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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

理想について の1

2011-04-10 22:01:39 | 歴史への視角
 こんばんは。今日は自粛もせずに井の頭公園に花見、しようと思いましたが、自粛しない人々のあまりの多さにすごすご帰りました。
 ここ10年ほど井の頭公園の花見には行ってなかったですが、この先10年、また行かなそうです。花見は石神井公園がいい(だろう)。これが今日のためになる情報。

 さて、ためにならない今日の情報は、理想について、その1
 その1、っていうのは、ちょっとづつ、っていう意味で。

 で、「理想」とはなんぞや。
「人が心に描き求め続ける、それ以上望むところのない完全なもの。そうあってほしいと思う最高の状態」
yahoo辞書によると、こうだそうで。

 も一つ、西欧語だと同じ単語が「理念」
「ある物事についての、こうあるべきだという根本の考え」
大辞泉   てね。

両者 どう違うかって、「理想」は人が望むもの、しかして行為の原理原則の適用範囲、すなわち、世の賞賛が通行するわけですね。
一方、「理念」は、というと、ただの意志しかない。(人民)百万人といえども我いかん。個人の勝手な妄想ですな。
西欧人というのは西欧国家に居住する人民の、その上流階級のことですから、単純素朴な国家人、キリスト教人。彼らには自我なんかありません。国家のロボットなので、両者の間に矛盾はないのです。

さて日本の話。
去年の11月に、民主党が
「民主党は武器輸出三原則で、すべての国への武器輸出を『原則禁止 』としていた1976年の三木内閣の見解を見直し、輸出禁止対象国を限定する案をまとめた
(gooのasahi.comニュース)
わけですな。

自民党が古いって、「古い」という言葉を使うというのは、日本人が共通に思うだろうという観念からすれば古いだろう、というわけですね。要するに理想が古い。ただし、古いけれど、あった。

さて、民主党はというと寄せ集めで理想なんかバンラバラ、さすがに政権当座は理想のヌシ、鳩山をおみこしして、新しいんだよ、みたいな顔をしてましたが、党でおみこししたのは新しさだけ。もう鳩山さんも忘れ去られまして、さて残ったのが、上記のごとき本音。
『資本主義理念』
というわけで。
恥知らずな話でさあ。

資本主義には理想はない。なんせ競争社会ですから。人々が共通して持ち上げて運び得る「理念」などは、「頑張って生きる」ことだけ。 そして人々が共通に望み得る『理想』などは、武力権力が持ち出す国家主義しかない。
 自民党は古いだけ共同体社会の美しき理想を持っていた、というわけで。

だからなんじゃね、って、そこは、その1だから。
後はこんど水曜日に。ちょっと個人的な事情がありまして、小出しに。

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自衛人民軍の原則

2011-02-13 14:34:29 | 歴史への視角
 こんにちは。いよいよ東京地方も春近く、雪の舞う日がでてまいりました。一昨夜は帰宅途上、雪化粧。雪の香りと風の冷たさが心地よく。たまのことなのでいいですねえ、早く融けてさえくれれば、ですが。

 さて、本日は唐突な題なので、まず前置き:
 〈こちらはアナーキストのページです。題を見て自衛隊や国家軍のことと思っていらした方がおられましても、その筋の方は読者対象としておりませんし歓迎もいたしておりませんのでご注意ください〉
 
 話は、最近、日本海軍大将が講釈した印刷物を読んでのこと。
 そんな人間いたっけ、って海上自衛隊海上幕僚長の話ですが、知らない人多いですかね。総理大臣の次に偉い兵隊ですが。ほんと、「呼び名」っていうのもイデオロギーですね。大中小(将)とかだと赤んぼにもわかる(ので(序列誇示的で)わたし的にはよくない)けど。

 さて、これがまあ、一種キチガイ。
 「日本国家の代表はすべからく国家のために仕事を一生懸命しなければいけない。」だって。 当たり前?
 で、総理大臣が自宅に帰るなどもってのほか、だそうな。国軍の最高司令官なのだから、常に他国との戦いのうちにあると思っていなければならないそうな。
 確かに司令官が夏休みにハワイで遊んでたら強い軍隊にはならないんでしょうが、そんな物差しで他人も見られちゃたまらないぜ。
 何しろ、おじさん、軍指令で一生生きてきた人間だから。自分がやりゃあ他人にも押し付けたがる、っていうのが人間の本性だけれど、権力者にそんなこと考えられてたら、やることは庶民に権力を振るって国家殉死を押し付けてくることだからね。アブナくってたまんないぜ。
 なるほど「文官統制」っていうのはそういう趣旨なんだな、と思ったところ。菅がいかに頼りなくとも、千倍もマシって感じ。

 ここはまだ前置き。で、過渡期社会の常備軍について。
 アナーキストが「軍」の話は変だけど、「軍隊はだめだがレジスタンス運動はいい」なんて議論は(昔、社会党が言っていた)、アナーキストにとっては結局おんなじなんだよね。結局、「他国」なる存在と、地元共同体の「戦争」の話だからね。「レジスタンス」でもなんでも、戦う「軍」に変わりはない。レジスタンスにアナーキスティックな正当性があるのなら、自衛人民軍にも正当性はあるの。
 まあ、現代日本の話なら「資本主義国家の軍は資本家の軍だ」、とかそういうレベルの話に落ちはするけど。

