吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2006年09月15日/〈日記〉016・〝伝統・新風〟の上野焼「八幡窯」から嬉しいプレゼント

2006-09-15 16:43:52 | 日記


●写真上:上野焼「八幡窯」の冷酒盃と吟醸酒「久保田」=福津市津屋崎の自宅で、06年9月15日午前10時40分撮影

●写真下:05年6月に福岡市の岩田屋であった「世良彰彦作陶展」の作品。「揺彩」の壺(左奥)と「彩華」の食器。

 15日朝、福津市の自宅に宅配便で思いがけないプレゼントが届きました。福岡県田川郡福智町上野の上野焼(あがのやき)「八幡窯(はちまんがま)」三代目窯元、世良彰彦(せら・あきひこ)さんからで、箱入りの冷酒盃2つと新潟県長岡市の吟醸酒「久保田 千寿」でした=写真上=。同封の手紙によると、8月に勤めをリタイアした私の挨拶への返事で、「ご笑味下さればと思います」としたためてあり、うれしく頂戴しました。

 世良さんは1960年、旧赤池町(現福智町)生まれ、日展会友、現代工芸美術家協会本会員。2001年10月、陶芸教室の作品展を福岡市で開かれる際、読売新聞西部本社福岡総本部(福岡市)を訪問され、編集局次長だった私が応対したのが初対面でした。世良さんは日展入選10回を重ね、上野焼では初の日展会友になったのを機に、02年(平成14年)には、地元の田川市美術館で「世良彰彦作陶展」を開き、花瓶、絵皿など型にとらわれない自由な作風が好評でした。私もその斬新で柔らかな作品に惹かれ、交流が続いています。

 04年5月には福岡市の岩田屋で花器、食器など新作約百点の初個展、05年6月にも岩田屋で2度目の個展=写真下=を開き、伝統的な釉薬(うわぐすり)を使い、化粧上の濃淡などで焼き上がりの色に変化をもたせた「揺彩(ようさい)」と名付けた壺や、砂漠の砂が風で流れるような模様の作風「風紋」シリーズで使った3色に「揺彩」の釉薬をかけて両者の技法を融合した「彩華」の日用食器が注目されました。

 遠州七窯の一つとして知られる上野焼は、慶長7年(1602年)、豊前小倉藩主細川忠興公が、朝鮮の陶工尊楷(そんかい)を上野に招いて上野に築窯。以来400年間、緑青流の綺麗な陶器が多くの茶人に愛好されてきました。世良さんは、上野焼伝統の素朴で優雅な妙味に近代的感覚、新風を吹き込んでいます。今年は酷暑のなか、「年に二度の作品制作にかかって」いたそうで、上野焼の伝統と新境地を融合させたどんな新作が生まれたのか楽しみです。

◇上野焼「八幡窯」:福岡県田川郡福智町上野1948
                     ℡0947-28-2275
                     http://www.aganoyaki.com/
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2006年9月15日〈津屋崎の四季〉010:〝変わった秋の雲〟2つ見つけました

2006-09-15 08:39:52 | 風物


●写真上:=福津市在自山の上空にかかった〈うろこ状の雲〉=同市在自の「対馬見通り」で、06年9月15日午前6時24分撮影

●写真下:同市在自西方の田んぼ上空に縦に伸びる雲=同「対馬見通り」で、同日午前6時25分撮影

 早起きをすると、何か良いことがあるんですね。福津市在自の「対馬見通り」を散歩していると、〝変わった秋の雲〟を2つ見つけました。

最初に気づいたのが、東の在自山(標高249㍍)上空にかかった〈うろこ状の雲〉=写真上=。大きなうろこの魚が浮かんでいるようで、不思議な気がしました。

 次に西の田んぼ上空に目を移すと、今度は縦長く伸びた変わった雲があるではないですか。これまた、一緒に歩いていた細君と感心しました。

 10分ほど歩くうちに、一風変わった2つの雲は形を崩し、かき消えましたが、束の間の雲の演出に深まる秋を感じ、清々しい気持ちになれました。
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2006年9月14日〈津屋崎の野鳥〉011:トビ

