こんにちは。涼しくて夏がこれでよいのか、という具合だった東京地方もお盆らしくくそ暑くなって。夏休みの親御さんたちも一安心でしょう。いやでしょうが。
さて次回配本の応用理論用に、「(応用の)技術とはなにか」ということであちこち確認しておりましたら、例のwiki、「技術論論争」として下記のようなことが書いてある。
”技術論には、(戦前の唯物論者の)技術を労働手段の体系として捉えるいわゆる「手段体系説」と「(武谷三男らの)技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」という意識的適用説があるが、意識的適用説はほぼその影響力を失ったといえる状況にある。”
なんだそうで。
たはっ。
行為主体にとって、わたしやあなたにとって、対象を変更しようと思うときは、それまで正しいと思われているその時点での「真理」を応用して、対象に働きかけざるを得ないし、それで何も不都合はありません。
いいかえると、技術が【人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である】以外の形態をとることなどない、ということです。
野球少年は、なんとかカーブを打つ技術を身につけようと、日々苦心をこらす。
「ボールが曲がるから打てないなら、ようし、一つ変化する手前で打ってやろう」、と考えた少年は、前に体を泳がせながらも、ともかくもヒットにする技術を身につける。この身に付けたものが技能であり、身に付けたはずの、あるいはこれから身に付けるべき想定物が技術です。
これが行為主体にとっての技術なのです。
人は、その時点での本当らしい認識を持って、それを実行できるような工夫を頭の中で凝らし、現実に適用し、それが自分の意図にとって間違っていれば修正し、また「本当らしい認識」のほうも修正する。
人間ていうのはそうやって生きていくものです。
もちろん、技術は知識として体系化しうるし、それが便宜的=道具的に有用なので、体系化される一般的傾向性をもつだろうけど、当初の人間にとっては、それは「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用」なのだよ。
ははは、影響力を失った? なんのこっちゃね。
いや、もちろん、ある意味うそじゃないけどね。要するに、『武谷三男(以前このブログでも「科学の三段階論」の主張者として紹介しました)のような主体性論は社会で流行らなくなった』といいたいんだよね。
実際、武谷が「その知識は、他者を含む社会の中で、行為の便宜性により、知識として体系化する傾向をもつ」と書かなかったのもイマイチかもしれないけどね。別に彼は哲学者という定義屋でもないから(物理学者です)。
それはそれ。ともかくも当初の人間にとっては、技術は知識ではなく、真理の応用的適用の努力であり、その結果なのですね。これを誰かに伝えるばあい、あるいは伝えようという構えがある場合、これが「技術」と呼ばれます。
***
さてと、ここで終われば話は簡単なのですが、なかなか世の中複雑です。
技術は、今の世の中では、労働手段の体系と扱われることが多々あるからです。
資本家は、自分の工場で労働させる手段を体系的に労働者に与えたい。
かくて資本家は政府に「子供に技術を教える学校」の設立を求める。
そこで政府も「工業技術学校」を作る。
一方、生産手段を持たない人間は、資本家の工場に雇われたいので、なんとか「技術の体系」を身に付けようと工業技術学校に行く。
さあどうだ、技術は労働手段の体系ではないか。
「そうさ、だからどっちも正しいんだよ」 ですか?
実は、言葉というのは正しいとか正しくないとかの問題じゃないんですね。さらには、物事の本質がどうという問題でもありません。
人が、どのような立場に立って物事を見るか、言葉を投げかける相手とどう対峙するか、という問題です。
ある客体的事象は、個人行為者にとってのみ意味があります。事象は、私にとって、あなたにとってどうなのかが人間にとって問われるべき問いなのです。
行為主体にとって、外界はその属性によって(その対主体的機能やその対主体的行為内位置づけによって)把握されざるを得ないし、それが必要なのです。
たとえば、金槌がないときに釘を打とうとする者にとって、道端の石は、その重さと堅さ、あるいは叩いても爆発しない、という、いずれにせよいくつかの属性によってのみ把握されるのであり、この石の生成からその場所に存在する歴史的経緯までについて全体的に把握する必要はない。
それが主体性というものです。これが武谷三男が「主体性論者」といわれる理由です。
そんなことをいっても、さっきの例の資本かも労働者も「主体的に」工業技術学校を欲しているではないか、という疑問が出るでしょうか(って無理やり出しているようですが)。
さよですな。しかし、資本かも労働者も、なんらかの物体に技術しようと思っているわけではありません。技術というものを想定して、それを頭の中で動かしているだけです。
つまり、技術が労働手段の体系である、という立場は、行為としては外界を見ているだけの立場なのです。
資本家は、なんもわからん質の悪い労働者じゃ、雇っても使い物にならん。これは政府にいって工業学校を作ってもらわなければ、と思う。
思うだけです。それはただの資本家の認識です。
それからおもむろに、政府首脳のところへ出向き、技術を教える学校を作れという。
あるいは、生産手段を持たない人間は、社会に向かったとき、そうか、技術を得なければとても食っていけないな、と考える。
それは考えるに過ぎません。
その認知をもって、しかたがないから工業学校へ入ろうとする。
この考えるだけの立場、これが主体性を蝕む「客観主義」の立場です。
「蝕むって? なに、その悪口のような言い方は?」
はい、長くなりましたのでこの辺で。
次回は主体性と客観主義の違いです。
(注)いってみれば、技術とは、その技術を作った者と、それを伝承される者がもつモノです。それを媒介するのが、学校で先生が話す、作った者が過去持ったそれより一段複雑化した「本当らしいこと」である技術に関わる知識。それは知識であって、技術は、自分で「習得する」ものです。そうでなければ、教師も生徒も苦労しませんね。
