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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

唯物史観の新公式

2011-12-31 23:21:28 | 歴史への視角
 こんばんは。今年もいよいよ押し詰まり、「懐かしの紅白歌合戦」が流れる今日この頃、
 昨日は高校の友だち忘年会。
 何十年経っても変わらない人たちは、ちょっと私の誇り。
   しかし、誰よりも元気そうな自分は、帰り道、持病の貧血に襲われてしまいました。
   あんがい危ないんだよね、こんなものでも。

 さて、お話の続き。
 社会主義でない計画経済。

 ちょっとネットで参考文献すると、サミール・アミン(アフリカ植民地革命学者)とかでるんですよね。
 サミール・アミーン、帝国主義と不均等発展、北沢正雄訳、第三書館、1981.
 しょうがないので(=自分だけ偉そうな顔もできないので)学者の真似をしに図書館で借りたんですが、なんか無残に近い。こんなもん誰も見やせんぜよ。さらにこの訳の北沢正雄という毛沢東主義者みたいのの解説が輪をかけてわからねえ。
 まあ、この前のアルジェリア人と一緒で、こうゆうフランス文化圏人が訳のわかったような分からないようなことを書いて「革命を鼓舞する」ことも、未開では必要なんだよね。

 さて、本題。

「社会の物質的生産諸カは、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがその中で動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は生産緒力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命がはじまるのである。」
 ご存知、マルクス「経済学批判・序文」
 これをご存知でないと、今日のテーマはあまりよくわからない。
 ついでに社会は、「原始共同体社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会 その先の発展に社会主義・ 共産主義社会」と動くという、これはマルクス主義の定説。
 「定説」という意味は微妙で、マルクスがどんなつもりで発言したのかってことがあるんで、「マルクス主義の」定説ということで。

 で、どなたか、これ分かる方いますか?
 なに、生産力が発展すると生産諸関係と矛盾するって。 しかも、さらにいうには、所有関係と矛盾する?
  説明してつかわさい。
 
 っていっても無駄だから。マルキストがいうのを聞けば、歴史の現実結果を述べて、それがこの文の意味だよ、ってだけ。無意味。
 そりゃ神様がどういったとかの意味を現実に当てはめて、ほらこのとおり、神がいったとおりだろうが、といっているだけ。何の説明にもならない。
 
 
 というわけで、社会の歴史についてご説明します。 
 さて、ずっと昔、人類社会の当初にあった消費物資の入手の不安定さは、蓄積が可能となった瞬間に、人間間に支配を生みます。あるところにはたくさんものがあって、飢饉でも生きられると、私もそうなりたいと思うものですね。といって剰余は湧いて出るものではない。他人の生産物を我が物にしなければならない。この過程で、支配者と武力は同じ意味を指すことになります。
 
 ところで、この発生してしまった支配社会においては、支配者は、被支配者を、被支配者の武力を上回る武力によって、支配している、ということですね。
 それでは、これを覆すなんて誰かにできるのだろうか?
  
 これができるにはいわば、武力と経済力とが分裂しなければならない。それが商品経済の進展です。
 すなわち、生産力の上がった社会では、商品生産(流通)の要求が強まる。これはカネへの欲求と評しても良い。これは武力権力者にとっては借金の困難、といってもよい。
 いずれ、そうした困難を引き起こしても欲しい商品への要求、あるいは正確には余剰生産物への(支配者という)人間諸個人の要求は、それまであった支配者自分自身の支配力の弱体化を要求します。

 この弱体化要求が、ある場所では改革に、ある場所では革命に、なる。
 これら改革・革命は、ある場所では「社会主義」革命となる。
 これが、階級社会の必然的進展です。

 進展した商品経済社会においては、武力支配層は、いつでも交換可能です。彼らは経済上は寄生しているに過ぎない。一方、経済的支配層は、彼らが支配権力に保全されて持っている生産手段の必須性から、交換が難しい。彼らは、いわば武力上は寄生層なのです。

 とはいえ、事情はこれだけですから、支配階級が弱ければいつでも国家武力を乗っ取ることはできる。とくに自らの役割を果たさない資本家の低生産力では、資本家から生産手段を取り上げ国家で運営するのが生産力を上げる近道です。 国家政権は、自分とつながった経済組成をどう維持発展させていくかを、その範囲内で、自由に決定できる。これを動かすものは、自己の生理性であり、したがって、これに反する一切の排除です。
 それが社会主義か、といわれれば、そんなことはない。ただの国家経済社会です。
 
 つまり、共産主義の第一段階は、この階級性を国家的に調整しうるかどうか、この現実化がメルクマールとなる。
 世の「社会主義革命」など、彼ら「革命」者の言にあるように、ただの階級社会の統治者の変更に過ぎません。それでは、商品経済の法則性は免れても、階級社会の法則性は免れることはできないのです。
 それは、まさにレーニンが非難して有名にした、抑圧機関としての国家そのものです。

 上記は長いか短いか。結果的に紅白も押し詰まってまいりましたので今年はこの辺で。
 では皆様、よいお年をお迎えください。

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社会主義でも資本主義でもない形態

2011-12-25 17:28:52 | 歴史への視角
 メリークリスマス。
 西洋は、1年に1回、人間がまっとうになれる日があってよいですね。日本にも欲しいものです。
 
 さて、金某が死んだそうで。私は飢えた農村人民以外にはぜんぜん興味もないですが、なんでもここは「社会主義国」と言われているという。
 昨今左翼の右翼化で社会主義の定義が揺らいでおりますところ、私なんぞがそんな奴らに交じって追い討ちをかけるのは避けたいものですが、まあ、順序として初めにこれを片付けておこうと思います。
 
 さて、まずは「資本主義」とは。
 便利なウィキペディアによると
資本主義とは、「生産手段を持つ資本家が、賃金労働者を使用して利潤を追求する社会システムである。」
 これはなかなか良い表現。
 実は他によいものはないかと、確認に図書館などみて、佐和隆光、資本主義の再定義、岩波書店、1995.なんてみてみたのですが、これは佐和せんせいの悪いとこばかり。感想文集でした。ウィキがんばってますね。
 
 では「社会主義」は。
 同じくウィキペディアでは
「社会主義は、資本主義の原則である生産手段の私的所有を制限または否定し、生産手段の社会的所有や管理などによって、生産物や富を平等あるいは搾取なく適切に分配した、より公正な社会を実現しようとする思想と運動の総称。」
 うん、これもなかなか良い。

 なので、北朝鮮は社会主義ではありません。
 なんてマルクス主義者もいっちゃうんだから、ほんと右翼化が進んでますな。
 ところで私はマルクス主義者ではありませんので、もっとすっきりいえるわけで。
 
 計画経済イコール社会主義だなどというのは、私が何度も言う、マルクスの趣味的謬見です。決して社会主義思想史に直結しているものではありません。
 生産手段が私有されてはならない、という認識は構わないが、ではそれを国家が私有する、のでは資本主義と同じなのです。
 といっても同じ結果を生むだけで、資本主義ではない。これを国家資本主義だ、などといってしまう自称マルクス主義者というのもわからないものです。彼ら国家官僚は、賃金労働者から搾取しているわけではない。ただの人民から強制労働を通じて余剰生産物を収奪しているだけです。
 「そんなこといったって、社会主義と資本主義の他に我々は単語を知らない」ですかね?

 社会主義的な経済活動の本旨とは、企業の恣意を通さず、「人民全体の意思」の下に経済を服させるところにあります。
 ここで、人民は、決して「国家」ではない。それはマルクスも知っていて無視したところです。
 計画経済とは、私有であれ共有であれ国家の所有の下で、経済活動を行おうというものです。
 それは企業の戦略的占有権を奪うものとして、ある場合には社会主義化に際してありうる「かもしれない」処置にすぎません。
 
 だからなんだって?
 