2006-09-14 08:57:33 | 福津市津屋崎の野鳥


●写真上:畑に降りたトビ(タカ科)
      =福津市在自で、06年9月14日午前6時35分撮影

●写真下:電線に止まって憩うトビ
      =福津市在自で、06年5月5日午後4時50分撮影

 ♪夕焼け空が/マッカッカ/とんびがくるりと/輪をかいた/ホーイノホイ――三橋美智也が唄う演歌「夕焼けとんび」(矢野亮作詞、吉田矢健治作曲)でおなじみのトビは、トンビの呼び名の方が一般的なようです。和名はトビですよと言ったら、鳶(とび)職のことを連想されるかもしれませんね。

 体長は雄58㌢、雌の方が大きく68㌢。褐色のタカで、ハシボソガラス(体長50㌢)よりは大きい。「ピーヒョロ、ヒョロヒョロ」という鳴き声も、おなじみ。

 福津市津屋崎では、津屋崎漁港や里山付近でもよく見かけます。9月14日早朝、同市在自の農道を散歩中、上空を舞っていたトビがひらりと前方の畑に舞い降りました=写真上=。近づいて見ると、捕らえた餌を夢中で食べています。カメラのシャッターを押すと、すぐ飛び去って住宅近くの電線に止まりました。この電線では、5月5日午後にも止まって憩うトビをカメラに収めています=写真下=。この辺りを縄張りにしている同じ個体のようです。
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2006年9月13日〈津屋崎の四季〉009:〝日本最初の裁縫の神様〟・秋祭り

2006-09-13 20:48:33 | 風物

●写真上:ご神幸行列の神輿を担いで急な石段を下る氏子たち=福津市奴山の縫殿神社参道で、06年9月13日午後3時46分撮影

 〝日本最初の裁縫の神様〟とされる「縫殿(ぬいどの)神社」=福津市津屋崎奴山(ぬやま)=で13日、秋季大祭が行われ、氏子たちがご神幸の神輿を担いで参道の急な石段を下りました=写真上=。

 神社境内に設けた福津市の案内表示によると、応神(おうじん)天皇のころに、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、乙媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の4人の媛が、縫物、織物の進んだ技術を日本に伝えるため招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。祭神は、この4人の媛と応神天皇、神功(じんぐう)皇后、大歳(おおとし)神。「この神社は日本最初の裁縫の神様であり、この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます」としています。

 午後3時からあった秋季大祭には、氏子ら約50人が集まり、五穀豊穣、家内安全を祈願して、ご神幸行列が神社を出発。近くを流れる奴山川に入り、わらじ履きで神輿を担いだ氏子たちが禊をしました=写真下=。このあと、神輿が地区内を練り歩き、沿道の住民たちが手を合わせていました。伝説によると、工女兄媛ら祭神が女性神であることから、以前は神輿の担ぎ手には未婚の男子が選ばれていたとか。この日は、当然ながらというべきか、年配の男性たちが担いでおり、急な石段を下るのがしんどそうに見えました。


●写真下:禊をする氏子たちに担がれ、奴山川に入る神輿=同日午後3時59分撮影
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2006年9月13日〈津屋崎学〉003:地名「天神町」の由来

2006-09-13 14:04:04 | 郷土史


●写真上:波折神社の境内社として祀られている天満宮(〈海士守天満宮〉)=福津市津屋崎古小路の波折神社で、06年9月9日午後2時40分撮影

●写真下:福津市梅津の海岸近くにある梅津天満宮。由緒の表示板が一部破損している=06年9月10日午前10時40分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第3回:2006.09.13
  地名「天神町」の由来

