リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

国家概念への筋道

2010-09-12 15:03:24 | 社会学の基礎概念
というわけで、国家とは何か。(シンプルに書くといろんな方がみえるので)(国家意識の話は除いてます)

 なんだ、またおんなじことを、という向きもあるでしょうが。

 いえ、1ヶ月くらい前、五百籏頭 真という防衛大学校長が、新聞の1面全部を使って国家がどうの、と話してまして。ただの社会契約説でしたが、こんなのに反論するには、いくらでも他の左翼がいるだろうと、と思ってたところです。なんだか、ネットで見たら、ウヨにも嫌われてるみたいで。ウヨに同調したくないしね。

 そしたら、日本現代史調査中に、安東仁兵衛という、昔自称左翼でその後人民のことなど忘れ去って民主党前身のプロパガンダをしていた老人が、「国家暴力機関説は諸悪の根源」とかぬかしていたのが目に入り(読者の皆さんには言葉が悪くて失礼。恥知らずは嫌いで)。

 もしかすると、国家が暴力機関だなんて知らない人がいるのではないかと、心配になり。

 さて、社会制度というものの説明は、当初、自分の行為の将来に沿ってなされます。
 なぜかというと、そんなものは「存在」しないから。
 すべて社会制度とは行為者が未来に受けるだろう他者の反応に応じて仮に構成されます。
 フィクションですね。
 ところが、このフィクションは社会では同じ傾向を持って継続して為されますので、こういうものは、行為にとっては「存在する」といったほうがよい。水が飲みたいときに家の前の川に行く人間にとっては、家の前に川が「存在する」といったほうがいい。ほんとは昨日の上流での土砂崩れで「存在しない」かもしれませんけどね。
 ま、というわけで、社会制度は、行為者の行為に伴って2次的に存在するわけです。

 で、防衛大学校校長にとっては、国家は、「国家とわれわれは契約しているので、普段恩恵をこうむる変わりに国家の危急存亡の折にはみんなで戦ってもらう」てな話ですな。

 冗談ばかり。わたしゃ契約なんぞしてませんぜ。
 だいたいなんの恩恵をこうむっているというんだ。迷惑ばかりじゃねえか。
 というと、日本の紙幣を使って買い物して生活しているだろう、とかって話になる。
 そりゃ契約じゃなくて国家の牢獄にいて他に食う道がないということですな。
 資本主義が嫌いなら出て行け、の論理。普段会社の給料で食ってるんだから、鉄砲玉になってライバル会社にトラックで突っ込め、て話です。

 要するに現状肯定の論理というのはみなそういうもので、こういうのに立ち向かうにはそんな現状を変革するという前提がなければならない。国家ではない環境、資本主義企業ではない環境を行為の先に据えるものだけが、バカ言ってんじゃないよ、とすぐさま反論できる。だから昔、ルカーチという人は、【変革を使命とする労働者階級だけが真理を把握できる】といったのです。
 こうゆうことが分かる人も、既にほとんどいないでしょうねえ。

   ところで、ここのポイントは、「私はそんな契約をしていない」というところで。
   嘘や比喩でこさえてよいなら、どんな馬鹿げたことだって通るものです。
   『「私は」していないかもしれないが、人々の「一般意思」がしたのだ』などという馬鹿げた話もありまして。なんだよ、一般意思って。見せてみろよ。
   目に見えないものは見せられない、とかいう話ではなく、それによって特異に継続的社会現象が説明できるわけではない概念使用は科学ではないということで。さて、何が一般意思かな。他の現象を例示してください。
   
 これに対して安東の話は、今は民主主義の世の中で、政権にはいろいろな人がつける。その人たち次第でみんなが幸せな国家が作れる、てな話で。
 それのどこが、国家が暴力機関だということの反論になるのだ。(だいたい議員次第で世の中が幸せになるってほんとに昔マルクス主義者かよ。こいつが代表を勤めた『現代の理論』なる雑誌の程度が知れるぜ。前から知ってたが。
 いくら正太郎君がいい人間でも操縦器を奪われたら鉄人28号は破滅の道具になるのだ。
 もちろんこの場合、国家は鉄人28号である。なぜ国家は議員がいなくとも大統領がいなくとも巨大にして強いか。それはもともと人民を操作する装置であり、今でもそうだからだ。
 ウヨが投票した新自由主義者どもが政権を取れば、この世などいっぺんに全体主義に逆戻りだ。
 国家の悪口をいって笑ってられるのはいまのうちだぜ。 あ、俺か。
 そのときは、防衛学校長は、国家と国民は同じ一体の生物だ、とかいいだすわけだ。
 
   ところで、ポイントは、「議員の主義などで国家は変わらない」ということだ。
   国家が議員を選ぶ。
   あるいは、同じことだが国民が議員を選ぶといってもいい。
   「なんだ、民主的だ」、って?
   そりゃそうだ。日本は議員制度だもの。
   議員の主義ではなく、国民の利害と価値、すなわち行為者の生理的利害と賞賛と優越的自由が、そのとき人民に理解されている事実体系において選ぶ。
   従って、資本主義国家とは資本主義体制による人民の抑圧制度である。
      あまりにもとうぜんな。
      ところで軍部というものは資本主義の恩恵を受けないから、危険なんだぜ。死亡年金は高いはずだし。マルクス主義的理解とは違って、軍部は上記の例外だからね。軍部の主義で戦争は起こしうる(自前じゃ継続できないけど)。気をつけたほうがいいよ。
   
      なお、ここに挙がっていない国家の見方は意味がない。何を指しているかというと極端に若い人の、教室で座って考えた「国家」。概念は、社会の生活行動に伴って意味があるの。まだ社会的行動に遠い人たちは、無理に考える必要はありません。
   
   
      同じ結論でも、このブログはためになるでしょ。
      人と同じことなんかいわないぜ。
   
   そういえば、戦前のファッショ確立期にはヤクザ以外のウヨは国家権力に排外されたんだって。
   冷たいよね。方向転換期にはさんざん鉄砲玉にされてね。今じゃみんなにコケにされ。
   ま、そういうもんだよ、世の中。権力を取った者勝ち。
     いや、個人の自由を主張したものが最後に勝つんだよね。


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