まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第4回四国八十八所めぐり~第16番「観音寺」

2016年10月15日 | 四国八十八ヶ所
難波を出てから7時間が経った14時、徳島線の府中(こう)に到着する。途中、浜寺公園の人身事故の影響もあり、計画も見直すことになった。

「府中」はどう読んでも「ふちゅう」だろう。それがなぜ「こう」と読むのか。一つは、かつての阿波国の国府がこの辺りにあったこと。「こくふ」を「こう」と読む例はある。私の住む藤井寺にも「国府」と書いて「こう」と読む町名がある。阿波国の府中はそれだけではなく、江戸時代に徳島藩を治めた蜂須賀氏は、「府中は不忠につながる」として、「孝」につながるように「こう」としたのだとか。外様大名で、徳川から因縁をつけられないようにということなのか。(徳川から因縁をつけられたといえば、大坂の陣のきっかけにもなったとされる方広寺の鐘の銘文「国家安康、君臣豊楽」があるが・・・)

無人駅であるが、徳島近郊ということで駅前にも住宅が並ぶ。朝夕は結構利用客もありそうな感じだ。まずは最寄である16番の観音寺を目指す。徒歩で15分くらいの位置にある。とりあえず笈摺は着ずに、金剛杖だけを取り出して歩き出す。10月に入ったがまだ暑さを感じさせる。

静けさのある町並みから国道192号線を渡る。旧街道といった感じの道で、府中駅から観音寺に向かうのは「逆打ち」のルートである。向こうから歩いて来る遍路姿の人と何人かすれ違う。

途中、大御和神社というのに出会う。大和の三輪神社と関係があるのだろうか。由緒がある感じで、「府中の宮」と親しまれているそうだ。まずはここで手を合わせる。

この神社で進路を右(西)に取り、数百メートル歩くと突然と言った感じで観音寺に到着。歩いていて正面に山門が出迎えるとか、石段があるとかいうことがなく、民家に囲まれた中にある。これまで回った中ではもっとも小ぢんまりした感じだし、「四国十六番」の立札がなければ素通りしていたかもしれない。ただ逆に、町の中に溶け込んで親しまれているようにも見える。山門の前で笈摺を着て、ようやく遍路・巡礼モードである。

と、門をくぐったところではこれから団体さんのお勤めが始まるところ。先達さんの音頭で20人くらいが声を揃えて般若心経を唱える。他に個人での参詣者も多い。皆それぞれのペースでお経を唱えており、狭い境内が賑やかに感じられる。私が回り始めた夏場は参詣者も少なかったが、やはり10月は外に出るのに適した時期、そして連休ということで遍路・巡礼の数も多い。

ここ観音寺は聖武天皇の勅願により、行基により開創されたとされている。その後、弘法大師が千手観音像を彫って本尊としたと言われている。ただ、四国めぐりの参考書として読んでいる五来重『四国遍路の寺 下』によれば、この手の寺院は、元々村の鎮守の別当寺だったものが、八十八の札所を定める時に割り込んだものだ、という考察がされている。また、中世にはそれなりの広さの境内だったのが戦乱で焼失し、江戸時代になって蜂須賀氏により再建されたとも言われている。その本堂もまた最近建て直したのか、新しい感じである。由来は各説あるとしても、今はこうして町中の札所として気軽に訪ねることができる。それでいいのではと思う。

本堂、そして大師堂でお勤めを終え、納経所に向かう。八十八所の中でもここだけ、として知られているのが、白衣の襟に光明真言の梵字の印を押すというものである。窓口には二人いて、一人が光明真言専属で対応している。あらかじめ版木が用意されていて、それに墨を塗って白衣を押し当てる。これをつけていれば道中の安全が守られるというが、洗濯したら色落ちしそうだし、白衣の朱印は集めていないのでそれは見るにとどめる。印をいただいていた人も、着用用というよりは朱印用の白衣にいただく人がほとんどだった。

参詣を終えると時刻は15時前。この時間からだと、17番の井戸寺に行って本日は終了だろう。元来た道を歩いて、府中駅のほうに向かう。途中、ゆっくりと歩いている50~60歳代に見える男性二人を追い越す。その時に頭を下げると、「兄ちゃん速いの~、特急列車やなあ」と返される。いや別に特段速いわけではない。おそらく朝から12番の焼山寺か、あるいは13番の大日寺から歩き続けてきたであろうお二人に比べて、私はつい1時間前に歩き始めたばかりである。まあ、四国札所の回り方、ペースは人それぞれということで・・・・。
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