●写真上:金刀比羅神社「御仮屋」の正面=福津市津屋崎天神町で、06年9月10日午前7時20分撮影
●写真下:「御仮屋」裏境内にある2基の庚申塔。右の塔には「庚申塔 天明五年」、左の塔には「庚申尊天 天明六年 天神町」の文字が彫られている=、06年9月9日午後2時50分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第2回:2006.09.10
庚申塔
清 「叔父さん、おはよう。きのうの津屋崎放生会(ほうじょうや)は、雨に降られて大変やったね」
琢二 「そうだな。毎年9月9日の重陽の節句にある津屋崎放生会は、いい天気が多いとやがね。正確には、福津市在自の金刀比羅神社の秋季大祭というのやが、福岡県内では秋祭りのことを放生会と言い、津屋崎放生会は筑紫路で最初に行われるので有名やな」
清 「毎年、テレビのニュ-スや新聞の記事に出るけんね」
琢二 「福岡県民に秋の訪れを告げる風物詩、と言える祭りだからや。黒田藩主の大名行列を真似た氏子さんたちの〈お下り〉行列が、在自の金刀比羅さんから2㌔南の御仮屋=写真上=まで練り歩くのが見ものだが、途中の田んぼ道で黄金色に稔った稲穂が揺れる〝絵〟が撮れ、秋を感じさせる話題でいけるからな」
清 「例年だと、大名行列が津屋崎天神町の御仮屋に着くのは夕方やけど、今年は神社出発を午後2時に繰り上げ、行列は同3時には〈お上り〉になったから、夜店も並ばんやった。子供たちは、綿菓子買いや金魚すくいも楽しめんで、かわいそうやったばい」
琢二 「また一つ、昔の祭りの風情が消えたな。祭りの終わる時間が午後11時になるのを早めたいという〝合理化〟なんだが、神社に戻ったあとの祭り時間を短縮するとか、〈お下り〉時刻をもう少し例年並みに遅くできないかなど、氏子さんに検討してもらいたいな」
清 「それでも、御仮屋が久しぶりに賑わったね」
琢二 「そういえば、御仮屋境内にある〈庚申塔〉は、近頃は顧みられんようになったな」
清 「何ね、コウシントウって」
琢二 「昔、60日ごとに来る十干十二支の庚申(かのえさる)の日に集まり、庚申様の掛図や石塔の庚申塔をまつりながら徹夜で話し合う〈庚申待ち〉とか〈庚申講〉と呼ばれる風習が、全国各地にあってな。庚申様は、祟り易い神様として恐れられ、庚申の夜に妊娠した子供は盗人になると言われ、身を慎むよう戒められたそうだ。大盗賊の石川五右衛門を詠んだ川柳に〈五右衛門の親庚申の夜を忘れ〉という句があるほどだ。庚申塔は、室町時代から盛んに建てられ、申待の文字が刻まれたりしている。
元津屋崎郷土史研究会長の田中香苗氏の著書『津屋崎風土記』(昭和60年刊)によると、津屋崎には庚申塔が38基残存していると記され、建立年代別調査表に「御仮屋内」として3基が載せてある。このうち御仮屋裏手境内に2基=写真下=があり、東側の石碑には「庚申塔 天明五年」、西側の塔には「庚申尊天 天明六年 天神町」の文字が彫られとる。天明五年は、各地に洪水が起き〈天明の大飢饉〉が全国に及んだ江戸時代後期で、西暦だと1785年だ。
ところが、同調査表の整理番号1に元禄14年の卯月吉祥日に建てられ、「庚申尊天安鎮」の碑文字があると記載されている庚申塔は、きょう10日朝調べたが、見つからなかった。卯月は陰暦で4月のことで、元禄14年と言えば赤穂浪士討ち入り1年前の江戸時代中期で、西暦なら1701年だから御仮屋内に建った庚申塔では一番古いのに残念だな」
清 「ヘー、知らんやった。うちん方(うちの家=我が家)の隣の御仮屋にある塔が、そんな古いもんやとは。子供のころ、よう塔によじ登って遊びよったっちゃが」
琢二 「困ったやつだな。もう一つ、庚申信仰には面白い話がある。庚申の夜、お籠りする風習は、道教の三尸(さんし)説から起きたんだよ。尸は、しかばねのことだ。体内に潜む三尸という虫が、庚申の夜に天に上って天帝にその人の罪を告げ口するから、早死にさせられるが、その夜に眠らず身を慎しむと、三尸は天に上れず、長生きできる――というのだ。奈良時代に中国からの帰化人や僧侶が、日本に伝えたのが、庶民にも広がったようだな」
清 「でも、今じゃ忘れられた風習だね」
琢二 「ところが、この三尸のグッズが2005年に開館したばかりの九州国立博物館で、大人気なんだぞ」
清 「エー、それ、どういうこと」
琢二 「三尸の虫のデザインを入れた携帯電話のストラップや、Tシャツなんかが入館者の記念品やお土産によく売れているんだよ。もっとも、私は9月1日にうちの上さんと九国に行ったが、三尸の虫が回虫みたいに見えたんで、買わなかったけどな」
清 「叔父さん、古いなー。長生きできるお呪(まじな)いグッズで、今の若者向きかもよ。よし、今度、彼女と買いに行ってみよう」