吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2008年2月26日/〈日記〉212・「五十集船」の大きさは?

2008-02-26 10:33:03 | 日記
写真①:「旧渡橋といさば船」のモノクロ写真
     =〈津屋崎千軒そうつこう〉表紙に掲載

ご存じの皆様
教えて下さい
「五十集船」の大きさ

 19日掲載のブログ「〈日記209〉まちおこし」で紹介した福津市の「(仮称)まちおこしセンター建設基本計画市民検討会議」の第3回ワークショップが、3月5日に開かれるのを前に「五十集船(いさばせん)」の大きさを突き止めたいと情報を集めています。

 江戸時代、九州一の生産高を誇った津屋崎・勝浦塩田の塩や農水産物を津屋崎港から博多や若松、瀬戸内海、山陰、北陸などへ積み出し、帰り荷に荒物、金物、陶器などを持ち帰って〈津屋崎千軒〉と呼ばれるほど町並みが栄える原動力になった船だけに、観光客や市民が訪れる同センターにぜひとも復元展示したいからです。

 「五十集船」について、福津市の町興しボランティア団体「津屋崎千軒 海とまちなみの会」(略称・「海とまちなみの会」)が発行した津屋崎千軒まちなみ散策地図〈津屋崎千軒そうつこう〉(A2判、表裏カラー)では、表紙に「旧渡橋といさば船」のモノクロ写真=写真①=付きで、次のように説明しています。

 〈津屋崎を基地に西日本の浦々を回って交易していた商船が「五十集船」です。「五十集」とは「何でも積む」という意味で、船は50トン前後の小型廻船でした。明治23年に赤間―博多間で、同24年に門司―熊本間で九州鉄道が開業しても、五十集船はしばらく揺るぐことなく活躍していました。しかし、同40年代に入ると運送手段は海運から九州鉄道へとかわり、塩田の廃止もあって、港もさびれていきました。日中戦争の始まった昭和12年頃、5叟程度になっていた、五十集船は軍需景気で一時息を吹き返しましたが、現在では1叟も使われなくなりました〉

 ところが、船の長さ、幅、船底までの深さなど大きさが分かりません。旧津屋崎町が発行した『津屋崎町史』や『津屋崎の民俗』でも、写真はあっても大きさの記述はありません。

 「海とまちなみの会」では07年3月、五十集船「明社丸(みょうしゃまる)」に乗船されていた大浜秀吉さん(大正14年生、福津市津屋崎新東区)に取材し、会報季刊紙『津屋崎千軒新聞』創刊号・「春」号に「五十集船の思い出」を掲載。また、同年7月発行の同新聞「夏」号には五十集船「三社丸(さんじゃまる)」に乗っておられた大浜茂さん(大正14年生、福津市津屋崎浜の町)も招いた座談会の記事を「三社丸」のモノクロ写真=写真②=付きで載せましたが、船の寸法は分かりませんでした。設計図も残っていないそうです。


写真②:五十集船「三社丸」のモノクロ写真(左側中央の2隻の左)
     =『津屋崎千軒新聞』「夏」号に掲載

 福津市立津屋崎小学校の南校舎内にある中世の唐人町遺跡・「在自唐坊跡展示館」には、五十集船の模型のカラー写真が展示されています=写真③=。模型の縮尺が分かれば、実物の大きさが推計できるはず――と市教委教育総務課に尋ねると、福岡市立博物館に所蔵されている模型の五十集船で、同市内の大歳神社に奉納されたのを寄贈されたという。


写真③:「在自唐坊跡展示館」に展示された五十集船の模型のカラー写真
     =福津市立津屋崎小学校南校舎内で、08年2月21日撮影

 この五十集船の模型の縮尺が分かれば、原寸が推計できるのでおおよその大きさがつかめます。模型に縮尺や寄贈当時の船の図面などがないか、福津市教委教育総務課に調査結果が分かれば教えていただくようお願いしています。

 ただ、この五十集船は、津屋崎で活躍していた「明社丸」や「三社丸」のような帆船とは違うタイプのようです。どなたか、「明社丸」や「三社丸」など津屋崎港に出入りしていた五十集船の長さ、幅、船底までの深さといった大きさを記録した図面や資料をご存じなら、お教え下さい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2008年2月23日/〈日... | トップ | 2008年2月27日/〈日... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日記」カテゴリの最新記事