イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる」読了

2022年05月02日 | 2022読書
岡本裕一朗 「哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる」読了

こういうタイトルの本、たとえば、「3分でわかる・・」とか「サルでもわかる・・」いう本を読んでも、そのものについて本当に理解できるものなどはないというのはもちろんわかっているのだが、つい安直に読み始めてしまう。
この本もそういう手の本だが、まだ、”ざっと学べる”程度だと書いているだけ親切だとも思う。
それでも何か哲学について知るための取っ掛かりが欲しかったのである。
哲学というのは、おそらく、すべての思考の原点なのではないかと僕は思っている。実際、科学も宗教も文学もすべては哲学から生まれた思考や理論構造が発展していったものと言われている。特に、ギリシャ時代の哲学者たちは科学者でもあったりした人が多い。
と、いうことは、人類の思考のビッグバンの元となったのが哲学であると言えるのではないだろうか。そう思うと、少しでもそれに近づいてみたいと思うようになったのだ。
また、量子力学の本などを読んでいると、今度は科学と哲学の境目があいまいになってきているのではないかと思えるようなところがある。これはきっと思考のビッグバンが再び収束し、思考のビッグクランチを迎える前兆ではないのだろうかと思ったりし、よけいに哲学について知りたくなってきたのである。

そう思いながら入門書のそのまた入門書のようなこの本を読み始めたのだが、やっぱりさっぱりわからない。ところが、中盤を越えて、近代の哲学者が登場するころになり、その辺りで紹介されている哲学者のひとり、ハイデッカーのページに、『アリストテレス以来、哲学が問い続けたものは、「存在」である。』と書かれていた。これで、はたと合点がいった。哲学の思考というのは、自分たちはどうしてここに存在しているのかという疑問をひたすら考えてきたことなのではないだろうかということだ。そしてその先には、これからどこに向かうのだろうかという疑問が続くのだろうが、それはまさしく人間が知恵を身につけて以来知りたいと思ってきた核心だったのである。まあ、普通の人ならそんなこととうの昔に知っているということになるのだが、無知というのは悲しいのである。
だから、この世界や宇宙の存在を思考した哲学者たちは天文学や物理学などの礎となり、人間の存在を思考した哲学者たちは医学や宗教、政治学、文学の礎となっていったのではないだろうかと思えるようになった。そして、存在そのものの定義と真理を追い求めて続けているのが哲学者ということなのだろう。
もっとも、自分の存在にしか思考が行かない人達はただのナルシストになりさがり、存在自体に興味がない人達はそもそも哲学には興味を抱かなかったのは今も昔も変わりはないはずだが・・・。
そういうフレームでこの本を読んでいくと、少しは哲学についてわかるような気もしながら、やはりそんなに簡単ではない。
幾多の哲学者が「存在」について語ってきたのであるが、本の中に書かれている、その、「存在」について解釈されていると思われる個所を列挙してみたのだが、まったく何を書いているのかがわからない・・。
ソクラテスは「無知の知」を知ることが自らの存在を知ることであり、
セネカは「人生は短いのではなく、時間をどう使うかが重要だ。」と言い、
フランシス・ベーコンは「知は力なり」と言う。
ルネ・デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言い、
ブレーズ・パスカルは「考える葦」だと言う。この二人の言葉は有名で、「存在」という言葉をキーワードにして読み直してみると、なるほどと思えなくもない。
ジョン・ロックは、経験が人間の存在を創り上げてゆくという「経験論」を唱え、
デイヴィッド・ヒュームは「理性は情念に支配されている」とした。
イマヌエル・カントは「認識は経験とともに始まる」としながらもすべての認識が経験から生じるわけではない」とも考え、「合理論」というものを作り出した。
ゲオルク・ヘーゲルは「人間の個人的な意識よりも、いっそう大きな理性や精神の概念」を強調した。
セーレン・キルケゴールはわけがわからん。『人間は精神である。しかし、精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし自己であるとは何であるか。自己であるとは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。人間は、有限性と無限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との統合、要するにひとつの総合である。総合というのは、ふたつのものの関係である。このように考えたのでは、人間は、まだ自己ではない。』これこそ、THE哲学という文章だ。何を言っているのかがさっぱりわからない。そもそも、文法的にこの日本語は正しいのだろうか・・。
アンリ・ベルクソンは「物質(身体)と記憶(心)」は別々の存在であるという二元論を唱え、
マルティン・ハイデッガーはそれらすべての存在の統一理論を打ち立てようとした。しかし、それは成し遂げられることなく亡くなってしまう。
その後に続いた哲学者たちも存在を考える。ハイデッガーは世界と個人の存在の関係に言及した。これは存在を定義するうえで大きな転換点になったらしい。
ジャン=ポール・サルトルは「即自存在、対自存在、対他存在」という概念から人間存在の細密な分析をおこない、
ハンナ・アーレントは人間の条件というものを設定し、それは「労働、仕事、活動」というふうにその重心が移ってきたとした。
モーリス・メルロー=ポンティは受動的な生きられた世界(世界内存在)よりも存在が重要という。(肉の存在論)
チャールズ・テイラーは人間が「社会的動物」であり、人間にふさわしい能力は社会の中でしか開花できないと考える。
ベルナール・スティグレールは、生まれつき欠損動物である人間にとって。「技術」は必要不可欠であると考える。
クァンタン・メイヤスーは、人間以上の絶対的な存在を数学や科学が理解するものの中に問いかける。
マルクス・ガブリエルは、自然科学的宇宙だけでなく、心に固有の世界(心の世界)も存在すると考える。