 で、これはこんな日々から、理想に一歩近づいた社会の話。
 そんな百年後の話を、って、レーニンでも毛沢東(中国共産党)でも、革命の時には現実に追い越されていくんだよね。あわてふためいて理論外のことをやるから(やるしかないから)泥沼化する。
 なんでもはじめに考えとかないとさ。一方、私としましても、これは応用理論にも書く気はなくて。

 さて、過渡期に国家が残存すると認める限り、自衛人民軍(レジスタンス軍でもいいさ)も認めるということなのね。しょうがないね、自衛隊はその頃がいつでも、絶対まだ存在してるよ。変革後の大事な時期に、「自衛隊解体」なんかありえないの。しかして、「人民軍」化というわけです。
 
 武力権力者が「国家」のためと思っている限り、過渡期国家は消滅などしません。いつまでも国家権力で人民を押さえつけてくる。隙を見れば、全般的権力社会の復活です。
 なので、
 人民軍は、まず第1に、「人民」のために日夜働かなければならない。基本ですね。「国家」のためなんかじゃダメですね。
 さて第2に、日夜といったが、この人民は、亡霊であってはならない。具体的な妻であり子であり友人でなければならない。お題目に仕えるようになったら、いくらでも庶民に敵対するようになります。理屈なんざ自由自在だからね。そこらの現代左翼の歴史の「革命軍」とやらをみればわかりますね。そのための行為論的現実の確保として、そんなに一生懸命に通常勤務してはならない。
 はじめから戦力なんざ抑止力だからね。実力さえあれば遊んでていい。
 「スクランブルに遊びがあるか」、って、給料分は働けよ (働く分は給料くれる、って逆だけど)。まだ過渡期だからね(共産主義社会ではない)。どうせ本当の戦争になれば、国内戦闘だから誰だって遊んでられないし。
 そんなんでいいのか、って、いいの。今だって、あれらや彼ら(お好きな名前を)が総理大臣(日本軍総司令官)なんだから。

 さて、そこで問題が、はじめに述べたような指揮官層です。資本家と労働者のように、佐官以上の指揮官てやつは兵士を将棋の駒に扱ってなんぼと思っている。ここがレジスタンス軍との違いなのですが、かといって、職業軍人ナシでは近代軍はもたない。
 国家ではなく、人民のための軍組織には、かくて、どこかで防衛大学の原理改革が必要となる。 はじめの幕僚長の言にある、国家官僚の自衛官意識化ではなく、逆に軍官僚の国家官僚化を企てないといけない。
 さらに、指揮官については、兵士階級を5階層くらいに分けて、2ランク階層下の兵士による選挙結果の就業職とする。将軍の選定は、尉官の選挙に基づく、といった発想でね。すぐ下の階層が選ぶと、利害関係で選ぶから。

 さて、こんなところで、って、以上は展開が規則立ってない、ってことは穴だらけ、ってことで。まあ、本題の一番の趣旨は、アナーキストも軍隊ってやつをわきまえていないと足元をすくわれる、ということであります。
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江戸時代とは

2011-01-22 21:37:07 | 歴史への視角
 こんばんは。
 悪口のあとは、早速の更新。って、また悪口かも。

 ここんとこ、自分的に日本人民史を振り返ってましたが、その発端が、これ。
 田中圭一、百姓の江戸時代、筑摩書房、2000.
 ひどいもんですた。
 なにがひどいって、見出し小見出し。江戸時代、百姓生活はバラ色、地域政治を操縦して人生を謳歌していた、としか判断できない見出しをつけた筑摩の新書本。筑摩っていうのも再建会社なのでこうゆうのが(反闘争者イデオロギーが)好きなんでしょうね。。
 いや、中身もそんなもんなら「ばーか」ですみますが、本文の中身はさすがに曲りなりに学者だった人間だからそこまでひどくはないという、それって著者的にはかえってひどいインチキさ。なんでそんな見出しを許すのか、って編集者に代わりに書いてもらったって気持ちでしょうね。
 田中という男、そんなひとかどの評論家ってやつが憧れなんでしょうなあ。
 だいたい、歴史で(ある地域を例証にしただけで)日本一般やら江戸時代一般を語ること自体、初歩的すぎる誤りですね。主要に新潟を褒めて百姓をバラ色化しているが、日本のどんな地域でも新田開発で田んぼ面積が8倍になったわけじゃないぜ。(新田は百姓の基金的存在なので、新田開発をすると豊かになります。新潟は江戸期200年で藩面積当たり8倍。新潟が米どころというのはごく最近のことなんですね)。本人、秩父の調査をしているのですが、そこでの事実は徴税問題にはおくびにも出さない。まあ、新潟県でもいいや。江戸最後期、1837年、柏崎で百姓は幸せに暮らしていたとでもいうのか。
 タコが。だいたい、80年代に筑波大学の文系教授をしていた人間というのは、まず疑ったほうがいい。
 いえ、本日は酔言ではないので悪口はやめて。
 それで、この本を読んで頭にきて、まともな本を見直しながら次へ次へと進んだら、日本古代史までいってしまいました。古代史っていうのは弥生以前史のことですが。誰だかが日本の中世は奈良、平安といっていましたが、正しいですね。まあ、それはそれ。
 
