまった。とりあえず手元に置いて暇なときにはパラパラとページをめくりながら理解を深めたいと願っているのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする