吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2006年9月13日〈津屋崎の四季〉009:〝日本最初の裁縫の神様〟・秋祭り

2006-09-13 20:48:33 | 風物

●写真上:ご神幸行列の神輿を担いで急な石段を下る氏子たち=福津市奴山の縫殿神社参道で、06年9月13日午後3時46分撮影

 〝日本最初の裁縫の神様〟とされる「縫殿(ぬいどの)神社」=福津市津屋崎奴山(ぬやま)=で13日、秋季大祭が行われ、氏子たちがご神幸の神輿を担いで参道の急な石段を下りました=写真上=。

 神社境内に設けた福津市の案内表示によると、応神(おうじん)天皇のころに、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、乙媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の4人の媛が、縫物、織物の進んだ技術を日本に伝えるため招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。祭神は、この4人の媛と応神天皇、神功(じんぐう)皇后、大歳(おおとし)神。「この神社は日本最初の裁縫の神様であり、この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます」としています。

 午後3時からあった秋季大祭には、氏子ら約50人が集まり、五穀豊穣、家内安全を祈願して、ご神幸行列が神社を出発。近くを流れる奴山川に入り、わらじ履きで神輿を担いだ氏子たちが禊をしました=写真下=。このあと、神輿が地区内を練り歩き、沿道の住民たちが手を合わせていました。伝説によると、工女兄媛ら祭神が女性神であることから、以前は神輿の担ぎ手には未婚の男子が選ばれていたとか。この日は、当然ながらというべきか、年配の男性たちが担いでおり、急な石段を下るのがしんどそうに見えました。


●写真下:禊をする氏子たちに担がれ、奴山川に入る神輿=同日午後3時59分撮影
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2006年9月13日〈津屋崎学〉003:地名「天神町」の由来

2006-09-13 14:04:04 | 郷土史


●写真上:波折神社の境内社として祀られている天満宮(〈海士守天満宮〉)=福津市津屋崎古小路の波折神社で、06年9月9日午後2時40分撮影

●写真下:福津市梅津の海岸近くにある梅津天満宮。由緒の表示板が一部破損している=06年9月10日午前10時40分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第3回:2006.09.13
  地名「天神町」の由来

清 「前から叔父さんに聞こうと思うとったっちゃが、僕の家のある津屋崎の〈天神町(てんじんまち)〉の由来は分かっとうと?」
琢二 「旧津屋崎町が同町史編集委員会の編集で平成10年(1998年)に発行した同町史民俗調査報告書『津屋崎の民俗 第四集』という本があるんだよ。この本の〈一 村落生活 (二)ムラの歴史伝承〉と題した301㌻に、〈天神町の起源〉として、菅原道真との関係について触れている」
清 「ヘー、あの太宰府天満宮に祀ってある菅公に由来があるとね」
琢二 「〈天神町の起源〉のくだりでは、〈言い伝えによると、菅原道真が左遷の折に、この沖でシケにあって一行が困り果てていたのを、津屋崎の漁師が助けて上陸、風の静まるのを待って博多の方に出港された。その時、お礼にとミノと笠を与えられたので、その徳を授かるため祀ったことから天神町となったといわれている。現在は波折神社に合祀され、その跡に昭和十年、町役場が建てられた〉とあるよ。天神とは、道真公の霊を祀った天満宮のことを言うから、天神町となったのだな」
清 「旧津屋崎町役場のところに天神様があったのか。壊された役場跡は、いま駐車場になっとうよね。天神様は、古小路(こしょうじ)の波折(なみおり)神社に今もあると?」
琢二 「津屋崎の氏神様、つまり土地の鎮守の神様である〈波折神社〉の拝殿裏境内に〈天満宮〉=写真上=が、ちゃんと祀られとる。いっぺん拝んでこい」
清 「分かりました。」

琢二 「もっとも、『津屋崎の民俗 第四集』351㌻にある〈六 信仰 (一)ムラで祀る神〉のくだりには、波折神社の合祀社に〈海士守天満宮〉と記載、〈現在、JA宗像津屋崎支所のある場所に、小高い丘(コロコロ山)があり、天神様が祭ってあったが、大正初期に波折神社に合祀された。天満宮の鳥居は、新泉岳寺の鳥居に使用されている〉とし、天満宮のあった場所に少しずれがある。また、同書377㌻の〈忌地・聖地・天神様〉では、〈海士守天神〉については、〈区画整理により現在、波折宮の境内社として祀られている。現在の農協の場所にあった〉と移転の理由を書いている。まあ、コロコロ山というのは町役場があったあたりから、今は閉鎖されている旧JA宗像津屋崎支所付近まで砂山が続いた小高い丘だったんだろうから、大きな違いとまでは言えないが……。海士守と書いて、あまもりと読む。海士は漁師のことで、海人とも書くな」
清 「〈コロコロ山〉というのは、面白い山の名やね」
琢二 「〈コロコロ山〉は、吉村青春第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』の詩篇〈ころころやま〉にも詠ってあるな。天神町育ちの青春さんによると、青春さんの父で明治29年(1896年)生まれの友次郎さんが、昔は清の家の裏にコロコロ山という砂山があったと話していたそうだ」
清 「そうなんだ。で、天神様は〈海士守天満宮〉と呼ばれとったとやね」
琢二 「〈海士守天満宮〉の記載の続きに〈由緒〉が書いてあってな。それにとると、〈管公が大宰府に赴かれるとき、舟がこの海上を過ぎるころ、雨が頻りに降って船のかがり火が消えた。その折辺りに火を焚いて釣をしている海人があったので、公は舟を寄せて火を乞われた。海人はすぐ火を献じたので、管公はその懇情を賞して、傍らの蓑と笠とを海人に賜った。後世これを神体として社を建てたのが同地の天満神社で、海士守(あまもり)天満宮という〉とある」
清 「なるほど、それで〈海士守天満宮〉なんだ」

琢二 「面白いことに、もう一つ、津屋崎の梅津の海岸近くに天満宮があるんだよ。西鉄〈塩浜〉バス停から海側へ徒歩5分くらいの梅津公民館東側にある〈梅津天満宮〉=写真下=だ」
清 「えっ、それ、どういうこと」
琢二 「こちらは〈蓑笠天満宮〉という別称もあり、津屋崎観光協会発行の〈つやざき観光マップ〉にも載っている」
清 「ああ、蓑と笠がご神体だからか」
琢二 「9月10日に〈梅津天満宮〉を訪れたが、由緒を書いた表示板も字が消えた部分もあって、荒れた感じで残念やったな。『津屋崎の民俗 第三集』224㌻に記載された梅津の〈(一)ムラで祀る神〉の〈天満神社〉については、〈祭神 菅原神〉とし、〈由緒 古老曰(いわく)、菅原道真左遷ノ時、此地へ舟ヲ寄せ休マレシ其跡、社ヲ建祭ルト云。勧請年月不詳。昭和五十八年に天満宮から天満社になったという〉とある。〈海士守天満宮〉に比べると、あっさりとした記述だ」
清 「天神様は学問の神だから、お参りした人に由緒が分かるように、大切にしたいね」
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