 これは、国家武力は、ある場合には、新しい経済形態をとることが可能なのだ、という確認です。封建制でも資本主義でもない形態。
 さて、「そういう形態をとることができる」という1文は、社会科学上どういう意義を持つのか。
 これはまた次回。


 小出しすぎる?

 いやはや、ここんとこ世間がつまらないので書物に沈潜して、これが面白いのが多くて、自分の発表(に伴う面白さ)意欲が薄れてまして、今日はこんなとこで。
 それより、その推理小説的面白さの本を2冊ほど。

 まずは、いま話題のブータン。
中尾佐助、秘境ブータン、社会思想社、1971.
 これは1958年のブータン植物採取旅行について、1959年に出版されたもの。
 てゆうと50年以上前の話で。
 で、今ほかで入手されない情報でこれに書いてある大事なことは、
1 ひどい身分社会であったこと(士、農、工、商(チベット人)、奴隷)。これを開明君主が平等化してすぐの時代、とのこと。
2 その頃から、女性の地位が強かったこと。これは妻問い婚制度のため(マス夫さん的に肩身が小さくなる)。
 だそうで。あと、その頃から自給自足で士農なら飢えることはないそうです。

 ついで、
川島博之、食の歴史と日本人、東洋経済新報社、2010.
『「もったいない」はなぜ生まれたか』について、日本と世界の歴史的食糧事情についてかいてあります。
 答えは、”日本の、世界一の農地当たり人口密度により、なんとか自己を養っていこうという近世以降の努力が「もったいない」という言葉をいわしめている”、ということで、これが東大助教授らしくない大局的支店から書かれていて大変面白い。
 もっとも10の文に1つは眉唾くさいところがありますが、何しろ大局的なのだからそのくらいは許さなければ。ま、他人事でもないし。
 思想も中道の中くらいで、イデオロギー的色眼鏡も垣間見られますが、下道ではないのでこれもそのくらいは許さないと。

 ところで川島博之ってだれかな、って、今yahooってびっくり。
 なんだ、あの食料輸入論の川島かよ。
 ちぇ。だから経済知らずなんだ。
 ま、それはそれとして、事実知識として面白いのでお奨めです。ただし、若い人は気をつけてそれ以上信じないように。

    などなど。それではまた。

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イデオロギーの嘘と真実

2011-09-24 10:03:36 | 歴史への視角
 こんばんは。涼しくなって助かります。

 さて、本日は理屈の話。少々複雑ですので、先に構成をいっておきましょう。
 とある論文につきまして

 1 (アフリカの女性解放のための)先進国イデオロギーは、(とりあえず表出者の意図を問わず)後進国支配のイデオロギーとして機能した。
 
 2 と、指摘するのは、「イデオロギー」とはもともとそういう性格のものだから正しいのだが、だからといって、歴史的にそれが反人民イデオロギーになるわけではない、というよりは、理論上、それは強力な自由の武器になる、という趣旨です。


 対象の筋をかいつまんでいいますと、女性割礼について、植民地主義者は、「文明化」の名のもとにこれを廃止しようとする。一方、抑圧下の女性にとって、こういう言説に乗れば、男との交渉権も妻たる生存手段も失われてしまう。だいたい、白人の反対運動に加担すること自体、地元の生活への裏切りで、逆に、割礼が反植民地主義の象徴にもなる。
 かくて、割礼反対運動は、遅々としても地元女性民のみの仕事でなければならない。
 みたいな展開です。
 というのは、隈の昔の知人の学術論文。 この人は社会学者ではない、ただの女性学学者ですが。
  
 しかし、運動とはそういうものではない。
 権力を握った者の行動を翻すには、その者の生理性を脅かすか、賞賛と優越をくすぐるか、それよりも強い権力で圧倒するか、しかない。
 これは、部分的な女性解放運動であれば
1 女性の武力で、権力者の日常を脅かすか
2 当該共同体に、部分的な(解放へ繋がる)女性寄与行動に賞賛を与えるか(たとえば、「皇后陛下」が賛同した)
3 他の強力武力が、当該権力者を脅すか
4 あるいはその運動が、本質的には権力者の自由をも増大させるものか
 のいずれかに該当するしかない。
 
 当該システム内部で少数の女性がうごめいたとて、そんなものはなんの力にもならない。
 女性の3割が動けば強大な力だが、そんな状況は、危うくなった現在の体制を守る方向でしか表れはしない。過去日本では、戦争へ向かうため、男どもを戦地に追いやる場面にしか発揮されなかった。いや、これは結果論ではなく、男も女も、国家権力の賞賛によだれを垂らした、という事実を言っているだけですが。
 日本の女性解放運動が多大な成果を上げたのは、それが既にシステムで保証された賞賛と優越を、遅れた現実に適用していったものだからにすぎない。
 ご存知の方は多いように、1970年前までの日本にさえ、糾弾されて十分な女性差別がありました。そんなことは社会学類書にまかせますのでいいませんが。 いわんや、戦前おや。
 そんな日本のどうしようもない差別待遇を前進させたのは、団結を誇った女性集団ではなく、理想に燃えた欧米近代主義者のアメリカ民主思想集団です。 もちろん彼らはただのイデオローグで、実は日本をアメリカの都合の良いように変えようとしただけですが。ともかくも、アメリカの武力下で、各種の「法」が作成された。
 もちろん、ほおっておいても日本資本主義の進展は、いつか、各種自由を獲得させたでしょうけれど。「それはいつか」。いつでしょうねえ、、、


 というわけで、女性学というのは現実学なのだな、という感想です。
 この筆者は左翼ですので解放を一歩でも推し進めようとしていると思いますが、そうなると、現実の生きている現地女性の次の一歩を語るしかない。そうなると「そんなことをいったって」ということになる。
 それはそうなんだろうとは思いますが、それを影響力のある他国家の人民が理論的な結語とするのは、それは少々違うでしょう、ということです。
 
 結語はいわないのがいい、というのが私の考えですが、他方、当該人民の立場にたつか、他国家人民の立場にたつか、ということは「立ち位置」として、第三者にとっては選択問題ではあります。 どちらが誠実か、とか、どちらが無責任か、とか。 まあ、この筆者には現地にお友達がいそうですので第三者問題ではないのでしょうが。 


(P.S.
 国外勢力の脅しと殺しは、まったく違います。
 生活共同体では、権力の行方は、その原因はなんであろうと、システムの内部で処理するか、または共同性の内部で処理するかしなければ、生活が、人々の生きる正の感情が、生きる全てが、崩壊します。そう書けばそのまんまですが。
 単純なんですけどね、右翼には分からないし、資本主義者、要するに侵略者は分からない振りをする。
 念のため。)
 
 
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資本主義社会におけるフェミニズム

2011-09-11 11:05:10 | 歴史への視角
 こんにちは。お暑うございます。
 昨日も休みだったのですが、太陽が斜めになって、ベランダに差し込むもんで、窓際の机は暑くて。とても勉強という感情がおきません。
 そろそろ次回本をまとめようと思うと、少しあせります。

 さて、昨日の朝日新聞人生相談欄は、東大退職の上野千鶴子がまだやってまして、いつもの言いたい放題に比べて、お、っと思うほどにまじめに発言しておりました。
 ああ、これは、賃金労働から解放されて良い方へ進んでいるのだな、と、他人事ながら喜んであげた次第。ってゆうか、私儀、もともと高校生のような真剣な人間に価値を置くもので。
 図書館で目に入った上野の退官記念講演なるものを4分ほどかけて読みまして、ほお、まじめじゃん、人間いつもこうでなければ。彼女もこれから更生して生きるのかな、と思ったこともありますが。
 だいたい、関西人のせいか知りませんが、話がいいかげんでね(注)。もっとも、嫌いだ、というだけでネットでうじうじ「批判」している男たちよりは数倍マシですが。
 
