リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

評論・科学・アジテーター

2012-03-17 21:24:50 | その他
 こんばんは。久しぶりの土曜日の更新。
 さいきん平日は頭を回す余裕がなく新聞も見なくなりまして、yahooの見出し程度の世間識になったきょうこのごろ
 って、アタマだいじょぶかね。
 さいわい肩こり頭痛は改善されていますが。
 
 などという年よりのグチを重ねて幾年月(4年以上)、このほど訪問者5万人を越えたとのよし。
 ありがとうございます。
 ほんの2,3人の時代から、トラックバックのたぐいはしないので、皆様は純粋に(?)自主的にこのブログを発見された方たちばかり。検索ロボットの諸君はおきますが。 御礼申し上げる次第です。
 
 さて、昨日は吉本隆明が死んだとのこと。
 死んだっていいのですが、大学教授の死を悼んで、吉本をほっておくというのも、仁義が立たない。
 
 吉本という人は、20世紀後半世界最大の評論家です。
 なんで、って、思想の地位を大衆に押し下げた嚆矢の人間だから。
 嚆矢って最初の人間てことですが、ま、ちょっと飾ると偉く見えますでしょ。
 私たちが思春期のみぎり、日本で思想的に偉いのは帝大教授と左翼党派員だけ。ま、帝大は消えてましたし、左翼といってもその頃あった社会党はいいかげんなので、偉いのは大学教授と共産党員のみという時代。
 その時代に敢然と立ち向かって、偉いのは生活大衆なんだ、と言い放った、そのうえそれを広めた、人間が吉本隆明です。
 それだけ。
 それだけのことをいうことがどれだけ大変のことかは、今だに西欧諸国では評論といえば権威主義者しかいないことから知れます。ネグリがどうのといったって、しょせんインテリのたわごとです。だから「世界最大」
 
 もっとも「20世紀後半」と限定したのは、、貴族評論からインテリ評論に移行する時代を画した評論家が西欧にいるかもしれないからで。わたしは思想史など点検するヒマはありませんので。
 
 といって吉本氏が死んでもいいのは、吉本氏、この20年、評論の枠を超えて社会科学に口を出すことがあるので、困ったもんだと思っていたところ。そりゃ違うといっても吉本氏の名声で世間が聞いちゃいますからね。
 なんていうと冷たいものですが、左翼というものは世界に責任を持たないといけないのですよ。吉本氏がどんなに優秀でも「左翼」と世間にみられてしまうからには私にも責任遂行の義務がある。って、テロリストじゃないですけどね。
 
 彼の名誉のためにいいますが、彼は左翼じゃないのですよ。
 ただの大衆を体現化しようとしたエリート。
 エリートで悪いといっているんじゃないですよ。さっきもいったように、エリートに大衆の位置の価値的重要さをしらしめた優秀なエリート。
 そのほか、科学的には「言語にとって美とはなにか」で表現の歴史性に新しい視角を加えた立派な文学者。
 そのうえ、私にとっては立派な抒情詩人。 
 去年の私の引越しでは結局、定本詩集(と現代詩全集の1巻)しか手元に残らなかった(残さなかった)。 
 彼を馬鹿にするのは自分の無知を暴露するようなもので。
 
 とはいえ、彼は評論家に過ぎない。
 評論家とは、論を評ずる、つまり相手の立ち位置を評することに生命のある仕事屋です。
 相手の言葉の価値判断をするだけだから科学的思考はいらない。
  
 一方、科学とは真実でなければならない。先生、時代の変遷で評論相手にこと欠きだして、「しょうがねえ自分で言おう」ということか、この間の吉本といったら、ウソだらけ。シャドウワーク問題くらいからかね、と思うと、もう30年だよ。ボケは怖いし。
 
 で、題中の「アジテーター」ってなに? と申しますと、吉本氏が大衆の価値付けをしたが、それが世間に広まるには、それを広める人がいる。これはほんとに不可欠。それが現実の昔は原稿料貰える人間だけで、50人はいたな。
 アジテーターというのは左翼やファシストであるかのように誤解されますが、ほんとは思想的には中立なんですね。
 ただ、権力に忠実。
 それもしかたないということで。
   (権力には権力と対抗権力の2種があることは隈の本に書いてあります)
 
 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 学問的前段階蜂起 | トップ | アナーキズム解説 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

その他」カテゴリの最新記事