清 「前から叔父さんに聞こうと思うとったっちゃが、僕の家のある津屋崎の〈天神町(てんじんまち)〉の由来は分かっとうと?」
琢二 「旧津屋崎町が同町史編集委員会の編集で平成10年(1998年)に発行した同町史民俗調査報告書『津屋崎の民俗 第四集』という本があるんだよ。この本の〈一 村落生活 (二)ムラの歴史伝承〉と題した301㌻に、〈天神町の起源〉として、菅原道真との関係について触れている」
清 「ヘー、あの太宰府天満宮に祀ってある菅公に由来があるとね」
琢二 「〈天神町の起源〉のくだりでは、〈言い伝えによると、菅原道真が左遷の折に、この沖でシケにあって一行が困り果てていたのを、津屋崎の漁師が助けて上陸、風の静まるのを待って博多の方に出港された。その時、お礼にとミノと笠を与えられたので、その徳を授かるため祀ったことから天神町となったといわれている。現在は波折神社に合祀され、その跡に昭和十年、町役場が建てられた〉とあるよ。天神とは、道真公の霊を祀った天満宮のことを言うから、天神町となったのだな」
清 「旧津屋崎町役場のところに天神様があったのか。壊された役場跡は、いま駐車場になっとうよね。天神様は、古小路(こしょうじ)の波折(なみおり)神社に今もあると?」
琢二 「津屋崎の氏神様、つまり土地の鎮守の神様である〈波折神社〉の拝殿裏境内に〈天満宮〉=写真上=が、ちゃんと祀られとる。いっぺん拝んでこい」
清 「分かりました。」

琢二 「もっとも、『津屋崎の民俗 第四集』351㌻にある〈六 信仰 (一)ムラで祀る神〉のくだりには、波折神社の合祀社に〈海士守天満宮〉と記載、〈現在、JA宗像津屋崎支所のある場所に、小高い丘(コロコロ山)があり、天神様が祭ってあったが、大正初期に波折神社に合祀された。天満宮の鳥居は、新泉岳寺の鳥居に使用されている〉とし、天満宮のあった場所に少しずれがある。また、同書377㌻の〈忌地・聖地・天神様〉では、〈海士守天神〉については、〈区画整理により現在、波折宮の境内社として祀られている。現在の農協の場所にあった〉と移転の理由を書いている。まあ、コロコロ山というのは町役場があったあたりから、今は閉鎖されている旧JA宗像津屋崎支所付近まで砂山が続いた小高い丘だったんだろうから、大きな違いとまでは言えないが……。海士守と書いて、あまもりと読む。海士は漁師のことで、海人とも書くな」
清 「〈コロコロ山〉というのは、面白い山の名やね」
琢二 「〈コロコロ山〉は、吉村青春第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』の詩篇〈ころころやま〉にも詠ってあるな。天神町育ちの青春さんによると、青春さんの父で明治29年(1896年)生まれの友次郎さんが、昔は清の家の裏にコロコロ山という砂山があったと話していたそうだ」
清 「そうなんだ。で、天神様は〈海士守天満宮〉と呼ばれとったとやね」
琢二 「〈海士守天満宮〉の記載の続きに〈由緒〉が書いてあってな。それにとると、〈管公が大宰府に赴かれるとき、舟がこの海上を過ぎるころ、雨が頻りに降って船のかがり火が消えた。その折辺りに火を焚いて釣をしている海人があったので、公は舟を寄せて火を乞われた。海人はすぐ火を献じたので、管公はその懇情を賞して、傍らの蓑と笠とを海人に賜った。後世これを神体として社を建てたのが同地の天満神社で、海士守(あまもり)天満宮という〉とある」
清 「なるほど、それで〈海士守天満宮〉なんだ」

琢二 「面白いことに、もう一つ、津屋崎の梅津の海岸近くに天満宮があるんだよ。西鉄〈塩浜〉バス停から海側へ徒歩5分くらいの梅津公民館東側にある〈梅津天満宮〉=写真下=だ」
清 「えっ、それ、どういうこと」
琢二 「こちらは〈蓑笠天満宮〉という別称もあり、津屋崎観光協会発行の〈つやざき観光マップ〉にも載っている」
清 「ああ、蓑と笠がご神体だからか」
琢二 「9月10日に〈梅津天満宮〉を訪れたが、由緒を書いた表示板も字が消えた部分もあって、荒れた感じで残念やったな。『津屋崎の民俗 第三集』224㌻に記載された梅津の〈(一)ムラで祀る神〉の〈天満神社〉については、〈祭神 菅原神〉とし、〈由緒 古老曰(いわく)、菅原道真左遷ノ時、此地へ舟ヲ寄せ休マレシ其跡、社ヲ建祭ルト云。勧請年月不詳。昭和五十八年に天満宮から天満社になったという〉とある。〈海士守天満宮〉に比べると、あっさりとした記述だ」
清 「天神様は学問の神だから、お参りした人に由緒が分かるように、大切にしたいね」
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2006年09月12日/〈日記〉015・お名前「悠仁」と命名

2006-09-12 21:07:02 | 日記
●写真:新宮さまの「お印」に決まった高野槇=和歌山県・高野山で、1999年8月4日撮影

 秋篠宮ご夫妻に誕生した男のお子さまが12日、「悠仁(ひさひと)」、と命名されました。テレビ各社は、夕方以降のニュース番組で、愛育病院(東京)で行われた「命名の儀」の模様を中心に、皇室の動きや国民の喜ぶ様子を相次いで放送していました。「悠」の字の持つ意味や、音の響きもよく、おおらかな名だと思います。

 悠の字は、「ながい、ゆったりとした」の意味があり、秋篠宮ご夫妻が「ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んでいくことを願って」名付けられたとか。また、新宮さまの身の回りの持ち物につける「お印」は「高野槇(こうやまき)」に決まりました。幹が直立し、直径1メートル、高さ30メートルにも成長する日本固有の常緑高木で、「大きく、まっすぐに育って」として採用された由。お名前、お印ともご夫妻の思いがうかがえ、ほほえましい気がします。

 私事で恐縮ですが、54歳だった1999年(平成11年)8月4、5両日、夏休みに和歌山県の高野山に家族で旅行した折、まっすぐ空に向かって伸びた高野槇=写真=の見事さに感心した思い出があります。真言密教の聖地を訪ね、人生行路の来し方、行く末をゆっくり考えたいと、細君と娘の3人で宿坊寺院に1泊しました。一般の旅館と違って、精進料理の食事も、一味違っていいものでした。あの時、高野山に参って良かったなと思っています。高野山は平成16年、「紀伊山地の霊場と参詣道」として「世界遺産」にも登録されており、皆様にも、機会があればお勧めしたい旅行先です。
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2006年9月12日〈津屋崎の野鳥〉010:カワセミ

2006-09-12 08:51:41 | 福津市津屋崎の野鳥
●写真:杭の上に止まったカワセミ(カワセミ科)=福津市の「新堤池」で、06年9月10日午後5時25分撮影(左四角内は拡大写真)

 〝空翔る翡翠(ひすい)〟・カワセミを福津市津屋崎で初めて見たのは、1989年(平成元年)3月7日でした。探鳥ノートによると、小雪が舞っていた午後2時10分、津屋崎小学校南門前の小川の水面上をすれすれに飛んでいました。その後、読売新聞西部本社記者だった92年10月に鹿児島支局長に転勤、95年に山口総局長に転任と単身赴任が続き、97年に西部本社(当時は北九州市)編集局管理部長になって津屋崎の自宅に戻るまで、古里での探鳥は疎かになっていました。

 ところが、定年退職後、探鳥を本格化した矢先の2006年7月23日、福津市的岡の「新堤池」でカワセミを発見し、珍鳥との再会に胸が高鳴りました。9月10日、杭の上に止まった姿=写真=をデジカメに収めました。2羽の生息を確認しており、番ではないでしょうか。

 カワセミは体長17㌢で。スズメ(体長15㌢)より少し大きく、太った体の背面は宝石のように輝くコバルト色で〝翡翠〟の異名があります。腹部は橙色、頭や翼の付け根の「雨覆い」部分は緑がかっています。川や池の小魚を太い嘴で捕らえ、鳴き声は「ツイー」とか「ギギッ」と聞こえる金属音。私は記者時代に百万都市の福岡市・福岡城のお濠で78年12月に、また北九州市・小倉城のお濠で92年1月にもそれぞれ確認し、写真部のカメラマンに撮影を頼んで読売新聞に写真付きの記事を書きました。今も、その子孫たちが生息できているでしょうか。

 水辺で生きる野鳥なので、農薬や汚水のため全国的に激減しています。カワセミが生きている都市は、豊かな自然が残っている証拠――と言われる「環境指標鳥」でもあり、津屋崎での生息環境を守っていきたいものです。
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2006年9月12日〈津屋崎の四季〉008:秋の七草・ハギの花

2006-09-12 05:07:47 | 風物

●写真:路傍で咲き始めたハギの花=福津市的岡で、06年9月11日午後5時15分撮影

 秋の七草の一つ、ハギ(マメ科)は優美で、日本の秋を代表する植物です。福津市的岡の「対馬見通り」の路傍で11日、咲き始めた花=写真=を見つけました。

 草冠に秋と書く萩は、文字通り秋の七草の筆頭とされ、古くから日本人に愛された花です。絵画、俳句、工芸などの題材にも好まれてきました。〈一つ家に遊女も寝たり萩と月〉は、芭蕉の秀句で知られています。そういえば、2005年3月、周辺の町村と合併して新市制「萩市」(山口県)になる前の旧萩市の「市の花」はハギでしたね。

 ハギのほかの七草は、ススキ(薄=尾花)、クズ(葛)、ナデシコ(撫子)、オミナエシ(女郎花)、フジバカマ(藤袴)、キキョウ(桔梗)。朝の散歩で見かける津屋崎のススキの穂も、だいぶ伸びてきました。

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006年9月11日〈津屋崎の四季〉007:ハマゴウの花

2006-09-11 11:20:50 | 風物

●写真:砂浜に咲いたハマゴウの花=福津市津屋崎梅津で、06年9月10日午前10時50分撮影

 福岡県福津市梅津の砂浜で10日、海浜植物・ハマゴウ(クマツヅラ科)の花=写真=を見つけました。常緑小低木の群落ですが、青紫色の花は盛りを過ぎ、実をつけているのも目立ちます。

 「浜香」の異称があるのは、枝葉に芳香があって古くは香として用いられたからだとか。群落の西には玄界灘の波が寄せており、秋風に乗った潮の香の方を強く感じました。

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2006年9月11日〈津屋崎の野鳥〉009:バン

2006-09-11 09:18:36 | 福津市津屋崎の野鳥
写真①:アオサギ(写真上方)とツーショットで姿を見せたバン(写真手前)
     =福津市的岡の「新堤池」で、06年5月16日午後4時30分撮影


 曇り空の5月16日午後、福津市的岡の「新堤池」。黒っぽい体に、赤い額と嘴のバン(クイナ科)=写真①=が、水草の間をせわしなく動いています。その向こうには、青っぽい灰色のアオサギ(サギ科)の姿も見え、ツーショットの写真が撮れました。

 バンは体長32㌢で、ほぼハトと同じ大きさ。川や池に棲み、「クルルー」と大きな声で鳴きます。「新堤池」では、2羽が生息しています=写真②=。


写真②:「新堤池」で餌を採る2羽のバン
     =福津市的岡で、07年3月23日午前7時33分撮影


 8月10日の〈津屋崎の野鳥〉001で取り上げたアオサギは、体長93㌢で、津屋崎で見られるダイサギ(体長89㌢)、アマサギ(同50㌢)、コサギ(同61㌢)を加えた4種のサギ仲間では最大です。日本では冬に鹿児島、山口両県へ渡って来る灰黒色のナベヅル(体長96㌢)とよく見間違えられますが、首を縮めて飛び、しわがれた声で「グワァー」と鳴きます。ナベヅルは首を伸ばして飛び、「コオー」と大きな声で鳴くので区別できます。
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