リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

売買他(その2)。あるいは労働の「価格」

2018-11-10 15:53:15 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方やっと晴れ。明日は北海道以外全国晴れとのこと。秋は晴れがよいです。これから平地は紅葉の季節。銀杏は塩風にやられたようですが、もみじやツタは山の中なのでどうでしょうか。
 というわけで、本日は東京地方限定の紅葉散策お役立ち。まずは土日仕事でへそを曲げたあなた。紅葉といえば高尾山、23日近辺の休業日はお薦め。土日なんかイモ洗いですぜ。平日でも年寄りがいるでしょうが。午前中に行って、帰りがけちょっとランチを奮発してはいかが? お薦めはガイドに載らない「橋本屋」。蕎麦じゃなくて「姫会席」3,500円、、、ん、値段上がってないか? まあとろろ蕎麦でも900円しますし(高橋家)。交通費新宿から381円ですし。なにがいいって、空いてるの。国道渡るから、普通は目に入らない。味もまともだし、ゆったりと優雅なひと時を楽しめます。有名蕎麦店でさんざん並んで、山小屋の料理のように蕎麦を掻きこむより良いと思います。料理が高いとお考えの方は、同じ意味で有名蕎麦店よりガイドにない川端にある小さな蕎麦やのほうをお勧め。明るい自然の中でゆったり食べられますから。
 そんな軟弱な紅葉狩りはいやだ、という方は、箱根の湯坂道がお奨め。40歳から70歳向き。お住まいの地元のコンビニでおにぎりを買って箱根湯本下車、トイレに行って国道を徒歩10分ほどで登山口。(食料の現地調達はあてにしてはだめ。たとえば高尾山でおにぎりを買おうなどと思っては食いっぱぐれます)。始めこそ「なんだ、坂きついじゃねえか」と思われるでしょうが、最初だけ。ちんたらと登っていくうちに、開けた登山道にときどきウルシの木の類いが。「これが紅葉だと?」いえいえ違います。そろそろ浅間山頂かと思いだす頃に、地元の努力でしょう、あたり一面の紅葉。この多さはちょっと関東じゃあ見ませんぜ。浅間山頂からは青空にススキが映えます。ここでお弁当。その後鷹巣山を通れば(登るというほどじゃあない)国道にぶつかり、バスでどこにでもいけます。その手前で畑宿へ降りる道が分岐しますが、これは杉の林の暗い道でパス。湯坂道は登ると終わる道だから、逆から歩けば下りばかりで疲れないのですが、それじゃあ紅葉の林へのご対面に感動が薄れますので、紅葉見物の場合は湯本から登りましょう。また、ぜひ11月下旬に。ネットにある12月の写真は淋しいものばかり。
 
 さて、ニュース。米中間選挙は、負けですね。トランプが喜んでるから負け。わたしゃ民主党支持じゃないから、それ以上の意味はないし。無理に探せば最高裁判事の右翼化。まあ負けたんだからしょうがない。
 次、「2020年東京五輪・パラリンピックに合わせ、東京都は、都立日比谷公園(千代田区)を「五輪記念公園」と位置づけて再整備する方針を決めた。」「大会後も一帯を「20年大会の聖地」とする構想だ。」(読売新聞) ほんとに底の浅すぎる奴ら。みんな日本人だねえ。古いもんが嫌いなんだよね、なんでも。古いものは考えなしには評価できないからね。それよりは権力者におべんちゃらを言えるほうがいい。「知事知事、もう日比谷公園も名前変えちゃいましょうや。知事がやったオリンピックですからね、もう日本初の近代公園なんて古い古い」「そうよねえ」(わたしは関係者ではありません)。