 フェミニズムというものは簡単素朴、当たり前の主張です。
 性別というものは、ほおっておけばいつでも差別の根拠になるものだから。それが現実化していれば、これと闘うのも当然で。

 一方、マルクス主義がこれに反対するというのも当然でね。これはマルクスが馬鹿だから。
 というか、後に追随したやつが輪をかけて馬鹿だった、といってもいいけれど。
 
 世の中、差別の契機(=要因)というものがあるんですね。
 自己の自由のために優越や賞賛を勝取るための行為、ですね。自分が使える資源が少なく感じられる時代・社会では、個人行為者としては、なんとか他人を犠牲にするのがよいし、そういう時代・社会では、他人を馬鹿にすることが自分の気持ちをよくすることだ、ということです。(私だってみんなと一緒になって性格が悪くて仕事のできないやつの悪口をいうのは、気分の悪いことじゃないです。性格が普通の人の悪口は気分が悪いですが)
 この結果は、弱い人間がバカを見る。
 女は男より弱い。しかして、ほおっておけばいつでも差別の根拠となる。
 
 マルクスとそれ以下は、こういう見方ができないんですね。人間は「類的存在」 であり、自然的存在として矛盾があるはずがない、というのが根本だから。マルクス主義など、後進ドイツと後進日本の合算物ですね。
 なにが類的存在かね。
 人間は哺乳類的家族存在ではあっても、ただの個体生物だ。
 そうでないというならば、なぜ弱いものが現実化するところでは、差別が生ずるのか説明してご覧な。他方、そうだというから、隈理論体系が存在するわけです。
 
 さてと、もちろん資本主義が存在する限り、男女差別なんかなくなりゃしません。
 ていうか、階級社会が存在する限り、かな。だからマルクス主義者が、民主党支持のフェミニストを攻撃するのも当たり前ですが。いわんやそれ以下(自民党・公明党支持)をや。
 
 さてそこで立ち止まらないところが上野センセのいいところですね。根本解決がどうであろうと、ここで闘う。それが人間の歴史的な存在方法というもの。ブントもバカなだけじゃないんです。(って気が付けば、センセいつ転向したのか。まあいいや)人間は、その場所的存在において矛盾と闘うしかない(もとは革共同の特許でしょうかね。これを忘れたら新左翼じゃないけどね)。そして、「それでよい」 のだ。上野という人は、30年前からそれを知っていたのですが、身過ぎ世過ぎというものは物事を形骸化するものです。あれも中途半端、これも中途半端。
 
 もっとも彼女的にはそれでよいようです。彼女が何をしたか。フェミニズムについて、世間のえらい評判をとった。それで充分(資本主義社会での運動とはそういうものだ)。
 そう記念講演でいっておりました(そう読み込んだだけですが)。
 結果として、30年前のポリシー(文字通り、「政策方針」でしたね)を貫いたようです。ご同慶の至り。


注)アカデミズム系の人が見るとうるさいので、くだらないけど「根拠」をあげておきましょう。
例:yahoo検索「上野千鶴子」で1ページ目に出る
「上野千鶴子さんインタビュー1」
「もう一方では、晩婚化と非婚化が進んでいます。つまり、男がモデルどおりの人生を歩まなくなった。そうなると、家族給を支払う理由は何もない。いま、男の非婚率はものすごく高くなっています。40歳の男の非婚率は15~20%、5人に1人です。」
 「いま」じゃ、ないしょ。昔はもっと高いでしょ。なに、この箇所に限りませんが。問題は、彼女は種々の事実を知ってても無視して発言を構成するということです。
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後進国家の「暴力装置」なき暴力

2011-09-03 21:31:28 | 歴史への視角
 こんばんは。東京地方ひどい風で。
 四国はもっとすごいんでしょうねえ。
 風も雨も嫌いではありませんが、風の音が嫌い。
 本人たちも嫌われるより好かれたいのではないかと思うんですが、世の中ままなりませんね。

「本人たち」って、あめかぜ。

 そんなもん、ただの水や空気の太陽熱への対応形態だって、そう言う人はいるかもしれませんが、って「いるかも」じゃなくてみんながそう言うでしょうが、世の中そうかんたんなもんではござんせん。
 人間だってただの生命の分割的現象への対応形態で、その割には、いきしには人間の最重要課題でしょう。ま、冗談好きの隈。

 そんなこんなで今日は休日。ゆっくりと一休み。
 世間では新組閣とか。
 結局いまのところ、大方の人間が「現在」を変えて欲しくないようですね。
 また政権は自民党ですか。
 私などは自民党独裁に慣れてますが、若い人はそう思わないのがわれわれの世代の「普通」ですけどね。
 いやさ、「普通でした」か。情けなし。 
 「とんでもない、沖縄県民はそう思わない」 って、声は聞こえれどそれにしちゃ選挙結果が違うし。
 「ばかやろう、そりゃしかたがないからだろう」って、そりゃそうだね、でもキミらだけじゃなくみんながしかたがないんだぜ。
 
 いや、暗い。
 ほんとゆっくりすると暗くないかい? 人間て、日々自転車操業をして暗さを忘れるんだよね、なんて同意を求めても、それにしちゃみんな明るすぎるし。
 
 さて、本日の暗いブログ、、、違うか。
 
 本日は「暴力装置的国家の明るさ」
 国家はなんどもいうように暴力装置ですが、それも悪くないんじゃん、ともいえるな、みたいなところで。
 
 昔の若い人間のような立派なお若い方がいたとしたら、怒る前にまず、ブログの題名をみてね。
 変な悪口はかったるいから。
 
   (ここまでもだらけているのにさらにだらだら書くので読みづらいかと思い、先に道案内を。
   (以下は次のように進みます。
   (後進国にとっては、アナーキズムもその他反政府勢力も、現象的に変わりはない。
   (にもかかわらず、アナーキズムはその原理主義性により、どの歴史的段階でも主張を変える必要がない。
   (しかし、それだけに、資本主義国でそれを主張するとバカに見える。
 
 やはり、国家というものは統一されてないと具合が悪いもので。
 資本主義国家は嫌でも統一されざるを得ない。それが商品経済的に進展して政府を乗っ取るという資本主義の歴史的意義です。
 レーニン「国家と革命」の世界ですね。
 一方、帝国主義的分割にさらされた後進諸国は、その宗主国の資本諭義的進展に伴って、国家形式の意義を持たなくなっても(  =本来資本主義本体にとっては、資源供給・商品需要地域が存在すればよい) 武力統治者の存在だけは残る。
 こいつらがどうしようもねえ。
 あらたな統一国家の大契機が生じない限り、たまたま巻き込まれた無関係人民は右往左往するばかり。
 そんな人民にとっての国家は、アナーキズム以前の問題。
 ある境界地域では全人民にとって、国家とは、ただの「異民族」支配の道具に過ぎない。
 こんな国家への対応では、アナーキストもへったくれもない。右であれ左であれ、「敵は倒す」しかない。
 「国家? それは乗っ取るものではない。倒すものだ。」
 
 これは、歴史が進んで、資本主義国家にあっても同じです。
 「国家? それは乗っ取るものではない。倒すものだ。」
 レーニンに対するアナーキストの立場ですね。
 レーニンにしてみれば、「バカいってんじゃないよ、どうやって倒すんだ。乗っ取るしかないだろう」 ってわけですな。
 しかしそんなものを乗っ取っても国家は変わりはしない。マルクスが口先でいったように、国家過程とは上部構造にしかすぎない。マルクスが何も言わなかったように、(国家過程ではなく) 国家本体は、それが依拠する下部構造において武力支配根拠が消え去らない限り、変わりはしない。号令をかけるのが「何階級」であろうと支配根拠は消えはしないのだ。
 
 とまあ、しかし、そういう正しいことを (アナーキストが) いうことが特異になるだけ、やはり資本主義的国民国家というものは、世界史的に進んでいるのですね。中央コンゴその他でいっても何も意味がない。政府に対しては、逃げるか戦うかその一員になるかの選択肢しかない。
 「って、そりゃいつの時代も同じだろう。今だってそうだ。みんな隠し通しているが」 って。
 そうなんだけど、歴史的状態で主張をつむぐ意義が違う、という趣旨です。
 
 と、「国家と革命」のページをめくっていて思ったところです。
 
 というわけで、これも、次回配本『行為の反逆』に反映させますです。


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歴史的主体性への注釈

2011-08-13 16:21:53 | 歴史への視角
 で、これは前の前の続き。
 本日は、4ケ目の記事。
 
 実は来週は夏休みでして、いつもの休日のブログ更新はありませんのでその代わり。

 
 世の中には「歴史的主体性」という単語がありまして。
 ある人間(たち)が持っている歴史を(主体として)形作っていくという資格、
 みたいな意味合いですね。
 「日本臣民は、歴史的主体性を自覚しつつ、大東亜共栄圏を確立する」
 とか
 「労働者は、プロレタリア階級としての歴史的主体性を認識し、革命運動をする」、
 みたいに使いますな。
 
 というわけで、歴史的主体性なるものは、人間の行為として、「まず」存在しない、と観念すべきです。

 (日本臣民やプロレタリアートのようなカテゴリーは、生きている人間の行為とは無関係)
 人は自分がゴーカイジャー(≒ゴレンジャーですな、見てないけど) だったらいいなあ、と想像することはできる。
 しかし、それはなんら自分がゴーカイジャーであることを意味しない。かれは同時に釈迦にでもキリストにでもなることはできる。が、それは誰にとっても現実ではない。

 ついで、左翼である彼は自分がゴーカイジャーだと小学校の校庭で大声で喚くことができる。
 しかし、その喚く行為が、彼に肯定的な結果を引き起こすことのないことを知る。
 来る日も来る日も彼は校庭でわめくが、かれはどんどん疎外されてゆく自分を感ずる。

 歴史的主体性を他人に押し付ける組織の組織構成員とはそういうものです。
 ここで確認するのは、その行為の彼自身にとっての「非成就性」となります。

 これが国家別働隊の大東亜共栄圏思想であれば相手は反抗的な目をしても言うことは聞くので、まあ悪くない気持ちかもしれませんが、どっちの組織でも一般人の感想は同じです。「あいつら疎外されてるなあ」
 キチガイを装わなきゃ人に何もいえないんだな、ってことですね。
 
 
 さてと、じゃあ、「歴史的主体性」とはただのウソか、というと、それはそうではない。
 それは、人が自己の生で形成しつつあるものであり、最後の行為のときに総括される、「人生」の一ではあります。
 それまで疎外されまくった彼は、死に向かって疎外の度を低下させてゆく結果を得ます。

 たとえば、
 人は自分がゴーカイジャーだ、と思って崖から飛び降りる自分を想定し、その自分を行為することができます。
 崖から飛び降りるくらいは普通できるので、彼はそこで自分の主体性を手に入れることはできる。しかし、彼はゴーカイジャーなどではないことは、自分自身で知っている。
 「すごい、彼はゴーカイジャーだ」、という友達の賞賛は、うれしくはあるが、そこでは彼はいまだ主体性を手にいれてはいません。

 しかし、崖から飛び降り、2階から飛び降り、学友の女子生徒を不良から助けつづけるという毎日の行為は、彼に彼の人生を形作らせていきます。
 そして彼は、彼の死の時を迎え、「よし、俺はゴーカイジャーだった」と総括するし、それが可能です。
 
 すなわち、「歴史的主体性」とは、人が主体的に作成しつづけ、彼の人生を一つの行為と見た時に成就するものなのです。
 一つの行為と見るのは観念性ではありますが、それまでの行為の結果のいくつもの賞賛が、これを現実化するのです。
 もっともそこには、マルクス主義の主張するような現実構造の根拠などはありません。
 宗教や国粋主義と同じ、ただの決意の仕業ではあります。
 ありますが、人生を意志をもって形作ることは、宗教がそうであるように、意味のないことではありません。彼にとっては、自分の行為の結果が現実なのです。
 
   ただし、再度言えば、それは唯物論的社会科学とは関係がない、人間の一つの生き方、というものです。ま、それこそ「主義」なんでしょうね。

    というわけで、では、さ来週に。

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世界中で誰も知らない主体性論

2011-08-13 14:39:28 | 歴史への視角

 というわけで前回の続き
 なぜ客観主義では悪いのか。
 
 人間はどうやって生活しているでしょうか?
 人は行為することで生活できる。
 残念ながら寝たきりになった人も、自分の意志を周囲の人間になんとか伝えていくことで、人生にもなんとか折り合いをつけられる。
 
 さて、人の行為とはどういうものか。
 それは行為論の基礎で難しくはありますが、別に厳密なことをいわなくとも、人は、自分で、身体的な要求や精神的な要求によって、次の瞬間の自分の姿をイメージし、その将来像を実現するように、時間時間を行為します。しますよね?
 おなかが減ったら「こうすればおなかがいっぱいになった自分の記憶」をたどり、冷蔵庫を開けて物を探す。ガールフレンドに「おなかが空いた」といわれば、「以前のテレビ番組でケーキをあげて喜ばれていた主人公への記憶」をたどりケーキ屋に入る。
 そして冷蔵庫のお菓子を食べ満足し、あるいは女の子にごちそうさま、といわれて満足する。
 
 人間にとって、この自分の行為の成就が、まず行為の満足の前提、生きる喜びの前提です。
 それが人間の主体性ということです。

 さて、残念ながら、今の日本では、この主体性が、会社にからめ取られ、カネにからめ取られしている。
 そうしませんと食えませんからね。
 われわれサラリーマンは会社のために働く。
 会社や官僚組織での諸行為は、会社の儲け仕事や組織目的の実行行為に限定される。
 問題はそこに主体性がないというわけではない(あるんだから)。
 しかし、その行為が資本主義的に、あるいは官僚組織的に、限定されている、ということなのです。
 その結果、クビや退職で会社から離れたサラリーマンは
 第1に、生理的-身体的要求上主体的行為を剥ぎ取られ(食えなくなって死ぬことです)
 第2に、次なる主体的行為に著しい制限を生じさせる。(ほかに食う手立てもないので、自分の精神性に反して、楽しくもない乞食をしたり、あるいはやることもなく呆然として認知症になることですな)
 第3に、なんでもやれるはずの人生は、40年間の組織活動しかしない人生となる。
     まあ、社長や高級重役や高級技術職なら、そんな人生でもよろしいのでしょう。

 こういうのは、別に資本主義会社だから悪いという問題ではなく、明治期農村でも同じことですけどね。(別に大正や昭和なら許すというわけではなく、ただの例です)

 主体性は、まずはそうした生理性-身体的生存の前提をからめとる社会システムによって、剥奪はされないが、非常な制限を受ける。
 
 そうした社会的事態に対して、自己の自由な選択に基づく行為による満足
 自己が想定した満足すべき将来の獲得、
 その獲得により生ずる、次の自己の世界の我が物化
 (ある一つの自分の行為の成功で一つの将来が得られますと、自分の想定に次の将来が広がるその実現が次の満足を生む、その積み重ねは、振り返りつつ将来に進む人間の人生で、自分の宝物になることは、あなたに想像できますか?)
 
 それが、支配的制度に囚われる必要がない場合のふつうの人間の生き方であり、「主体性」主義ということです。
 それがアナーキズムです。ってひとこと余計か。

 主体性とは、(昔の人しか知らないでしょうが)反体制の念仏や恫喝の言葉ではなく、ふつうの人間の生き方のことなのです。


 さて、それでは客観主義って?
 客観性は生き方ではなく、主体的に生きる人間の道具の作成方法に過ぎません。
 それを生きる態度にすること、それが他人の道具としての人生を生きることであり、じつは生きたはずの過去を思い返せばおしゃべりをして過ごしただけの人生であり、要するに客観主義的人生です。

 「技術は労働手段の体系」?
 それもよいでしょう。資本家や政府や労働者やおしゃべりの大学教授にとって、それは生きるに際して道具として使える有用な概念です。
 しかし、それで技術のことを分かったと思われては困ります。
 それは評論に使えるだけの言葉です。一方、技術とは人間の行為です。自分が次に取るべき行為を客観的にいうことを「客観主義」というのです。それは人間が生きていること自体の表現には、使い物にならない概念だ、ということです。
 

  なんてことは、「戦後主体性論者」であれフランス実存主義者であれ、誰も語っていないし語れないし想像もできない、という真実ですよ。(でも彼らの言に似てる? さて似てて違うところを探してみると、また一つ真実がわかります)
  みなさま、よいブログにこられて幸運です
    なの。

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技術と主体性

2011-08-13 11:59:04 | 歴史への視角
 こんにちは。涼しくて夏がこれでよいのか、という具合だった東京地方もお盆らしくくそ暑くなって。夏休みの親御さんたちも一安心でしょう。いやでしょうが。

 さて次回配本の応用理論用に、「(応用の)技術とはなにか」ということであちこち確認しておりましたら、例のwiki、「技術論論争」として下記のようなことが書いてある。
 
 ”技術論には、(戦前の唯物論者の)技術を労働手段の体系として捉えるいわゆる「手段体系説」と「(武谷三男らの)技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」という意識的適用説があるが、意識的適用説はほぼその影響力を失ったといえる状況にある。”

 なんだそうで。
 たはっ。
 
 行為主体にとって、わたしやあなたにとって、対象を変更しようと思うときは、それまで正しいと思われているその時点での「真理」を応用して、対象に働きかけざるを得ないし、それで何も不都合はありません。
 いいかえると、技術が【人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である】以外の形態をとることなどない、ということです。
 
 野球少年は、なんとかカーブを打つ技術を身につけようと、日々苦心をこらす。
 「ボールが曲がるから打てないなら、ようし、一つ変化する手前で打ってやろう」、と考えた少年は、前に体を泳がせながらも、ともかくもヒットにする技術を身につける。この身に付けたものが技能であり、身に付けたはずの、あるいはこれから身に付けるべき想定物が技術です。
 これが行為主体にとっての技術なのです。

 人は、その時点での本当らしい認識を持って、それを実行できるような工夫を頭の中で凝らし、現実に適用し、それが自分の意図にとって間違っていれば修正し、また「本当らしい認識」のほうも修正する。
 人間ていうのはそうやって生きていくものです。
 もちろん、技術は知識として体系化しうるし、それが便宜的=道具的に有用なので、体系化される一般的傾向性をもつだろうけど、当初の人間にとっては、それは「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用」なのだよ。

 ははは、影響力を失った? なんのこっちゃね。
 いや、もちろん、ある意味うそじゃないけどね。要するに、『武谷三男(以前このブログでも「科学の三段階論」の主張者として紹介しました)のような主体性論は社会で流行らなくなった』といいたいんだよね。

 実際、武谷が「その知識は、他者を含む社会の中で、行為の便宜性により、知識として体系化する傾向をもつ」と書かなかったのもイマイチかもしれないけどね。別に彼は哲学者という定義屋でもないから(物理学者です)。
 それはそれ。ともかくも当初の人間にとっては、技術は知識ではなく、真理の応用的適用の努力であり、その結果なのですね。これを誰かに伝えるばあい、あるいは伝えようという構えがある場合、これが「技術」と呼ばれます。

  ***
  
 さてと、ここで終われば話は簡単なのですが、なかなか世の中複雑です。
 
 技術は、今の世の中では、労働手段の体系と扱われることが多々あるからです。
 資本家は、自分の工場で労働させる手段を体系的に労働者に与えたい。
 かくて資本家は政府に「子供に技術を教える学校」の設立を求める。
 そこで政府も「工業技術学校」を作る。
 一方、生産手段を持たない人間は、資本家の工場に雇われたいので、なんとか「技術の体系」を身に付けようと工業技術学校に行く。

 さあどうだ、技術は労働手段の体系ではないか。
 
 「そうさ、だからどっちも正しいんだよ」 ですか?
 
 実は、言葉というのは正しいとか正しくないとかの問題じゃないんですね。さらには、物事の本質がどうという問題でもありません。
 人が、どのような立場に立って物事を見るか、言葉を投げかける相手とどう対峙するか、という問題です。

 ある客体的事象は、個人行為者にとってのみ意味があります。事象は、私にとって、あなたにとってどうなのかが人間にとって問われるべき問いなのです。
 行為主体にとって、外界はその属性によって(その対主体的機能やその対主体的行為内位置づけによって)把握されざるを得ないし、それが必要なのです。
 たとえば、金槌がないときに釘を打とうとする者にとって、道端の石は、その重さと堅さ、あるいは叩いても爆発しない、という、いずれにせよいくつかの属性によってのみ把握されるのであり、この石の生成からその場所に存在する歴史的経緯までについて全体的に把握する必要はない。
 それが主体性というものです。これが武谷三男が「主体性論者」といわれる理由です。

 そんなことをいっても、さっきの例の資本かも労働者も「主体的に」工業技術学校を欲しているではないか、という疑問が出るでしょうか(って無理やり出しているようですが)。

 さよですな。しかし、資本かも労働者も、なんらかの物体に技術しようと思っているわけではありません。技術というものを想定して、それを頭の中で動かしているだけです。
 つまり、技術が労働手段の体系である、という立場は、行為としては外界を見ているだけの立場なのです。

 資本家は、なんもわからん質の悪い労働者じゃ、雇っても使い物にならん。これは政府にいって工業学校を作ってもらわなければ、と思う。
 思うだけです。それはただの資本家の認識です。
 それからおもむろに、政府首脳のところへ出向き、技術を教える学校を作れという。

 あるいは、生産手段を持たない人間は、社会に向かったとき、そうか、技術を得なければとても食っていけないな、と考える。
 それは考えるに過ぎません。
 その認知をもって、しかたがないから工業学校へ入ろうとする。

 この考えるだけの立場、これが主体性を蝕む「客観主義」の立場です。
 
 「蝕むって? なに、その悪口のような言い方は?」
 
   はい、長くなりましたのでこの辺で。
   次回は主体性と客観主義の違いです。


(注)いってみれば、技術とは、その技術を作った者と、それを伝承される者がもつモノです。それを媒介するのが、学校で先生が話す、作った者が過去持ったそれより一段複雑化した「本当らしいこと」である技術に関わる知識。それは知識であって、技術は、自分で「習得する」ものです。そうでなければ、教師も生徒も苦労しませんね。

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普遍的政権への普遍的悪口

2011-06-04 22:52:56 | 歴史への視角
 こんばんは。まだ我慢の範囲内ですが、そろそろ暑くなりだして。
 さきほど帰って朝日新聞を読みましたところ、うっとおしいこの時節にさらにうっとおしく「菅がやめないのは仁義にもとる」とかの主張が。
 ってなんで?
 って、私に聞かないで。
 なんで、って理屈を、「読者Aたるこっちは疲れてるのに、ちゃんとわかるように書けよ」と思いながら新聞読んでもぜんぜん読み取れない。