まあ、短絡的な脳みそで総合してみると、存在というものは思考することで生まれてくるものであるということを言っているような気がする。思考しなければ現実(実体)は存在していないことになる・・。どこかで聞いたことのように思うのは、東洋哲学の粋である仏教にも同じような考えがあるからだろうか。また、量子論でも、観察しないかぎりは対象物は雲のように不確かな存在であるという。
地域が違っても同じような結論に到達するというのは、人間の根本の思想の中にそういった考えがあるからなのだろうか。不思議な気もする。

科学が発達し、人間の意識のメカニズム、宇宙が生まれる前はどんな世界がここにあったのかなど、そういった、おそらく過去から現在までの哲学者たちが知りたいと思っていたことが現実に解き明かされようとしている。また、人のありようもデジタルの時代を迎えて今までとはまったく違う認識を与えようとしている。
哲学の中では、これまでも様々な「存在」に対する考え方が生まれては端のほうに追いやられということを繰り返してきたそうだが、ここに来てまた大きなパラダイムシフトが始まるのかもしれない。この本の最後の方に出てくる、クァンタン・メイヤスーという人はデジタル時代の哲学者だとも言われているそうだから、あたらしい時代の哲学というものが生まれつつあるのかもしれない。

まったくオタク的な見方だが、アニメのプロットには、哲学的な考えがたくさん取り入れられてきたように思う。例えば、ニーチェが書いている「超人」というのは機動戦士ガンダムに出てくるニュータイプという人たちそのものではないかと思えてくるのである。ニーチェの考えでは、「人間」とは「動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱」に過ぎないそうだ。人類が宇宙に暮らす時代が本当に来るのかどうかは知らないが、コミュニケーションの幅が広がり、とんでもなく大量の情報に簡単にアクセスできる世界になり、人類の革新というものが起こってしまうかもしれない。また、攻殻機動隊というアニメでは、デカルトの二元論そのままの世界が舞台だ。西洋哲学ではないが、エヴァンゲリオンの世界も、吉本隆明の「共同幻想」がベースになっているのではないかと思えるところがある。きっと、原作者たちがこういった哲学に通じていてそれをプロットに取り込んでいったのかもしれないだからこそ時代を超えても色あせず人気を呼び、時代ごとにその解釈が更新されていくのだと思う。
そうなってくると、哲学というものはやはり教養のひとつとしてはいくらかでも理解をしておかねばならないものではあるのだなとも思えてくるのである。


最後に、これから先、哲学に関する本をどれだけの数を読むのかわからないが、これから哲学の一端を知り形作るコラーゲンになるかもしれないので各哲学者とその人に関するキーワードを書き残しておこうと思う。

ソクラテス:「無知の知」
プラトン:「イデア」
アリストテレス:「形而上学」
セネカ:「ストア派」
ピエール・アベラール:「唯名論」
トマス・アクイナス:「スコラ哲学」
ミシェル・ド・モンテーニュ:「懐疑論」
ルネ・デカルト:「近代主観主義」「方法的懐疑論」「二元論」
ブレーズ・パスカル:「人間=死刑囚論」
バールーフ・デ・スピノザ:「一元論」
イマヌエル・カント:「認識論におけるコペルニクス的転回」
ジェレミ・ベンサム:「功利主義」
ゲオルク・ヘーゲル:「ドイツ観念論」の完成者
アルトゥール・ショーペンハウエル:「ペシミズム」
J・S・ミル:「満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方が良い。」「自由論」
セーレン・キルケゴール:「実存主義」「死に至る病」
フリードリヒ・ニーチェ:「超人」
エトムント・フッサール:「エポケー」「現象学」
アンリ・ベルクソン:「エラン・ヴィータル」
マルティン・ハイデッガー:「世界内存在」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン:「写像理論」
ジャン=ポール・サルトル:「実存主義とマルクス主義の統合=弁証法的理性批判」
ハンナ・アーレント:「人間の条件」
ミシェル・フーコー:「構造主義」「大いなる閉じ込め」
ジャック・デリダ:「脱構造」
ユルゲン・ハーバーマス:「コミュニケーション的理性」
リチャード・ローティ:「対プラグマティズム」「言語論的転回」
チャールズ・テイラー:「個人のアイデンティティは社会的承認による」「近代的アイデンティティ」
アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート:「帝国とマルチチュード」
ベアード・キャリコット:「エコファシズム」「再構築主義のポストモダニズム」
ペーター・スローターダイク:「シニカルな理性」
スラヴォイ・ジジェク:「現実界」
ベルナール・スティグレール:「メディオロジー」「技術なくして人間なし」
クァンタン・メイヤスー:「思弁的実在論」
マルクス・ガブリエル:「新実在論」「世界は存在しない=世界以外のものはすべて存在する」
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