 みなさんもこの手の江戸時代バラ色本を見るなら、一緒に津田秀夫(70年代に筑波大学に移らなかった、文系東京教育大学教授)とか、せめて田中が悪口を言う共産党系の易しい本でも読む必要があります。
 たとえば
 加藤文三他著、日本歴史〈上〉、新日本出版社、1965、1978。
 どこが違うかといえば、一揆の存在を認めるかどうか、ということです。
 田中は、一揆など制度化された選挙のようなものだ、と思っているし、昭和までの(普通の)日本史学は、一揆を普遍的な変動要素と思っている。
 そして田中や同様な見方からは、我々の社会を変える契機を自己の理論から引き出すことはできない。し、だいたいそんな気はありはしない。
 普選下の戦後市民でさえ街頭デモさえせんというのに、江戸時代、誰が選挙のつもりで死を覚悟して整然たる要請行動を行うというのか。
 
 「同様の見方」っていうのは、ネット検索すると一緒に出てくる
 佐藤常雄(やはりその頃筑波大学教授)他、貧農史観を見直す、講談社、1995.
なんかですが。
 ま、こちらはまだマシ。これも網野善彦などの論が市民権を持ってから出てきたもので、私なんか、そーら、いつの時代も虎の威を盗むようなやつがいる、と、苦々しい思いがしたものですが、見出しを含めて別にウソを書いているわけではなかった記憶はあります(15年前の記憶ですが)。ネット情報では、田中の本とこんがらがってる人もいるので、情報を使うときは各自確認してください。
 まあ、いずれにしてもこれもイデオロギー本に近いものでして(歴史本は事象の取捨選択でいくらでも可能)。その辺が80年代筑波大であり、佐藤のアドバイザーの大石慎三郎(「新しい歴史教科書」作者。昔から論文の欠陥を指摘しても黙ってしまう人間だったようだ)というものです。

 ま、ここはためになるブログ、そのうえ今日は「断片」ではありません。なので、本日の教訓。
 
 さて、江戸時代。これは戦乱から生活が平穏になり、商品経済が(また)発達をはじめ、順調に時代の中で資本主義に向かって進展を続けていった時代です。私的におおまかにいえば、江戸当初前期の混乱期60年、中期発展期140年、後期爛熟期50年、末期腐敗期30年、てとこでしょうか。
 最後になればなるほど生産力の高まりで人民に自由が出てくるのは当然です。生産力が高まるということ自体、商業、工業、運輸従事者の増大を意味し、そのこと自体、そこでの食料等の物資の存在(=余剰農業生産力)とそこへ移れる人民の自由と、そこへ移れることで手に出来る行為の自由を意味しているわけです。その一方、生産共同体の2極分解と、江戸末期の(戦国時代に取り上げられた)富者による共同体権力の武力化の再発生も意味することにもなります。
 さらに他方には、そんな下層人民を専有武力によって将棋の駒とする武士・貴族階級がいる。
 ということは、下層人民内下層者は、飢饉があればとばっちりを食い、戦争があればとばっちりを食う、ということです。戦争で一旗あげようとした下層内下層人民はいますけどね。
 
 これは最低限の認識で当たり前すぎることなのですが、それこそほとんどの人は知らないか、知りたくないかのどちらかなんですね。知らないのはいいけれど、右も左も知りたくないというのがほんと不思議。
 
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過程的勝利

2011-01-15 21:45:26 | 歴史への視角
 こんばんは。お寒うございます。旭川はずんと寒いですか? 今朝のNHKニュースで、零下10度はかたそうな運動場で、子供達が雪上カルタ取りなるものをしていましたが。想像外の状況ですね。

 さて、昨今のタイガーマスク。
 わたくしなどふやけすぎたのか、現金寄付では高級ランドセルは買えないから、ランドセルがよいかと思ってましたが、今日の夕刊では、養護施設の子供達が鉛筆やノートセットに感激している写真が。
 おい、そんな、予算が低水準なのかよ。

 いやもちろん、子供達は、あしながおじさんのように「私に私が使う何かをくれた人がいる」ことがうれしいのだとは思いますが、うちの子がその状況で鉛筆1本で喜んだとは思いがたい。合格鉛筆は別として。
 タイガーマスク、よいことをしました。朝日新聞数百万の読者で、昔パパだった人の1%、高齢者1万人は今ごろはお金を払いたくてうずうずしてるんじゃないかな。都道府県も金を出すでしょうし。
 ってそんな大変な額じゃないぜ。一体、福祉局、福祉部はなにをやっているんだ。
 あと、親のような人材もね。
 とゆう、これは前段。ただの感想。
 