 察するところ、読売や毎日には、きちんとした右翼ポリシーからやめろと書いてあるのに、朝日はそこが書けないんでしょうなあ。朝日の読者もバカにされたもんです。1面、2面、3面。記事が長いだけでなんの理屈もありません。
 よっぽど、上から物申されたんでしょうね。
 それを、(昔から朝日は一緒)茶坊主たちがさらに下に下ろして。
 滑稽千万。
 朝日の諸君には、他人の悪口をいうよりも、自分の姿を鏡に映せ、というしかないものです。

 (注:私が民主党も菅も支持していないのは、過去記事の通り。)
 
 こういう話題を皆様のためのものにするには、「マスコミの構造とは何か」、とかを述べるんでしょうが、マスコミなんざくだらない話なんですよ。酔狂な人は私は本に書いたからそちらをどうぞ。
 
 そうじゃなくて、一般論として、政権というのは、普通に動くと菅政権のようになるんですね。
 若い方は良く見ておいたほうがいい。なかなか現物は見られません。
 自民党政権のようなどこからカネが出てるかわからないとこだと、先に疑念が立って素直に理解できませんからね。

 (ここでの趣旨は、『やる気のある「主意的な」権力者が、やろうとしてやれないことと、やりたくないけどやらざるを得ない、ということがある、というか政府というのは経済界に買収されていなければそれしかない、、、ってどっちにしろ主意的には何もできない。今の政府はその見本市だ』ということです。ついでにいえば、悪口言うのはある程度まで、自由自在、勝手放題、「主意的」にできる、ということもあります。ますこみであれば、売れ行きに影響が出ないまでは、っていう制約ですね。
 で、このブログの( )は、既にお気づきの方もいらっしゃると思うとおり、1,2日あとの追加分です。それ過ぎりゃあきらめちゃいますから。
 というわけで、以上は、以下、分かりにくいことの解説でした。)
 
 ここで私が言う政権とは、革命後ソビエト政権や、革命後中共政権のことです。(といって、誤解があるなら、ドゴール政権やケネディ政権といってもいいけれど、後2者はさほど知りません)。
 それらがこの日本の政権ととても似ている、ということが分かるには、大学教授のように本読んで、理屈をこねようとしてもダメでして。現に、彼らにはわからないということが証明してますね。
 現実。
 私のような観念論者の、しかしとりえは、なにしろ現実を知っている、ということでして。
 

    昨晩は疲れでブログをただの酔言にしてしまったので、ちょっと役に立つようにしたところです。
    政権の普通の動きと革命政権、という認識は、そんじょそこらの政治主義者達にできるもんじゃあありませんぜ。だいたい、彼らは知識すらないし。 

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一人で作っただけのプラン

2011-05-22 22:14:58 | 歴史への視角
 こんばんは。土日連休時間をぎりぎりの休養で使用後、さて、最後はブログ作業でちょっと堅く過ごそうか、中身は途中まで昨日書いといたし、、と思ったら
 ああ、しょっく。消してしまった。ここの原稿。

 ここんとこデスパリットに生きてるもんだから。どうとでもなれで昨夜PCの電源をぷちっと消したとき、一緒に消えたもよう。

 いえ、テーマがわかれば再生可能なんですが、いったいなんのことだったのやら、、、大事なことでして、夢の中でも続きを考えていたのですが、、

、、、ひどいねえ、、、

  ああ、やっと思い出してきた。
  人は労働のような行為をするときに、労働ではなく、他人のことを考えた行為をしないと自分的に(権力状況の場合は相手の他人も)疎外状況に陥る、というテーマでね。
  
 国家官僚や、ワンマン社長や、いないけど「理想的な」政治家なんかが、「ああなればこうなるから、これは人にとってよいことだ」、と、何かプランをセットするじゃないですか。
 さてそれを遂行するのに、ただロボットのような人間ではその意図を理解していないので、結局いわれたことしか実現しない。有能なほど瞬時にその作業を終わらすが、じゃあ、それでよいかというとそうではない。たかだかのワンマン社長の一人の頭脳で何ができるものではない。結局、1人の人間による偏奇なプランでは、目的の「人」には混乱しか引き起こさないものだ。
 
 人が夢を見るようになって以来、すなわち一部の人間の労働が身体的要求水準から離れることができるようになって以来、人が考えるあるべき労働仕事というものは、そういうものではなくなった。
 人は労働を自分の力で「他人のために」構成する必要があり、かつ、皆がそうしなければそうでなければまともな結果は実現しない。
 
 日本のような共同体的な資本主義社会では、いままではそこそこにはこれを実現してきた。
 一方で、売らんがため。
 他方で、余裕のある会社に入った、食う必要もない若い世代諸君の感覚によって。
 労働仕事は「売れる商品」と「売り場」のありかたによって、ある程度「人間的な」という幻想をもてるところがある。あるいはあった。
  
 さて、これからどうなりますでしょう。
 
 これは、実は一般の人ではなく、社会主義者の諸君に向かって書いているものであります。
 官僚の計画など、すでに歴史段階としては人間の労働にはなんの関係もなくなったことが、先進資本主義によってバラされてしまったのだ。
 (だから社会主義はダメだ、などとは言っていない。それ相応に変質するといっている。結局、アナキストが述べたサンジカリズム(もっとも産別「個別」主義、みたいな形態かしら)にいくしかないのさ。)
 
   てな話でしたんですが、かいつまんだってこの長さ。
   そう、昨日の原稿はもっと長かったんだよね、、、
     反省するというか、そんなこといっても世の中が悪くちゃあしょうがねえなあ、と傲慢に総括するか、、、
  
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最後の一線を越えた政治家

2011-05-10 22:44:20 | 歴史への視角
 こんばんは。私の好きな朝日新聞夕刊人生相談の明石哲也さん(ごめん、明川さん)、今日は、「人間、頑張ろうじゃなくて、何をすれば頑張らずに成果を上げられるか考えてみよう(僕なんかぐうたらでどうしようもなかったけど、好きなことは頑張らなくともできる)」、みたいな話で、へえ、そうですか、そういってくださいますか、みたいな感じでした。
 私なんざぐうたらで頑張ろうにも何にもできなくて、もう自分で情けなくって話にならない。
 ほんとそう言ってくださると、ほっとしますよ。

 そんなことを言うと、はたから「てやんでえ」といわれる私のようなおじさんでさえそう思うのだから、若い人はもっとなんじゃないかな。
 いや立派な人だ。
  この人のネックは家庭生活だと密かに思うのだけれど、そんなことを思うことに何の意味もないほど立派な人だと思います。 絶賛。

 それはそれ、夜も(私には)遅いのに書いてしまう情け無い外界。
 民主国家なる政体において、政治家の最後の一線とは何か、
 国家権力のロボットになるか否か、ということですな。
 政治家は権力の行使者となることで、人民から離れた「権力者」となる。
 それは主観的には権力の輝かしき自主的行使者であり、歴史の中では、歴史に抗すことも忘れて果てた、要するに名前のない権力者そのAです。
 で、オバマです。

 「(ビンラディンを殺して)大量殺人の加害者に対する仕打ちに文句があるやつは頭を調べたほうがいい」などと言ったという盗人猛々しい話。
 それこそヒットラーでも東条英機でもそこらのヤクザである右翼も、ゴロツキ左翼も、およそ権力(ないし対抗権力)の手先のみが語る言葉だ。
 権力者が権力を行使してよい理由は、その人間の感情が法によって抑制されているからなのだ。感情で動いていいのは、赤ん坊だけだ。
  
 当然だろ、あほんだら。
 頭に来たら他人を殺していいのか。
 それでよければ殺人被害者家族が泣いて喜ぶぞ。 さすがじゃないか、オバマ。
 
 もうキミの使命は終わったんだよ。もともとキミの使命はといえば、「有色人種がUSA大統領になる」そのこと自体しかないんだから。
    勝手に死ね。
    (ではなくて、論理上、お前も殺されてもしょうがないのだ、先に列挙したクズどもと同様。)

