リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

禍福はあざなえる縄のごとし

2012-11-04 21:08:14 | 不定期=中途半端
 こんばんは。秋の良い休日、私は遠くへは狙いを定めないと行かないので、今日は紅葉にはまだ間のある東京地方、まずは単純に余裕(ばかり)の一日で。もちろん、自分の仕事はちゃくちゃく、って、ぐうたらだからそのレベルで。
 
 さて、本日も役に立つブログ、自分の仕事中でもあり、またごまかしのような話題。
 
 世の中、悪いことや悲しいことが起きても、何が悪いかなどわからないもので。
 なんてことは、私のように長生きした者でないと言えないかと。

 つまり、人間は、一定時間では一つの行為しかできないものでして。
 
 まあ、注釈をつけると、人間の行為は、なんであろうと、1回一つだろうといわれるかもしれませんが、そうでもなく、たとえば、ある男をぶんなぐる一瞬は、いろんな意味があるもので。
 1 ストレス解消とか、 2 隣の女性に「男らしいのねえ」、と賞賛される予定とか、 3 暴行罪逮捕の初めの一瞬とか。
 その瞬間にはいろいろ意味がある可能性があるけれど、人間の関係は、10分間とかで区切ると、その行為の意味を一つにしてしまう。 1 ストレスか解消されたが、2 隣の女性に野蛮だと嫌われたうえ、3 相手のパンチが目に入り、目の周りがズキズキする、とか。

 まあ、これは注釈で、ともかくも、10分なり1日なりで区切ると、ある人間の行為は、自分にとっては一つに確定してしまいます。それが 「なんてひどい」とか、「なんで俺ばかり」みたいな気持ちに固まってしまう。

 というふうに、毎日は自分にとって一つのことの累積でできてはいますが、人間てものは、それを前提に、明日も生きていかなければならない。そういうのを生きて「行く」っていうんでしょうね。
 「野蛮」と嫌われようと、それを「背負って」生きるのが人間。ちょっと表現はおおげさですが。
 そして一生懸命生きている限り、「野蛮」は、他人とは替え難い価値を背負った人間が出来上がることに変り、「目の周りの痛さ」は、3年後の、恋人を守るためのケンカで相手の目にパンチを食らわせる経験知となる。人間の生きてきた過去は、必ずそんな(あるいはそれ以上の)価値がある、というのは中高年の経験知というものですが。
 しかして
 「禍福はあざなえる縄のごとし」。あるいは、「人間万事塞翁が馬」
 ポイントは、まず、人間の行為は、この過程を逃れることなんかできない。だって、行為は一つしかないんだもの。そして、ポイントの2、そういう現在を過ごした人間には、必ず、違う将来がやってくる。それが「未来」というものだから。

 これが、ストレスの少ない生き方に役に立つ知識。今はどーんなに悲あしくとも、このつらさがあったおかげで、次の時代は必ず自分にとって都合よく回る。心じゃなくて、体が痛いのや腹が減っているのは困りますけどね。
 
 なんていっても、「てやんでえ、順調に生きたお前にいわれたくねえ」という応答もありそうで。
 もちろん、私はそういう応答をする人のほうが好きですが。 
 とはいえ、ここは公の場(?)。マジに対応するのもへらへらしているのもどっちもどっち。

 それでは役に立つブログ、話題を変えて(それもなんですが)、得意の料理。
 大根の葉は煮ても焼いても苦いしょ? そう思わない人は置いといて。
 わたしゃ苦い。カブの葉はいくらでも料理できるけど、スーパーで買う大根の葉(スーパー的には「茎」ともいう)は、どのスーパーでも苦いぞ。
 そこで、オイスター炒め。
 大根の葉を一度煮て、それをサラダオイル、塩、胡椒。最後にオイスターソースを絡めてできあがり。
 苦くないから。
 これはセロリの葉料理のときネットで見つけたんだけど、後で見たら大根の葉でもネットに載ってた。でも、そういう利点を書いてくれないと私のようなオイスターソース嫌いには通じないよね(セロリの葉では書いてあった)。
 まあ、そのへんが、応用理論の存在価値かね。
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