津波の被害に遭った気仙沼の町中を歩く。4年前に訪れた時にのぞいたお魚いちばも建物の外壁だけ残してさらわれた状態。ちょうどガレキの撤去作業にあたっていた人たちが昼の休憩を取っているところだった。
そんなガレキのすぐ横に「付近の高台」という誘導板が見えた。この看板は被災後に立てたものだろうか。確かに少し坂道を登れば高台に至る。ただ津波で多くの人たちが命を落としたことであり、何だかやりきれないことである。
看板だけが残ったガソリンスタンド。時計が、ちょうど地震の発生した14時46分を指したまま止まっていた。時間というものは絶え間なく流れるものだが、こうしてみると「時が止まる」というのは実際にあることではないかという気がしてくる。
魚市場へ。市場の建物そのものは残っているがもちろん魚のセリが行われることはない。建物だけががらんとして人の気がない。ふとそこで、崩落したブロックで何か文字がつくられているのを見る。「がんばれ気仙沼」。地元の人がつくったのか、ボランティアや復興支援でやってきた人がつくったのか。先ほどのグラウンド・ゼロとともに、この地からメッセージを送ろう、何とか希望を持ってもらおうという思いが伝わってくる。
そして、魚市場から南に広がる光景を見て唖然とした。先ほどまでの地区はまだ外枠を残す建物が多かったのだが、こちらはより外海に近いせいか、津波で建物ごと持って行かれた、あるいは完全に取り壊しが進んだのか、一面に焼野原が広がっているかのように、町の素型というものが消えた感じである。
その壁になったのか、気仙沼のシャークミュージアム横にも漁船が打ち上げられている。サメに関する展示や、魚を氷点下の中に閉じ込めた展示がユニークだったミュージアムは果たして再開されることはあるのだろうか。
津波の被害をモロに受けた地区を歩く。敷地を決めているのか、ガレキや廃車がまとめて積み上げられている。今でも水の引かないところが多く、焦げたような臭いのほかに、ヘドロの臭いも混じり、3ヶ月経過してもどうにもならないもどかしさを感じる。出てくるのはため息ばかり。
地図によればもうすぐそこに南気仙沼の駅があるはずだ。周りにかろうじて残った看板から位置関係を確認して、ようやくこの先に駅があるのを認めた。ただ、そこへはガレキの山、そして水の引かない泥の中を進まなければならず、駅舎まで行くのは断念した。
しばらく歩くと辛うじて道の残っているところがあり、そこから線路のほうを見る。土床は崩れ、線路もひね曲がっている。もっとも鉄道の場合は気動車が流されたり、土床ごと失われたところもあるから、気仙沼の場合はまだ救われたところだろうか。少し山側には線路の上に自動車と漁船が打ち上げられており、その被害の大きさを物語る。
気仙沼の町中に入ってからは、クルマでの移動やら、私と同じような感じで歩いている人をのぞいて地元の人の気配というものを感じなかったが(時折ゴーストタウンと感じたことも)、私がしばらく線路際にたたずんでいると、家のサッシがピシャリと閉まる音がした。音のほうを見ると何だか家の中でゴソゴソしているようだ。おそらくその家の住人かとは思うが、たまたま片づけにでも来ていたのか(まさか、この状態で住み続けているとは考えにくい)、私のような者の姿を見て不快に思ったか。帰りの時間のこともあるので、そろそろこの辺りで引き返すことにする。
帰りは高台に上がってみた。それにしてもこのエリアは建物の被害というのはほとんどなく、同じ市内、同じ町内にあって明暗を分けたことだなあと感じる。
ちょうど高台には市民会館や中学校があり、避難所に充てられていた。またグラウンドには仮設住宅も建てられており、下のほうに住んでいた人たちもこちらに移っているようだ。避難所の様子というのがどのようなものか見てみたい気がしないでもなかったが、これは見ず知らずの他人の家に無断で押しかけるようなものだろう。誰かに話しかけたいと思っても、県外からの見学客がむやみに声をかけるのも失礼な話だと思う。
政治の混乱と無策について言いたいことは山ほどあるはず。ただそんな中でもまずは今日の暮らし、明日の朝をどう無事に迎えるか、目の前のことに必死で生活をしているのだというメッセージが伝わってくるようだ。市民会館の入口に掲げられた励ましの寄せ書きに敬意を表すくらいで後にして、再び駅まで戻る。
気仙沼の駅前の酒屋で地酒「両国」を買い求め、土産物屋で缶詰やら真空パックの水産加工品を買い求め、再び大船渡線の客となる。駅までの道すがら、同じように被災地見学に出かける人、そして行きと同じ列車で戻る人とすれちがう。
大船渡線は定時で走る。席に座って缶ビールを開けるが、いつもの鉄道旅行、ローカル線の車内で飲むようには美味く感じられない。やはり苦味というのか、先ほどまで私にとって衝撃的な光景にいくつも出会ったわけだが、被災地を見学したことは一つの経験、見分にはなったものの、相手は見世物ではないわけだから高揚感とか達成感というのが得られたわけではない。やはり単に野次馬的にやってきただけではないのかと、ローカル線の車内で自問自答するうちにやがてウトウトとしてしまった。
一ノ関からはやまびこ、そして東京からのぞみを乗り継いで帰阪。大阪に戻り地下鉄と電車を乗り継いだが、当たり前のように照明がともり、冷房もガンガン効いている車内に、わずか半日前は一面の廃墟にいたことが信じられないような気がした。当たり前と思っていたことが、実はさまざまなものの力で成り立っているということ。
今回の見学を機会に改めて、被災地のために自分には何ができるか、何をすべきなのか、もう一度問い直してみることにしよう・・・。