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現実適合論の右翼性と、自称左翼性

2011-05-08 21:57:15 | 歴史への視角
 こんばんは。 暑くてこれからの思考作業が思いやられる今日この頃。
 あの、窓のあかない(最新式の)電車というのは、どんな人が設計したんでしょうねえ、、、この設計決定に反対しなかった部下A氏は、「今ごろ私が反対していれば」、と反省しているんでしょうか。(首謀者B氏は反省なんかしてませんな。世の中、そういうものです)
 (なにしろ首都圏の電車は、冷房ナシで)

 さてと、世の中、「現実がこうだから」、なんちゅう発言は、わこうどの敵ですな。 とゆうのは昔からそう決まったことで。


 こうした、現実への反応は、その形態と機能で次の3通りに分かれます。

1 今の現実は矛盾がある。人間としてこうすべきだ(=自称左翼系)

 みたいなのははっきり言って嫌い。
 なにいってんだ、そのあと何が起こるのか、わかってていってんのかよ。
 
 と思いますな。
 
 だいたい、言ってる活動者本人たちは現実がどうかなどわかってないのですが、これを教唆する人たちは何が起こるかは知っている、知っているけれど、『そんなことは俺らとは関係ない、「君たち」とか「彼ら」なりの処理すべきことだ。』 
 みたいなもんでさ。
 
 それはそれで教唆本人たち的には論理的なんですが、そこが一般庶民とは異なるところです。
 (論理的、という意味は、本筋を指し示せば、それに合わない現実を変えるのは現実を作って保持しようとする人間の責任だ、という倫理論ですね)
 
 一般庶民は、「われわれみんなが当面している」この現実をどう変えるか、どう変えてくれるか、というのが、当然に返ってくるように身構えているものです。
 私は一般庶民なのでよく分かる。  
 学生さんは、もういい年なのだから、そういうことを少し考えた始めたほうがよろしい。
 
 ま、そんなわけで

2 そんなこといっても無理じゃないか(他称右翼系)
  とゆう人たちが大部分で。
  
  そんな人たちも2通りに分かれる、というか2通りにしか分かれない。
  
 (1)無理な中で現実的にベターなこの方向でけりをつけよう。
    これが第1ですね。保守も革新もすべてこれ。
      といって、その答えを計算できるのは国家官僚だけだから、官僚の勝ち。
    
    誰が勝ってもいいけれど、同じ価値観の下では、保守も革新も答えは同じ、なのですよ。
       違うのは、汚職政治家だけ。
       バカと利口はいますけどね。
    昔、新左翼だとか、昔、過激派だとか(あえていえば両者若干違います。フロントも中核派も同じっていう最近のわこうどの反応はどうにかして欲しい気が)、そんなことは何の意味もない。今となっては同じ政治家。これを「保守」と呼ぼうが、「昔左翼」と呼ぼうが、誰にとってもなんの意義も無い。

 (2)で、無理だからこういう現実的政策をとることを容認するが、それにはこういう前提がある。これを絶対的に確保しなければならない。
 これが第2です。とりわけ、原発作業員の身の安全のことです。できやしないから誰も話題にしやしない。自称革新政治家はくだらん資本家のご機嫌取りよりも、一人の作業員の行く末の安全を確保しろ。
 
 
 以上で、何をいいたいかというと(以下順次、前述に沿って)
 
 1 原子力発電はダメだよ、と、いうはやすいか、たかいか知らないけれど、原子力発電を止めて困るのは全人民だよ、ということで
 子供達やカンパ暮らしの過激派がいうのは分かるけれど、ただわかんないのは共産党だよね。何を根拠に、と思うけれど、党員激減で現実遊離が身についたのもあるけれど、実はあんがい、自分たち分くらいなら消費生活ルートがあるんだよね。
 
 2 (1)でわれわれ国民が原子力発電なくして暮らせるか、って、話。
   暮らせるけど、4割失業で、質実剛健暮らしになるってことだね。もちろん、金持の財産は分配してのことだけどね。で、「それじゃ革命になっちゃうから、いうのはやめよう、われわれはこのまんまでは暮らせない」、と発言することには何の意味もない   
   じゃあ、といって、実際のところ、金持の財産の分配化方策を表明しているのは、私のブログで小林良彰を紹介したくらいで他の誰もいってはいない。
   (小林良彰さんは慶応大教授の小林じゃないよ。同志社の小林)
   
   (2)こうした状況では次の価値観を明らかにしておくしかない。つまり、人間の命です。
   個々の人間の命、これが最高価値だ、ということを前提として突き出していく、それなくして原子力を擁護するなら、それは1年前までの、崩壊前までの歴史をなぞることでしかない。
   「大震災? たかだか人口0.1パーミルが消えただけではないか。日本は存続する。それでなんの不都合か。」
   これが2の(1)の態度です。
   
   そうではない。いや、そうだっていいが、私にはそうではない。
   原子力で豊かになってよかったね。
   でさ、それで自由になったのかよ。
   
   人間には、どんな人間にも、次の一瞬先の将来がある。これを確保していくこと、この事実を思い出させるのが人間の行為であり、人間の運動というものです。
   
   でさ、嫌いだけど、原発作業員のことを思い出してテレビで一応話題にしたみのもんたを、今回、評価しております。聴衆に受けなかったようでやめちゃったけどね。
  
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「普遍的視点」の存在要件

2011-05-02 21:26:15 | 歴史への視角
 こんばんは。ひとさまとは違うんでしょうけど私は今日から4連休でとてもうれしい。
 お盆と正月に匹敵する、まさにゴールデンウィークで、って喜んでるわりに、なにするでもないんですけど。なんといっても、何かできる可能性はありますし。

 さて、きょうは、ビンラディンが殺されたって。
 いわく、「正義が遂行された」そうです。
 たく、バカどもが。毛唐がオバマが殺されてもおんなじこというんなら、評価しますけどね。
 人殺しが正義なら、誰が内ゲバを非難できるのか、って唐突ですが、要するに人間は経験を積むと類推が効いて賢くなるということですな。
 救われることに、9.11の日本人被害者の親が当惑して、「裁判で決着をつけるべきだ」みたいなことをおっしゃって。えらいですね。私ならとりあえず、「ざまあみろ、天罰だ」といってから「しかし、、、」と続けるところですが。
 
 さて、このたぐいのことは、うちの家人も言っていましたんで、みなさまにもおわかりのことでは、と、って、別にどなたさまをばかにしているわけではありませんが。
 
 本日のためになるブログ、ここで現れていることは、今日(こんにち)の都市化した日本人は普遍的に物事をみられるけれど、欧米のいなかもんとかヤクザとかは、孤立しているので普遍的には物事をみることができない、ということです。
 
 人が物事をみるのは、自分の将来の生活に関係がなければ、どれだけ「面白いか」、「賞賛と優越に関連しているか」ということだけです。どっちだってよければ、「さあ、お祭り騒ぎして憂さをはらそうぜ、さて、今日のニュースを聞いて、今回のその仕方は何かな」
 というわけです。
 
 「正義」なんて国家が賞賛するアイテムは、「国家」という絵に書いた価値を口にすればそれで済む、毛唐やヤクザに限ってしか、持ちはしない。
 普通の日本の社会人には、生きている隣人がいますからね。誰かが人を殺したっていえば、隣りの人間が殺されたと思う。「隣の人間が殺されてよかった、正義が勝った」、などといえるのは、キチガイだけですな。
 
 しかし、アメリカの広大な牧場や農場で、一日中お日様しか見ない人間やヤクザは、誰かが殺されたって当たり前だと思う、牛泥棒や、トウモロコシ泥棒や、シマ荒らしは、自分で殺さなきゃいけないですからね。「それは正義だ」。自分のことを悪く言うやつはとても少ない。
 
