九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは、大分県最後の札所である佐伯の大日寺の朱印をいただけないまま宮崎県に入った。西南戦争最後の激闘地となった和田越を過ぎ、延岡の市街に入る。まず目指すのは、市街から少し西に進んだ第31番・龍仙寺である。
宮崎県北部の町である延岡と聞いて、どういう連想をするだろうか。これまで日豊線で通過したり、かつて走っていた高千穂鉄道の起点として駅を通ったことがあるが、町並みを目にするのは実質初めてである。旭化成の発祥の地であり、現在もグループ最大の生産拠点を有する工業都市ということはよく知られている。
その一方で頭に浮かんだのは、夏目漱石の「坊っちゃん」である。この作品は、主人公の「坊っちゃん」が赴任した松山をことさら田舎のように描いているのだが(もっとも、書かれたほうの松山の人たちがこぞって「坊っちゃん」を町の看板としてPRしているのだが・・)、延岡はさらに輪をかけている。登場人物の一人「うらなり先生」が転勤する場として登場する。そして作中では、「延岡といえば山の中も山の中も大変な山の中だ」「猿と人とが半々に住んでいるような気がする」などとひどい書かれ方だ。
現実の延岡は五ヶ瀬川の河口にあり、日向灘に面した開けた地形である。江戸時代は藩主がたびたび入れ替わったものの、中期以降は内藤氏が藩主を務め、7万石の城下町も開かれていた。確かに三方は山に囲まれており、「坊っちゃん」が書かれた当時はまだ日豊線の大分・宮崎の県境区間はまだ開通していなかった。松山ですら田舎のどうしようもない町のモデルとして書いた漱石としては、「うらなり先生」が左遷された先を探していたのかな。
ただ、その後の「うらなり先生」の送別会の場面では、「延岡は僻遠の地で、当地(松山)に比べたら物質上の不便はあるだろうが(中略)、風俗のすこぶる淳朴な所で、職員生徒ことごとく上代樸直の気風を帯びている」と、「坊っちゃん」の同僚の「山嵐」にスピーチしている。なぜ「坊っちゃん」で「うらなり先生」の転勤先を延岡に設定したのかはわからないが、作中人物にそう言わせるということは、漱石の延岡に対する印象もそれに近いものだろう。熊本に赴任していたこともあるから、延岡がどういうところなのかも知っていたのかな。
クルマは国道10号線を走り、延岡の繁華街を過ぎる。そして、江戸時代初期に高橋元種が築き、以後何代かの藩主交代を経て内藤氏が藩主となった延岡城跡を見る。依然として雨なので城跡見物は別にいいかな。
市街地を抜け、延岡城よりも前に室町時代に築かれ存在していた西階城跡に近づく。城というよりは中世の砦だったところのようだが、現在は高台の地形を利用して野球場や陸上競技場、住宅地、市営墓地などが並ぶ。
市営墓地の駐車場から坂道をさらに上ると、龍仙寺の山門に着く。
龍仙寺は江戸時代初期、大和の国から招かれて谷山覚右衛門により修験道の道場として開かれた。本尊は大黒天と荼吉尼天を祀った。当初は明實院という名で、延岡藩の内藤氏の祈願所として、また地元の人たちからも信仰を集めていたが、火災に遭い、また明治の廃仏毀釈で廃寺寸前となった。明治時代に現在の龍仙寺という名前になり、住職不在の時期もあったそうだが、現在は順次復興されている。
本堂の扉を開けて中に入ることができる。現在の本尊は十一面観音である。外は雨が降る中でのお勤めとする。外の建物に納経所の札が出ていたが、朱印は本堂の中でセルフ式でいただいた。
本堂の向かいには赤い稲荷堂があり、下から赤い鳥居が続いている。元々の本尊だった荼吉尼天はこちらに祀られているそうだ。神仏習合の名残と言えるだろう。
次の第32番・光明寺はほど近いところにある。雨が続く中訪ねてみよう・・・。
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