 さて、昔々あるところに、組織から臨時雇用労働者の待遇改善闘争をサポートするよう指示された人間がいると思ってください。
 何年も何年も闘ってもいっこうに勝ち目の見られぬ闘争。そのうち自分の組織はないも同然の分裂状態(注)。
 しかし、彼は闘うのをやめようとはしない。
 個別闘争は他のセクトとも利害の不一致を、仲違いを生みます。彼の闘争もご多分にもれず。他セクトにも睨まれながら、勝利する当てもない闘争。
 敵にも味方であるはずの人々からもそしられけなされ。しかし、個別闘争は他の個別闘争と手を組み、彼は以前のセクトとではなく、闘争する人々の内部で生きていきます。そして闘い続けて35年。

 お疲れさまです。ブル新に認められるとは。(今日付の新聞じゃないですが)
 すくなくとも彼と彼の同志が鼻つまみものの極少数派でなくなったこと、および、今では彼は時代の主流の結節点的労働思想の表現者たるに至ったこと、について、他人事ですが、やったね、という思いを持ちます。
 
 そ、HN君のことで。みなさんの嫌いな。
 わたしはといえば、昔から是々非々だった自分が好きになりましたよ。 
 いまでも、本工集団のお祭り騒ぎしか闘ったことのない相対的多数派セクトがケチつけてますけどね、昔と同様。
 闘争とはそういうものではないってことですね。
 そういうものではない。教条や動員で動くやつなど、鉄砲玉以上の意味はない。生きている人間を、どうやって動かしていくのか、その中で自分がどう生きていくのか、ということが大切なのであり、その、はたから見れば愚かな闘争が、お祭り騒ぎの根底を支えるのだ。
 
 
 注:この部分は、私というマルキスト組織が嫌いな人間の想像で、わたしゃその頃からマルキストの情報なんて知りたくもなかったから現実とは違うかもね。違おうがどうだろうが、私は、よかった、いじめられっこの勝利だ、と思うんですね。資本家への勝利ではなく、人生への勝利。それが一番大事です。
 闘ったことのないやつは、資本家に勝利せんでなんだ、とかいうかもしれませんけどね。
 そういうやつは人生を生きていませんな。
 
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年末に近い挨拶

2010-12-26 21:28:37 | 歴史への視角
 こんばんは。なんて寒いこと。おや、今日はクリスマス当日ではないですか。違うって? 確かに違った。
 いずれ、年中行事とかお祭り、宗教的記念日なんちゅうのはどれだけ遊び(=という行為)を人間の記憶に埋め込められるかという勝負ですからね、勝負じゃないけど。教会に行かなきゃシンプルに、メリークリスマス「イーブ」!というのが正しいやね 
 ともかくクリスチャンでもないし、こんな寒い日ということで、仕事のない山谷等の方とその支援者の方のこと(の寒さ)が思われます。でも、仕事がないからではない普通のホームレスの方も忘れないように。(=極左は労働者でないと無視する(ことが多い))

 ここんとこ、って、この2週だけですがちょっとスランプで。
 さて、今日のためになるブログは、って心を動かされないことには何も書かない私。さっき書いたお祭りの必須条件(=行為の基礎がなくなるとすべておじゃん)て、まだ誰も言ってないことでしょ? 生理的条件以外は人間にとっては遊びなのさ。そんな楽しい遊びに制約を加えるのが宗教。ま、スリルがあったほうが面白いともいえる。お化け屋敷みたいなもんだね。

 ま、そんな話もくだらないんで、今日の心は神奈川県報の松沢某(知事)の発言かなあ。新聞等も、年末年始はとくにいいかげんだよね。何も感じない。
 さてこの松沢という人はわたしんとこの県知事ですが、実態は知りませんで、県知事というといつも前の県知事、社会党構造改革派活動分子の長洲一二のつもりで受け取っています。どうせたいして違いやしない。
 で、その新年号初心演説が、まあ、明るい話で、これそのまんまなら誰も苦労せんなって、その明るさに感動しました。そんなもんじゃないすか、どこの自治体長も。
 私が感動するってことは他の庶民の方々もそう思うはずだって、それがいつも私が心がける庶民感受性の効用ですね。

 ま、それはともかく。
 なにが問題かというと、私のような庶民が、こういう明るい話を当たり前のように受け止めるというところが、で。ほら、この辺が効用ですね。いくら自称左翼でも、現実の歴史的な現がを認識できなければしょうがない。ところで私は、普通の教条左翼なら単なる権力者のプロパガンダと認識するところを、時代的な流れと受け止められる。だって自分がそう思うんだから。
 かたや寒くて新年を凍死して迎えようという人がいる折に、かたや明るい新年を語っている。しかもいやしくも社会党ブレーン長洲一二ともあろうものが。ほんとはただの自民党はぐれ者松沢某だけれど。おんなじだって。若い人に教えておくけど、この「おんなじ」っていうのは理屈じゃないの。人格が伴った現実なのね。
 
 なまじな地方権力者は、権力者といっても武力がないから、自分ができないことばかりなので明るいの。自分はできるだけのことをしてるのさ、って、まあ、100パーでも90パーでもないけど、そこそこしてるのさ。都合の悪いことは国に任せてるだけでね。
 この自信ある明るさ。地方議員もおんなじだしね。なに、議員ばかりじゃない、庶民の方たちも絶対そうだと思うんだよね。私たちゃ関係ないぜ。地域活動してるし。ECO活動してるし。NPO、オッケー。ポイントは、人間、不満だけじゃ運動は作れない、ってことね。「私は一生懸命してる」と規定してしまえば、生きられる人間は明るい。で、今の日本はそんな境遇の人が多い(悪くない)世の中だ、と。
 かくて地方は明るく、政府民主党は果てしなく暗い。
 