 かくて毛唐とヤクザは文明人が持つ普遍性を持つことがない。
 
 
   ただし、若い人たちが注意すべきなのは、こういうテーマは、ある種心理学でね、常に社会の表面現象に妥当するわけではない、ということ。
   社会科学のような、それ以前の問題が多すぎる科学の中では、例外的、局限的な問題ではあります。それ以前の問題とは、社会科学では、「自分の将来の生活に関係が」ある場合がほとんど全部だ、ということで。
   明日のメシに困ってりゃ、正義もへったくれもない、ということですね。
   
     でも、そろそろ、そんなことも、わざわざ中高年が若い衆にいわなくても分かりだす(不幸な?)時代になってまいりました。
   
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悪口の歴史的意義

2011-04-27 23:16:40 | 歴史への視角
 こんばんは、で昨日の二の句。
 すいませんが眠いもので簡単に。

 つまり、誰が口にしても、悪口なんて言うのは真理から見れば何の意味もない、ということで。
 悪口なんてイデオロギーですからね。宗教と一緒です。

 福島がなんだ、東京がどうだ、なんていうのは、現実を解釈する言葉に過ぎない。
 一方、現実というのは厳然として存在する。歴史の中で、歴史の構成素の総体として必然的に存在する。これは誰にも動かすことはできない。
 福島の現状も東京の現状も、けなそうがほめようが、そんな人間の評価にかかわらず、現実として存在する。

 だから私の悪口が黙ってしまうのも当然で、真理からすればどうでもいいことなんでね。
 
 ただ、そのことに関して語る言葉は無意味なのかといえばそうではない。
 言葉を語るのは人間であり、人間というのは常に将来に向けて(のみ)存在する。次の瞬間になにをしようか、と常に自問自答を続けていくのが人間(生物)です。
 人間はそれまでの現実の中から次の自分の現実に関する要素をかき集め構成し、次の自分の行為を成功たらしめようとする。
 その手段が、悪口のようなイデオロギーです。それは自分にとって正しい。しかし、状況の違う他人にとっては正しくない。それが悪口というものですね。

 イデオロギーは真理ではありません。それは常に他人に対する闘いの方策です。
 であるがゆえに、常に他人と共通の土俵を持ちます。
 
 戦闘にはイデオロギーは存在しません。「それがどうした」死ね。戦闘の中では「それがどうした」、という言葉で消されてしまう。
 しかし、日常の中ではイデオロギーは常に共通の価値を持つ。正しく言えば、賞賛と優越的自由を共有する。

 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。そんな親鸞の言葉がありますね。宗教などはせいぜいそういう(くだらない)ものです。
 いったい、世の中に善人も悪人もいるものか。
 多少の性格の違いと、生きる状況だけが違う人間達しかいやしない。そんな人間の間で、なにが差別があるものか。
 仏教もキリスト教も、規範宗教などというものはそうした人間の真理を否定するでくのぼうたちのお経です。
 しかし、宗教はイデオロギーではある。
「悪人なんか人間ではない」と主張するおめでたい地主達に対抗するには、人間はそういうものではない、と真理を言ったところで何の力にもならない。人間の将来を構成しない真理は、道端の石ころに等しい。
 人間の将来を構成する、したがって個人の賞賛と優越的自由に関連する言辞、それが宗教のバリエーションなのです。
 善人と悪人を対置させる。そのことで自称善人に、悪人の賞賛剥奪の感覚を思い知らせるのが、真理などではないイデオロギーの、しかし、真理を告げるのに匹敵する役割なのです。


 、、、という、まあ、歴史の見方ですね。
 
    では、目が眠いので。


(P.S. 2016.8.6の記事で、親鸞の評価を追加しました。一部ばかにしていることの訂正です。)
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理想について の2

2011-04-13 23:13:16 | 歴史への視角
こんばんは。今日は政府で雇用対策費1兆円の予算を組むとか。

 こういうときはフリードマンに、お墓を訪ねてインタビューしたいものです。
 あなたさまならどうするんですか? って。
 もちろん答えはわかっていて、
「君達みたいに短期的な成果を出そうとしてはいけない。結局それは君達の国を破壊するだけだ。じっと我慢して産業が回復するのを待ちなさい。」
「へえ、先生それはいかほど待つと」
「だからそれは状況次第だ。」
「だからそれは2ヶ月ほどですか?」
「キミはバカかね。もっとだ。」
「じゃあ、2年」
「バカと話す気にはならん」
   実は100年でさあ。
 
 わたしも若い時分、マルクス経済学者たちが近代経済学者の悪口をとりたてていわないのを不満に思っていたものですが、この10年くらいでやっとそこのところが分かりました。
 バカと話す気にはならん。

 さて、今日は水曜日。話題2分割の水曜日というのは、わたくしあさって引越し予定だからでして。引越しはよいのですが、行った先に光ケーブルがなく、契約換えで、ネット接続に1,2週間かかるとのこと。その間更新できず、その区切り更新、というわけで。
 
 引越し、と思って山のような荷物を整理しますと、すくなくとも私の荷物に限っては、使うものは、パソコンとシャツ、下着とスーツ、そして通勤バッグ、
 みたいなもんですな。あとはほとんど思い出用品だけ。
 私はサラリーマンの息子で知りませんが、純粋な農民の持ち物というのは、とてもシンプルなんでしょうね。
 思い出は自然の中にある、、、
 そうでもないんでしょうか、、、


 てなわけで、理想 その2。
 
 資本主義を生きる上では理想など出てはきませんが、人間、自分と社会を生きる中で必ず「理想」がでてくる。
 それは時代の中でいろいろとお化粧をして現れるわけですが、有名どころでは、フランスその他の三色旗ですね。
 自由、平等、友愛。なかなかよくできていると思います。
 なに、右翼なら右翼でもいいんで、右翼もヤクザでなければ必ず理想がある。
 こちとら理解不能なので例には取りませんが。
 
 そうした「なんでもよい」人間の理想は、実は現実の中で日々敗北にさらされている。
 「自由、平等、友愛」こんなブルジョワ民主価値でさえ、日々の勤労生活で貫徹させることはできない。
 
 理想は敗北する。
 敗北することがわからない人間は、ありもしない幻想を振りまくことで、被支配者の賞賛を取り去り、そのことで被支配者の力を拭い去り、その結果、支配者に加担するのみだ。
 「資本主義は自由社会だから、自由も平等も友愛も実現されているのだ」
 さすがにそんなバカは大学の経済学部にしかいないが、それに近い人間は会社の社長にはいる。
 自由や平等を思う人間は、首にされたり給料を減らされたりしないため、じっと我慢の子だ。
 
 しかし、現実とはいつもいつもそんな絶望的なものかと思えばそうではない。
 
 人間が実現しようとするマグマのような理想は、地表の割れ目につけ込み、いつか必ず姿を明らかにする。
 理想は、集団的な賞賛体系の力を得、
 命知らずには命をすてる力を。
 家族持ちには、最後的な決起を。
 しらけた人々にはそうした状況の容認を結果させる。
 それが革命です。
 革命は理想が起こすのではなく、状況が地表を薄くする過程の結果ではあるが、そのマグマの根源は理想と呼ばれる表現の基体なのです。
 
 ところで、残念ながら話はそのまま終わらない。
 マグマの噴出は、その経済的システムの取り繕いでふさがれる。
 後に残るものは、いつまでも自由と平等を把握せんとする人間の、屍です。
 
 世界とはそういうものです。
 
 理想は敗北しつづけるが、いつか勝利の原動力となる。
 が、その勝利は長くは続かず、一段上の階梯で、また敗北を続けていく。
 が、それはあくまで一段上ではある。
 
    ま、若い人への訓示ですね。


コメント
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