こんにちは。今週の土曜も、一部日本海側のほかはなかなか小春日和。東京地方の黄葉は来週でしょうが、桜紅葉は今日が限界かな。もう全部落ちてしまいそう。
さて、2週、オタクものが続きましたので、本日は感想集。
「シャンシャンが13日、親離れの準備を始めた。」「野生のパンダは群れを作らずに単独で生活する習性があり、1歳半から2歳で親離れをする。」だってさ。そうかあ~? 野生なんだから時々は淋しくなったら会ったりするんじゃないかあ? ひどいことをしやがる。世の中悲しいことばかりだね。悲しいと嬉しいは、対義語じゃないやね。物事の裏と表。最後の記念に二人でつくねんと上野の森を見ている写真をここに貼ろうと思ったら、著作権がどうのこうのというそうだ。なんだっていうんだ、貰った先の名前書きゃいいだろうが。そんなに金が欲しいか。金の亡者たちめ。
しかし、関係ないがどこの世界に他人の子をつかまえて呼び捨てにしていい、という文化があるんだ、って日本のことしか知らないが、「ちゃん」をつけろ。そんな文化は埼玉、千葉の封建地主・本家にしかないだろう、幸手、あったし。もうなくなってたらごめんよ。
「日ソ共同宣言を基礎に平和条約の締結交渉を加速させる方針で一致」(TBS)
北方領土はウヨクの親玉のアベの責任で始末しろよ。左翼が何やっても低脳のウヨクが文句つけるからな。
「アムネスティ・インターナショナルは12日、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相に授与していた人権賞を撤回すると発表した。イスラム教徒少数民族ロヒンギャに対する迫害やメディア弾圧を阻止しなかったことに「大いに失望した」と批判した。」(共同通信)
当然だ。遅すぎたさ。
悪口ばかり。
アベと河野がパプアニューギニアに行って、「理数科教育の質改善」のため「供与額12億円の無償資金協力」をしたそうな。12億ばっかでケチくさいけど、あげる金だから借金を押し付ける中国(こういうのを植民地化といいます)よりは良心的だな。
ところで故佐原真教授によると、パプアニューギニアの一部では50年前まで50万年前からの旧石器(だけ)を使って暮らしてきたそうな。さらっと書いたけど、すごいよね、50万年間変わらず暮らしてきたって。ホモサピエンスかどうか知らないけど。(温帯地域に発した)この数千年の暮らしの変化、って、あってよかったものなのか、ってふつう思うわね。
もっとも生産共同体の常で、女は50年前も当然虐げられていたそうだから、結論的によかったというのはたやすいけどね。
まあところで河野太郎だけど、こっから本題ふう。
世の中というのは、ボスには思想がある、が下士官にはない、ということです。
国家支配者とその下士官たる、日本でいえば国会議員もそうだ、とは思ってましたが、いやはや、大臣でもそうなようです。
資本家は、「自分と自分の会社の社員のため」という心地よいイデオロギーによって、破産の手前までは動くし、実際それが可能です。他方、資本家事務管理者階層は、資本家が経営する会社のために働くことが自分と自分の家族のためになるであるから働くわけです。資本家って誰だ、というと、統計じゃあ役員も資本家に含まれますが、大企業ではそうじゃないと思ったほうがいいでしょう。いくら自社株を持っていても、サラリーマン重役は社長を狙うサラリーマン。だから「資本家階級」なるものが一本だと思うのは限定的に正しくもあり正しくもなし、ということになります。
この酷似している2通りの社会位置の差は、資本家は、「そもそも自分がやりたいのだ」という主体的行為であり、資本家事務管理者階層は、「やれば賞賛され自分の生理的・優越的位置の確保に至れる」という、あまりにも異なった動機にあります。『思想の如何を問わない、ということが、悲しい下士官の定め』という形式社会学的定言が、資本主義社会での定言となるわけです。