 次週は来年? 25+7は32。32-1は1。(26だって)
 暗いまんま来年を迎えそうですね。その暗さもせめてもの庶民の持つべき義理というものですね。
 
 
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牽強付会

2010-12-23 21:18:43 | 歴史への視角
 こんばんは(=なんてあいさつがコピー漏れでした) 
 ぜんぜん更新予定ではありませんでしたが、朝日新聞に新美南吉の悪口が出てたんで、これは黙っていられないと。
 松井彰彦さんという東大近代経済学教授の話で、新美南吉の名作(傑作ではありませんが)『手袋を買いに』は、商品経済の公正性を描いたものだ、などと。新美が聞いたら歯を立てた唇から血を流して悔しがるような。
 そんなやつのことを「さん」とは、というのも、いちおう、善良につこうとする彼の態度への礼儀というべきな。
 『手袋を買いに』はウィキペディアで引けるからみてやってくんなまし。
 
 新美はここで、キツネも通常の社会に入れてやる、戦前にはほとんどなかった人間的公正さを描いただけなののですが、それを松井は市場とはそういうものだ、とおっしゃる。
 資本主義はたしかにそういうもので、農奴的労働者が、死ぬのも自由勝手に飢え死にできる幸せな労働者となる様は、マルクス以後150年間、社会科学者なら誰もが指摘してきたことです。労働者は金さえあれば自由のはずです。
 しかし、新美の生きた戦前の日本はそうではなかった。『手袋を買いに』は、大正・昭和初期の日本自由主義の中で、かたやいくつもの差別を見つつ(それは身分的なそればかりではなく地主達の強金的差別でもあったはずだ)、かたやそれに闘いつつある(主義者ではなくて単に善良な)人々を眺めながら、作っていった作品であるはずです(=小作人-キツネを人と思わぬ庄屋や、キツネを助けるかのごとき奇麗ごとを言う自由主義者、そしてどちらにもいる悪人と善人、てなもんですね)。キツネに対す優位者(=手袋屋)の「一般的交渉基準(=人を「同じ」人として扱う基準)」は金取引ではなく、ただの贈与でもよかったし(=せきをする子ギツネに薬をただであげる薬屋でも同じです。ただ、時代的なリアリズムが出ないだけで)、おためごかしの貸与でもよかったのだ。もっとも、共同体外の「他人」に対しては、物々交換以外はいやだろうけどね。
 それがなに。資本主義は本来、金を持つキツネに対するがごとく公正だ、と。まったく今どきのガキは。そんなことも善良な童話にかこつけてしかいえないのか。宇沢弘文はそんな(馬鹿げた)ことはいわなかったぞ、って格が違いすぎるが。資本主義がそんなに公正なら、なんで世の中、不幸な人間が山のようにいるのだ。彼は現実に何も答えてはいないではないか。
 昔、私が苅谷剛彦に憤ったことは知ってる方は知ってることですが、いくら善良でも、社会の評判を得たいとなればいくらでも反人間的言辞を弄することができるのですよ。
 しかし、新美が被害に遭うとはびっくりしました。 
 
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誤訳の席巻

2010-11-13 21:52:23 | 歴史への視角
 こんばんは。気候もよく、勤務仕事もそんな大変でなく、にもかかわらず、あんまよくないお日和で。いや、それでは贅沢も度を過ぎますでしょうか。

【前段】
 さて、唐突ですが、一人の労働者には、労働者である自分と、市民である自分というものがいるそうです。
 「もっと仕事減らしてくれなきゃ体が持たない。人を増員してくれ」と言ってる労働者A、あるいはそう思うけど口には出せずひたすらがんばっている労働者Aと
 「なに、日航? 飛行機高すぎ。パイロットも客室乗務員も整理当然」といっている市民である自分Aですな。

 こうゆう分裂が労働者的に問題なのだ、という話が昔から評論家的にあって、ま、分裂は現象であってそんなものが問題なわけじゃないけど、分裂がなければそれは組合運動的にやりやすいのは確かなのです。
 分裂していない労働者というのは、「小市民」部分のない労働者のことです。
 「小市民」とは、市民である自営業・資本家業に対して、雇用労働者なのだけれど、ヒマな時間とカネがある人間のことです。小市民でないというのは、一日、通勤時間もなく朝から晩まで働いて、付き合う社会は地域的職業労働者の間のみ、というところですね。数十年前の資本主義諸国の労働者にはたくさんいたところです。たとえば日本炭鉱労働者。こうしたところの労働者の本体(本隊)は、ほんとに鉄鎖と地域的共感、それに少々の寝具・衣服しか持っていない。 
 こういう労働者は、資本家に屈従するか、資本家と戦うかのどちらかしかないし、その他の選択肢がない中で闘えば、闘争は労働評論家が満足するものとなる。「万国の労働者よ、団結せよ!」と言われれば、よしがんばるぞ、みたいなことにもなる。それはシンプルで分かりやすいが、先進資本主義国ではそうはならない。そのことを分裂と呼ばれても、個人としては進展なのだ。問題は「分裂」なる現象ではなくて、その基盤の社会進行の変え方なのだ、って話で、まだ続いていくんですけどね。これは実は前段。もともと長い話だし。
 応用理論作成中ですが、先達が言いたい放題の序論ばかりで放りなげた仕事が無秩序に散乱してるんで困ります。
 で、今日はこれは本題ではありません。下記【本題】の調べに、3時間以上使ったので、毒食わば、で文にしとこうというわけです。 
 