 というわけで、まだ長いので、前回の続き。これはこんがらがるので、玄人オンリー。
 前回は、「交換」は、あるものの占有権を合意の上取り替えるという、人間的な関係行為であり、「売買」は、カネを渡したことにより所有権が移転される、人間が関わらない一方的な行為であることを言いました。ついで、「贈与」とは、日常語で使う「贈与」以外の意味はありえないのであり、これ以外の「贈与」類似の行為は、全て占有物の強制的移転であることを述べました。これら全ては全然別の社会的行為だ、と認識しなければ、社会に対する生活者の認識にはなりえない、ということです。
 
 その説明の際には、「交換の手段としての」カネも顔を出しました。それ以上出てると複雑になるので途中で切りましたが。
 というわけで、順序としては、前に戻って、いかにして「交換手段としての」カネが、「権力に基づく交換のための請求書」である貨幣となるか、ということです。意味不明? 貨幣はただの紙切れ(の場合もある)なのに、なぜ店先に置くだけで売買として認められるか、ということです。変でしょ? 誰も交換するものを持っていないのに、「これで交換しろよ」と押し付けて商品を持って帰れる。「でも万引きじゃないぜ」。「なんでだよう、代わりのものを持って来いよ」と店員にいわれても大丈夫。アベ首相が認めてくれるからです。この場合いちゃもんをつけた店員が名誉毀損で訴えられる。先のカネは交換物がある交換の手段。こちらの貨幣の場合は交換物がない。似て非なるものです。人間の発言は心地良い抑揚が付くと言葉ではなく「歌」と呼ばれる。社会においては似て非なるものです。
 しかし、こんな話は長いだけでつまらない。ちょっと書いてつまらないことを証明したところです。ま、余談。
 
 さて、貨幣でモノを買うところまで飛びますよ。
 一般的交換手段としてカネが成立しました。これは「コメ」でもいいのですが。このカネの成立は、「価格」の成立でもあります。ではその基準はなんでしょうか? 違うコメとアジの干物が、さらに、別の需要を持つ人間に対しても、同様に量られる根拠は?
 このとき、価格の基準は、本人(の一家)の生計費と専用物品の作成者の生活費との交差点です。鎌(かま)の値段は、それを作った鍛冶屋が生きていける米あるいは稗の値段であり、米あるいは稗の値段とは、それによって塩を買い塩魚を買える値段です。「生活費」とは、彼とその家族が生きていくのに要する消費物資の量が、彼が持つ他の物資と交換されるべきお互いの単位量です、これは当初、「交換」なので、同時に二つの量です。この社会関係からは、コメ以外でもいつの間にか一般的等価物が出てくるかもしれません。それはもちろん、その共同体成員の相互作用の賜物です。
 そこで言い換えましょう。「価格」とは、その当初においては、同一共同体内部での生計費のことです。それがために定まったある「基準」を保つのです。隣の共同体員が死のうが生きようがそれは知らない。しかし、同一共同体においては、全ての成員が生きていくことが必要なのであり、そのための交換を確保できるものが「財産」の「高(たか)」なのです。もちろん、その共同体には多量の米を持っている農業リーダーもいるでしょう。彼は「金持ち」です。あるいはまた、不作時には農業リーダーの庇護を受けなければ塩が手に入らないメンバーもいるでしょう。彼は貧乏です、が、毎日を生きていけるのです。
   
 さて、この当初の価格は、いつまでも同じではない。これを揺るがすものは、商品経済の発展です。共同体がそれだけでは存続できなくなる事態です。
 都市における商品生産物は、権力者とその配下によって買われる。商品生産者はそのカネで米を買う。問題は労働者であり、労働賃金で米が買えるところまで賃金を払わなければならないのですが(でないと死んでしまう)、他方、米には限界があり、買えない(もっとも「米」は必須消費物資の比喩ですが)。この場合「米が高い」と評価されます。米の値段は低くならなければならない、ここで、米によってその他の地域価格の低下が現実化した段階で、労働(力)の交換価値は(注1)、国家において制度化されます。ある消費物資は、その占有者が誰であろうと、同じ交換比率を持たせられます。これを確保するものは「法」権力です。コメ1俵は金1両として、誰が小判を置いていっても米1俵が買える。このとき、消費物資の占有は法によって守られている、つまり「所有」されていることになります(なお、細かい時代考証はしません)。
   