さて次回配本の応用理論用に、「(応用の)技術とはなにか」ということであちこち確認しておりましたら、例のwiki、「技術論論争」として下記のようなことが書いてある。
”技術論には、(戦前の唯物論者の)技術を労働手段の体系として捉えるいわゆる「手段体系説」と「(武谷三男らの)技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」という意識的適用説があるが、意識的適用説はほぼその影響力を失ったといえる状況にある。”
なんだそうで。
たはっ。
行為主体にとって、わたしやあなたにとって、対象を変更しようと思うときは、それまで正しいと思われているその時点での「真理」を応用して、対象に働きかけざるを得ないし、それで何も不都合はありません。
いいかえると、技術が【人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である】以外の形態をとることなどない、ということです。
野球少年は、なんとかカーブを打つ技術を身につけようと、日々苦心をこらす。
「ボールが曲がるから打てないなら、ようし、一つ変化する手前で打ってやろう」、と考えた少年は、前に体を泳がせながらも、ともかくもヒットにする技術を身につける。この身に付けたものが技能であり、身に付けたはずの、あるいはこれから身に付けるべき想定物が技術です。
これが行為主体にとっての技術なのです。
人は、その時点での本当らしい認識を持って、それを実行できるような工夫を頭の中で凝らし、現実に適用し、それが自分の意図にとって間違っていれば修正し、また「本当らしい認識」のほうも修正する。
人間ていうのはそうやって生きていくものです。
もちろん、技術は知識として体系化しうるし、それが便宜的=道具的に有用なので、体系化される一般的傾向性をもつだろうけど、当初の人間にとっては、それは「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用」なのだよ。
ははは、影響力を失った? なんのこっちゃね。
いや、もちろん、ある意味うそじゃないけどね。要するに、『武谷三男(以前このブログでも「科学の三段階論」の主張者として紹介しました)のような主体性論は社会で流行らなくなった』といいたいんだよね。
実際、武谷が「その知識は、他者を含む社会の中で、行為の便宜性により、知識として体系化する傾向をもつ」と書かなかったのもイマイチかもしれないけどね。別に彼は哲学者という定義屋でもないから(物理学者です)。
それはそれ。ともかくも当初の人間にとっては、技術は知識ではなく、真理の応用的適用の努力であり、その結果なのですね。これを誰かに伝えるばあい、あるいは伝えようという構えがある場合、これが「技術」と呼ばれます。
***
さてと、ここで終われば話は簡単なのですが、なかなか世の中複雑です。
技術は、今の世の中では、労働手段の体系と扱われることが多々あるからです。
資本家は、自分の工場で労働させる手段を体系的に労働者に与えたい。
かくて資本家は政府に「子供に技術を教える学校」の設立を求める。
そこで政府も「工業技術学校」を作る。
一方、生産手段を持たない人間は、資本家の工場に雇われたいので、なんとか「技術の体系」を身に付けようと工業技術学校に行く。
さあどうだ、技術は労働手段の体系ではないか。
「そうさ、だからどっちも正しいんだよ」 ですか?
実は、言葉というのは正しいとか正しくないとかの問題じゃないんですね。さらには、物事の本質がどうという問題でもありません。
人が、どのような立場に立って物事を見るか、言葉を投げかける相手とどう対峙するか、という問題です。
ある客体的事象は、個人行為者にとってのみ意味があります。事象は、私にとって、あなたにとってどうなのかが人間にとって問われるべき問いなのです。
行為主体にとって、外界はその属性によって(その対主体的機能やその対主体的行為内位置づけによって)把握されざるを得ないし、それが必要なのです。
たとえば、金槌がないときに釘を打とうとする者にとって、道端の石は、その重さと堅さ、あるいは叩いても爆発しない、という、いずれにせよいくつかの属性によってのみ把握されるのであり、この石の生成からその場所に存在する歴史的経緯までについて全体的に把握する必要はない。
それが主体性というものです。これが武谷三男が「主体性論者」といわれる理由です。
そんなことをいっても、さっきの例の資本かも労働者も「主体的に」工業技術学校を欲しているではないか、という疑問が出るでしょうか(って無理やり出しているようですが)。
さよですな。しかし、資本かも労働者も、なんらかの物体に技術しようと思っているわけではありません。技術というものを想定して、それを頭の中で動かしているだけです。
つまり、技術が労働手段の体系である、という立場は、行為としては外界を見ているだけの立場なのです。
資本家は、なんもわからん質の悪い労働者じゃ、雇っても使い物にならん。これは政府にいって工業学校を作ってもらわなければ、と思う。
思うだけです。それはただの資本家の認識です。
それからおもむろに、政府首脳のところへ出向き、技術を教える学校を作れという。
あるいは、生産手段を持たない人間は、社会に向かったとき、そうか、技術を得なければとても食っていけないな、と考える。
それは考えるに過ぎません。
その認知をもって、しかたがないから工業学校へ入ろうとする。
この考えるだけの立場、これが主体性を蝕む「客観主義」の立場です。
「蝕むって? なに、その悪口のような言い方は?」
はい、長くなりましたのでこの辺で。
次回は主体性と客観主義の違いです。
(注)いってみれば、技術とは、その技術を作った者と、それを伝承される者がもつモノです。それを媒介するのが、学校で先生が話す、作った者が過去持ったそれより一段複雑化した「本当らしいこと」である技術に関わる知識。それは知識であって、技術は、自分で「習得する」ものです。そうでなければ、教師も生徒も苦労しませんね。
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