【本題】  
 で、上記の分裂していない労働者とは、「共産党宣言」にある「鉄鎖しか持たない」労働者だ、と書こうとして、ちょっと参考にウィキペディアを見てみると
 
「プロレタリアはこの革命において鉄鎖のほかに失う何ものをも持たない。彼らが獲得するものは世界である。万国の労働者、団結せよ」、、、

 、、、あ~~ん??
 なんだよ、「この革命において」って??
 
 単に、「労働者は鉄鎖のほかに失うものは何もない」でしょ!
(「共産党宣言」大内兵衛・向坂逸郎監修(相原茂ほか訳)『マルクス・エンゲルス選集5:共産党宣言』新潮社。(と思われる。なにしろ他の訳がネットに上がってなくて)
www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no73/06isamber.pdf )

 そういえば、学生のみぎりの出来事を思い出しました。
 頃は1973年、その頃は日本共産党といえば有名なものでしたが、その党の方針で、マルクス・エンゲルスの出版物の訳語を変えたのです。大月書店版、てやつ。
 ずっと以前ここでも話題にしましたが、「プロレタリア独裁」は響きが悪くて一般人が引くから、「プロレタリアートの執権」へ(もうすでに、その訳語さえ党綱領から外した)。それと同じく、テレビも住居も持っている一般人向けに、共産党宣言訳に「この革命によって」を書き入れたのでした。といって新旧絶版のようですので、証拠があるわけではありません。その頃、左翼の間で嘲笑の話題になったできごと、ということです。なにしろ、ちょっと前に長嶋選手が『社会主義になると野球ができなくなる』と心配した時代。その後宮本顕治共産党書記長が長嶋と対談してそんなことはありませんと否定してた気さえします。

 ま、この組織はそんなものなんでそこまではいいんですが、ネットで調べているうちに某、相対的に大きな新左翼過激派までこの訳を広めていることが分かったのでびっくりぎょうてん。はあ、政治屋の大衆路線というのはそういうものなのか、みたいなもんで。おかしいね、昔、一緒に嘲笑したでしょ? まあ、今はそんな人は引退したんでしょうね。
 とにかく今ではネット業界はこの訳ばかりです。呆れたったら。
 
 原文は下記。
 
”Mogen die herrschenden Klassen vor einer kommunistischen Revolution zittern. Die Proletarier haben nichts in ihr zu verlieren als ihre Ketten. Sie haben eine Welt zu gewinnen.”
(ウムラウトなし)

USAのウィキペディアによると
"Let the ruling classes tremble at a Communist revolution. The proletarians have nothing to lose but their chains. They have a world to win."

 まあ、ドイツ語原文に"in ihr"というのがあって、これが「彼女(彼ら)の中に」という意味で、「彼女(彼ら)」が"einer kommunistischen Revolution"か"Die Proletarier"で訳が違う、ということなんでしょ。私のドイツ語は独学なんで、いまいちですが。

 英訳では、きれいさっぱり落としております。
 じゃあ、落としたら悪いかっていうとそうではなく、この英訳は、エンゲルス監修の英訳と同じですから(私は日本語訳は今は持ってないけど、英語訳は持っている)、どうでもいいマルクスの口癖を消しただけ、というのが普通。だいたい、一つのセンテンス内で同じ代名詞を違う対象に使ってごらんなさい。語学教師から罵倒されますよ(ihre Kettenのihreは、流行の訳でもDie Proletarier。それとも、共産党革命なり某セクト革命には鉄鎖が必須とでもいうのかしら)。

 『そんな文法論議が問題なのではない、実質はこの訳でいいではないか。労働者はこの革命において失うものがないだろう』、という話が出ますかね、
 それを嘲笑の題材にしたんですよ、40年前。
 労働者が「この革命」で失うものがあろうがなかろうがどうでもいい、問題は、革命の手前の、「この蜂起的運動」(=革命ではなく、革命運動)へ参加することで失うものがあるか、なんですよ。この党宣言のテーマは、資本家を革命に慄ませるべき蜂起運動へのアジテーションの話なのですよ。わかりますか? そのために、『万国の労働者よ、団結せよ!』なのです。
 