 こうして、宇野弘蔵に代表されるように、労働者賃金は、自らが買い戻すための賃金となってしまいました。
 もちろんこれは現実には「自ら(の一家)の生活費」分の賃金というが正しいのですが、生活費というと大根やニンジン、その他の農作物の代金等も入ってしまう。資本主義の経済分析上、資本に関係のない百姓の事情まで論理に加えることは不可能なので、経済学での理念上の処理なのです。
 すなわち、商品の持つ交換価値は確かに労働の価値なのですが、その価値の大きさと労働の価格とをつなぐものは、労働者の労働単位時間に集約される生活費なのです。労働者が支出する労働の価値は労働強化によって上がる。それはもちろん経営者でなくとも知っている。労働を強化すれば商品をたくさん作れるのだから一目瞭然です。しかし、生活費は変わらないので賃金を変える必要はない。「労働単位時間に集約される」とは、問題は1時間単位の労働「ではない」ということです。100の商品に100の労働時間単位が必要であれば、それはA商品であろうとB商品であろうとC商品であろうと同じ交換価値です。たとえば100個の商品を10日かけて作るときです。それらへの賃金も、あるいは労働単位時間に集約される生活費も同一です(のはずです)。しかし100の商品を午前中10回の労働で作れるならば、その価値も労働単位時間に集約される生活費も半分に過ぎない。なぜなら資本家は残りの午後に別の100の商品にその労働者を当てて、もう半分の賃金を払えばよいからです。労働者も不満ではあるが待遇が変わったとは主張する正当性は探しにくい。たしかに商品の価値は、労働時間による価値でできていると主張してもよいのです。
 他方、労働は複雑であろうが単純であろうが、その作る価値は一緒です。労働単位時間に集約される生活費は、変わらないからです。
 もう一度言っておきましょう、商品の価値は労働が作るのですが、労働時間が価値の大きさを決めるのではない。労働単位時間に集約される生活費が価値の大きさを決めるのです。
 もちろん、生活費が生産価格を決めるのではありませんし、ましてや市場価格を決めるわけでもありませんが、生産価格の可変資本部分を決めるものは、生活費なのです。生活費は当初において賃金労働者の生誕前から変化しつつも歴史的に決まり終わっていますが、この歴史的事実をどう純粋理論とするかが、理論家のお手並み(注2)、というわけです。
 
 (注1)マルキストの方には用語の引っ掛かりがあるかもしれません。労働者が売るのは労働力ではなく労働だということを知らないからです。この誤謬は相当資本論には痛手ですが、まだ資本論の価値は9割は残っています。
 展開しましょうか? まあ主体的にはそれ自体は、マルクスの異様な意気込みとは異なり、くだらない話なのでここではやめときますが。とりあえず、マルクスの子供のようなギリシア哲学知識のひけらかしに過ぎない、といっておきましょう。
 
 (注2)もちろんこうした労働価値論議でのマルクス批判は、大方の素人のような経済学者(?)の思いとは異なり、資本論の正しさとは何の関係もありません。「現実」という、労働者が搾取されている過程にはなんの変わりもなく、資本論とはその搾取のされ方を順を追って説明していこうとする叙述、というだけのものだからです。その叙述に多少の引っ掛かりがあろうとも、それは資本論の部分的な失敗に過ぎず、資本論の価値を低めるものではない。もちろん高めはしませんが。ましてや労働価値説は揺るぎもしない。それが現実なのですから。現実は、体制が変わらない限り揺るぐはずもない。
 おそらく近代経済学博士課程修了くらいの思考力ではとても理解のできないことでしょうから、念のため注しておきます。
 
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