それは資本家事務管理者階層だろうが、国会議員だろうが、事務次官の栄光が消えた将来の官僚職だろうが、前衛党員だろうが、同じです。下士官は下士官。形式社会学のいけにえです。その役割は、家族持ちであるにもかかわらず、競馬場で大枚はたいて負け馬券をびりびりに引き裂いてウサをはらす一般大衆と同じです。優越が毎日消えていく、悲しい定めの人々です。形式社会学はこうして、人間に不変的な倫理の番人を務めることができるのです。もっとも封建社会でもそうかといえばそうではない。それがたかだかの形式社会学、という意味です。
というわけで、本日は「真理によるイヤミ構成」、あるいはただのウサ晴らし、でした。気晴らしにネット見てると、登場人物を知ってるだけに、満腔の不愉快におそわれるんだよね。
といって終わると皆様の時間の無駄。たったそれだけの情報提供ではいかにも後味が悪い。
別に、支配者といっても常に自分の意見を通せるわけではないこともいっておきましょう。こっちのほうは大切です。
つまり、シンプルに自分の武力で支配を支えられる支配者と、そうではなくて、対抗しあう勢力の間で綱渡りで政権を維持しているボナパルティックな支配者とは違う。
彼らが選択する利害については、普通に歴史家が想像するとおりで、唯物(タダモノ)的に誰にでもわかる。しかし、思想の表現というのは2通りの支配者で異なって現象するのです。
充分な武力をつかんだ支配者にとって、自分の福祉がその社会での正当な福祉です。いかに自分勝手なことであろうが、彼が一番えらいのだから。が一方、綱渡りの支配者は、自分を支える階層のトータルな福祉が自分の福祉です。この後者の支配者は、後代の歴史家が見れば「開明的」な思想表現を展開します。
自分の支持者が分裂的であるならば、逆説的に支配者は自分の賞賛と優越をフルに押し出すことができる。自分の利害がプラマイで消える、そんな状況が歴史に出現します。プロシア、オーストリア、スウェーデン、その他一昔前の後進資本主義的エトセトラです。日本もこれにいれるべきなところ、幸か不幸か、自分の支持層があまり分裂的でないのが島国という自然的要因、というべきで、「開明的」の美辞は付与されないのは残念でしたね。
さて、2週、オタクものが続きましたので、本日は感想集。
「シャンシャンが13日、親離れの準備を始めた。」「野生のパンダは群れを作らずに単独で生活する習性があり、1歳半から2歳で親離れをする。」だってさ。そうかあ~? 野生なんだから時々は淋しくなったら会ったりするんじゃないかあ? ひどいことをしやがる。世の中悲しいことばかりだね。悲しいと嬉しいは、対義語じゃないやね。物事の裏と表。最後の記念に二人でつくねんと上野の森を見ている写真をここに貼ろうと思ったら、著作権がどうのこうのというそうだ。なんだっていうんだ、貰った先の名前書きゃいいだろうが。そんなに金が欲しいか。金の亡者たちめ。
しかし、関係ないがどこの世界に他人の子をつかまえて呼び捨てにしていい、という文化があるんだ、って日本のことしか知らないが、「ちゃん」をつけろ。そんな文化は埼玉、千葉の封建地主・本家にしかないだろう、幸手、あったし。もうなくなってたらごめんよ。
「日ソ共同宣言を基礎に平和条約の締結交渉を加速させる方針で一致」(TBS)
北方領土はウヨクの親玉のアベの責任で始末しろよ。左翼が何やっても低脳のウヨクが文句つけるからな。
「アムネスティ・インターナショナルは12日、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相に授与していた人権賞を撤回すると発表した。イスラム教徒少数民族ロヒンギャに対する迫害やメディア弾圧を阻止しなかったことに「大いに失望した」と批判した。」(共同通信)
当然だ。遅すぎたさ。
悪口ばかり。
アベと河野がパプアニューギニアに行って、「理数科教育の質改善」のため「供与額12億円の無償資金協力」をしたそうな。12億ばっかでケチくさいけど、あげる金だから借金を押し付ける中国(こういうのを植民地化といいます)よりは良心的だな。