 わかんないやね、平和な若い人には。
 
 「共産党宣言」は全ての国において、論文ではなく、運動のアジテーターの役割(組織化、オルグの武器)を果たしてきたんですよ。
 きみ、そこの、きみ、世界はこうなんだ、さあ、一緒に運動しよう。親が? 妻が? 家が? カネが? (政府・支配者の弾圧で私の人生の未来の全てが消える) 何を言ってるんだい。無産階級が失う何を持っているというんだい? そうだ、そのきみの鎖を解き放ちたまえ!
 それはマルクスの時代からそうだった。マルクスだって「この革命」が今日来るなんて思ってたわけではない。まずは、この蜂起に(革命「運動」に)人を動員することが問題だったのだ。それは日本の60年でも70年でもそうだったし、日本共産党のその頃の幹部たちもそうやって偉くなってきたのだ。
 のに、なんだって? 運動をすっとばして、「この革命」って、そんなもんいつ来るんだよ?
 そう、関係者は分かるように、「この革命」は、選挙票の大多数的獲得によって明日来る。つらい革命運動に人をだまくらかして誘う必要などない。そう仮定すべき議会主義によってのみ必要な言葉なのです。先に述べた事情はその頃の共産党幹部は百も承知、知っててウソをつくから嘲笑したわけです。補訳したいんだったら、「革命『運動』において」、だよ。
 
 もういいや、くだんない。大衆主義は結構ですけどね、そのぶん、偉そうなことを言わなければね。
 
   、、、それにしても、知識の行方って、いったい
   
   
   (なお、注。エンゲルスが監修していない議会主義者が翻訳したフランス語版は怪しい)
 
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アナキストの必須要素とやら

2010-10-09 21:17:46 | 歴史への視角
 こんばんは。今年はやけに金木犀が匂います。いつもよりヒマ、というのもありますかねえ、それだけじゃないと思いますが。しかも匂うのが早くないですか? 東京地方では年来、10日が中日だと自信を持っていうところですが。

 さて、趣旨不明なお客様数が相変わらないところ、じゃあ、と、も一つ真面目に。
 行きつけの図書館に高祖岩三郎という人の「新しいアナキズムの系譜学」(河出書房新社 2009)という本があったので、ま、仲間内意識で借りて読みました。(前からあったのですが、立ち読みで中身を勘案するに、わざわざ読むには忙しくて。何度も言うようですが今はちょっとヒマ)
 聞いたような名前の割に(高野岩三郎という労働運動家がいる)まったく知らない人ではありますが、その始めの一節
「昔も今もアナキズムは、国家権力の奪取/統制を段階的にであっても認めない」とかって、なんじゃそりゃ。
 困ったものだ、55年生まれ。
 それじゃ美術評論家ではいられても無政府主義者にはなれませんぜ。
 だいたい、私でさえ読みたくないような美辞麗句で埋まったご本、こんな売れなそうなのよく出せたな河出新社、と思って検索したらあらびっくり、高祖氏の名前で3万件近くヒット。
 いつから人民はそんな高尚になったのだ、と思ったけど、思想のご商売の方は日本にたくさんいるのね。
 考えてみればニューアカの人たち(ニュー・アカデミズム。新しいアカの党派ではありません。20年位前流行った文化至上主義者の人たちのことをいいます) もこの国のどこかで中堅分子で残っているんだよね。

 ま、そうした人民に関係ない本とはいえ、この言葉のまんまじゃ無政府主義も夢や幻の物語だからなんか付言しとかないと、ってわけで。
 古いアナーキズムはそんなことは言わなかったよ。
 ダニエル・ゲラン「現代のアナキズム」 江口幹訳(三一書房 1967).
 こんな「現代」は当時の中学生にはなかったのかねえ、当時の高校生にはあったよ。
 
 今現在、国家なくして1年後も生きられる日本人民なんて1割もいやしないぜ。国家強制装置が消え1年もあれば、資本家の言うことを聞かない労働者は続出し、これを阻止すべく資本家は傭兵をやとう、こうなっては諸契約はないも同然、商活動は停止、国家の後ろ盾がない円は無価値、預金もパー。さて、わずかの権力者と傭兵をやとった富裕農民くらいは生きていけるか、というところ。

 そんなほんとのことをいうお前は無政府主義者じゃないのか、って。
 そりゃ無責任主義者じゃないさ。
 人間の現実がそうなら現実を生きるしかないじゃないか。
 
 国家の廃絶というものは、先進資本主義社会の継続社会にあっては、複雑化した産業生産について経済の諸調整を執り行う機関を国家の替わりに設置するしかないのだ、ということを認識しないで済む無政府主義者がまだおったのかよ、てなもんさ。アナーキストの伝統的な用語に沿っていえば、集合的な連合機関において各生産は(初期の時代には、交換手段(≒マネー)さえも)統制(がいやなら意思的にコントロール、、、ばかばかしい。統制さ。)せざるをえないのだ。そんな機関、50年でできたら奇跡だぜ。全ての宗教を信じちゃうよ。
 
 こんなシンプルなことさえ考えないで済むなんて、なんて幸せな人間たちか。
 何主義者を名乗ろうが、好きだろうが嫌いだろうが、現実を見ないですめばなんだって「できる」といえるさ。そしてそんな生き方はアッパラパーの幸せな軍国主義者と同一のレベルの生だ。

