リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

昔の歌を歌うことは

2013-11-30 21:25:46 | 不定期=中途半端
哀しいことか、淋しいことか、余計なお世話か


 こんばんは。休日ですのでちょっと将棋でも(ネットで)見ようか、という趣味がなくなってしまいました。ひいきの渡辺明選手が竜王位を取られてしまって。
 その前から、「あ、こりゃダメだ」と思っていて負けた(決定の)1局も見もしないものでダメージは少ないですが。しかし、もうつまらんから見ない。執筆仕事には好都合ですが。私なんか見てて、渡辺選手、この間心がけが落ちてましたな。人間世界、そんなもんです。
 それにしてもそれと思ってネットサーフィンすると、世の中、将棋指しの将棋の勝敗見るのにコンピューター将棋ソフトを使うんですよ、なんだねあれは。
 趣旨は、差す手が良いか悪いかわからないからコンピューターソフトに教えを乞おう、ということなのですが。
   そんなんで面白いのか?
   わからん。
 お前なんかにわかられたくない、で結構ですが、最近の中年って、将棋の何が面白いんですかね。人とやって勝ったり負けたり、じゃないんでしょうね。
 ゲームってなんなのか、この頃の中年に聞いてみたい気がします。
 ちなみにこの中高年は、他人と将棋して勝つのが好きです。コンピューターの指し手に教えてもらう気はこれッポッチもありません。(しかもさあ、コンピューター、偉そうな顔していいかげんなんだぜ。)
 
 というわけで元に戻り、昔の歌を歌う人たちを昨夜見てきて。
 さらにネットで「そんな人たち」というのを見ると、ははあ、、、てなもんで。
 私なんかはいつも年上世代を見てきたんで、ビートルズやフォークソング(アメリカフォークとアングラソング)が歌のふるさとですが、お風呂で数分、深く考えるに、私らが歌ったことと今になって私個人が歌うこととは意味が違うよねえ、って。そりゃそうだ、当たり前だ、って、当たり前なことをほんとにそうだと思う人って、いないに等しくないですか?
 シンプルに説明すると、その時分は私の仲間、級友に歌うわけですが、今は、私の仲間も級友もいない。いるのは遥か年下の異人類。それあてに歌う歌が、同じ歌って、
 通じるのか、、、哀しい
 自己満足なのか、、、淋しい
 そんなことやって面白いか、、、余計なお世話だ。
 
 ひとごとでもないしね。
 最近はしないけど、カラオケで若い人たちがいても平気で昔の歌を歌う私。
 ま、私の場合は、このブログと同じ。わかろうと思わないなら聞くな。そんなやつは友達でもない。と思うだけ。
   だいじょぶ、しつこくせっつかれなきゃ歌わないから。
 
 さあて、なんか役に立つことは、っと、秘密法案反対派さんご苦労さま、かな。衆院とおって(しまって)。
 だいじょぶ、世の中、歴史法則の中でそんな進展は見込まれてるから。「自由」党もその他アブク雑派も多数派人民も自分で自分の首を締めてるだけだし、同情することなんかない。
 そんなこといって俺が困るんだ? だいじょぶ。私はあと1年自由なら応用理論だせるし。
 「俺」の方々はそれを読んで、きつくなった条件の中で、稲妻のような理論を出せばいい。芥川(龍之介)が稲妻なんだっけね? うろ覚え。マルクス以後150年の私の作品の次に20年でさらに発展させられれば、「俺」の方のほうが偉くみえるのは人間のさが。わたしゃそれで結構ですぜ(自分のことは自分で知ってるからね)。
 あるいは肉体派なら、歴史から消去されるこの30年間の左翼の代わりに、歴史に登場できるよ.今のように自己中しちゃおれんけど。
 よかったよかった。
 
 要するに、人民にとっての歴史というのは、近々数年のことなどは指しはしない、ということです。  
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