ところで故佐原真教授によると、パプアニューギニアの一部では50年前まで50万年前からの旧石器(だけ)を使って暮らしてきたそうな。さらっと書いたけど、すごいよね、50万年間変わらず暮らしてきたって。ホモサピエンスかどうか知らないけど。(温帯地域に発した)この数千年の暮らしの変化、って、あってよかったものなのか、ってふつう思うわね。
もっとも生産共同体の常で、女は50年前も当然虐げられていたそうだから、結論的によかったというのはたやすいけどね。
まあところで河野太郎だけど、こっから本題ふう。
世の中というのは、ボスには思想がある、が下士官にはない、ということです。
国家支配者とその下士官たる、日本でいえば国会議員もそうだ、とは思ってましたが、いやはや、大臣でもそうなようです。
資本家は、「自分と自分の会社の社員のため」という心地よいイデオロギーによって、破産の手前までは動くし、実際それが可能です。他方、資本家事務管理者階層は、資本家が経営する会社のために働くことが自分と自分の家族のためになるであるから働くわけです。資本家って誰だ、というと、統計じゃあ役員も資本家に含まれますが、大企業ではそうじゃないと思ったほうがいいでしょう。いくら自社株を持っていても、サラリーマン重役は社長を狙うサラリーマン。だから「資本家階級」なるものが一本だと思うのは限定的に正しくもあり正しくもなし、ということになります。
この酷似している2通りの社会位置の差は、資本家は、「そもそも自分がやりたいのだ」という主体的行為であり、資本家事務管理者階層は、「やれば賞賛され自分の生理的・優越的位置の確保に至れる」という、あまりにも異なった動機にあります。『思想の如何を問わない、ということが、悲しい下士官の定め』という形式社会学的定言が、資本主義社会での定言となるわけです。
それは資本家事務管理者階層だろうが、国会議員だろうが、事務次官の栄光が消えた将来の官僚職だろうが、前衛党員だろうが、同じです。下士官は下士官。形式社会学のいけにえです。その役割は、家族持ちであるにもかかわらず、競馬場で大枚はたいて負け馬券をびりびりに引き裂いてウサをはらす一般大衆と同じです。優越が毎日消えていく、悲しい定めの人々です。形式社会学はこうして、人間に不変的な倫理の番人を務めることができるのです。もっとも封建社会でもそうかといえばそうではない。それがたかだかの形式社会学、という意味です。
というわけで、本日は「真理によるイヤミ構成」、あるいはただのウサ晴らし、でした。気晴らしにネット見てると、登場人物を知ってるだけに、満腔の不愉快におそわれるんだよね。
といって終わると皆様の時間の無駄。たったそれだけの情報提供ではいかにも後味が悪い。
別に、支配者といっても常に自分の意見を通せるわけではないこともいっておきましょう。こっちのほうは大切です。
つまり、シンプルに自分の武力で支配を支えられる支配者と、そうではなくて、対抗しあう勢力の間で綱渡りで政権を維持しているボナパルティックな支配者とは違う。
彼らが選択する利害については、普通に歴史家が想像するとおりで、唯物(タダモノ)的に誰にでもわかる。しかし、思想の表現というのは2通りの支配者で異なって現象するのです。
充分な武力をつかんだ支配者にとって、自分の福祉がその社会での正当な福祉です。いかに自分勝手なことであろうが、彼が一番えらいのだから。が一方、綱渡りの支配者は、自分を支える階層のトータルな福祉が自分の福祉です。この後者の支配者は、後代の歴史家が見れば「開明的」な思想表現を展開します。
自分の支持者が分裂的であるならば、逆説的に支配者は自分の賞賛と優越をフルに押し出すことができる。自分の利害がプラマイで消える、そんな状況が歴史に出現します。プロシア、オーストリア、スウェーデン、その他一昔前の後進資本主義的エトセトラです。日本もこれにいれるべきなところ、幸か不幸か、自分の支持層があまり分裂的でないのが島国という自然的要因、というべきで、「開明的」の美辞は付与されないのは残念でしたね。
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