 いやね、冒頭のその手の言い方もあっていいし、そう言いたい人たちもアナーキストであっていいし、美術評論も好きでやっていいのだけれど、それ以外「認めない」なんていうのは傲慢というより笑っちゃうよ、という話で。いつまでも批評家さん。
 いやさ、そういう私のような理論家も気軽ではあるんだけどね。大変なのは、現実に今動いている人。そういうい人は嘘と知っていることでもとにかく口に出さない限り運動にならない(って、スターリニストっぽい仕業だけどね。世の中ってそういうものだから)。私もそれを知っているから、その手の言い方もあっていい、といっているわけで。
 最大限、「昔も今もアナキズムは、国家権力の奪取/統制を段階的にであっても『許さない』」とかいうのが社会に対して、あるいは人民に対して、責任ある態度だね。
 私たちは国家など許しはしないがしょうがない。この夜が明けたら明日が来る、なんて話は子供たちの世界だけだって。大人というのはこの世の先はまた闇、しかし300年先の明日を見ることができる。
 人民はそうやって生きていくしかないんだよ。


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権力を使える人民へ

2010-09-19 22:40:37 | 歴史への視角
 こんばんは。
 まるでお盆の暑さですね。この夏、夕涼みにスイカを食べる、なんて気の利いた気温じゃなかったですが、今日は暑さはそれとして、スイカなんてもう売ってないのが残念。

 ここんとこどうも体力の低下が。会社でも若いもんは遊びでもばたばたして気持ちがいい。あんなに動いてよく疲れないな、って。まあ私なんか、仕事が忙しくないと体を使いませんで、困ったもんさ。ま、それでも動くだけいいけど。
 
 で、体力の低下のため、手短に。
 朝日新聞によると、尖閣列島問題で、中国当局は、若いもんのコントロール逸脱癖を恐れて、ひたすら世論の押さえに回っているそうな。
 さすがに、権力操作のプロだね。
 
 ためになるブログ。本日は、「思想の如何に関わらず、政治に手を染め得たグループは、またその出自に関わらず、対抗権力となる第1段階をクリアする」こと。
 
 たとえば、賭場の上がりで食ってただけのヤクザったって、明治維新後の幕府勢力その他による地方擾乱に際し、明治政府の手先として、「士分」として取り立てられ、何部隊もの兵隊勢力となったわけです。そういう人たちが、戦闘方法を忘れた正規武士の替わりに、戦闘の先頭に立ったわけで。
 とはいえ、どこでも鉄砲玉は戦さが終われば不要になる。
 幾ばくかの一時金で追っ払われた元ヤクザの「武士」は、今度は自由民権運動の担い手として自由党の戦闘分子となる。(注)
 ここでは、思想ではなく、「思想を根拠に生きる」手立てを教わった、ということです。
 
 世の中というのはそういうもの。
 ブルジョワ民主主義というのもそういうものです。
 民衆に必要なのは、権力に刃向かえる、という立ち位置なのですね。
 その経験であり、そこに立つものの(思想という)力の支持の遣り方、そこで培った人脈、そこで培った各種の賞賛の入手法、そして新しい階級の入手と得た賞賛の使用による次の世代の育成。などなど。
 
 権力に縁のない人民は、まずは、時の政府に近寄って、寄りかかって、権力の使い方を知る。
 それが対抗権力の手早い入手方法なのです。
   それだけじゃだめだけど。
   
   なんていうことを次の本に書くもんで(今回は基礎理論。次回は応用理論)。中国人もお読みなさい。
   今の本もまだできておりませんが。まだるっこしいことは嫌いさ。
   
     こんな大事なことを、世間に明らかよいかって。
     近視眼なことをいいなさんな。知識は万人に益する。
     で、万人が向く方向は、常に人間の自由の成就です。


(注)長谷川昇、博徒と自由民権 ― 名古屋事件始末記、中央公論新社、1977.



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普遍的個人倫理:アナーキズム

2010-08-29 21:11:13 | 歴史への視角
 こんばんは。今日は休みのうえ、冷房もいれたので、昼頃頭痛が消えました。
 なので、昨日の言いかけの続き。
 アナーキズムは、ヒューマニズムなどという、たかだかの「思想」ではない、という話で。

 どこが違うか、って、ヒューマニズムのごとき思想は、何々をしてはいけない、と他人に言うところに存在意義があるのです。あるいは、自分がこうやるからお前ら官憲は止めるなよ、と権力にいうわけですね。要するに、他人に言う、「思想」なのです。
 ま、その辺は、歴史的思想史でも勉強なさっていただいて。
 
 さて、しかし、アナキズムとは、他人に言う思想ではない。
 アナキズムとは、「する」倫理なのです。あるいは「しない」倫理でもありますが。
 俺はこれをする、したいからする。あるいはこれはしない。断固しない。いずれにせよ、全ては個人の決断のもとにある。
 他人がどうだろうが構いはしない。全ては自分の思いにある。

 だいたい、他人に、○○をしてはいけない、などという必要はない。する必要がなければ誰もしないんだから。
 にもかかわらず、たとえば他人は「俺たちは戦争をするぞ」とアナキストに宣告してくる。
 なんで、お前はそんなことを私に言うのだ?
 ぶんなぐっちゃうぞ。
 しかし、相手が国家ではこちらが拷問死するだけだ。
  
 ここで、する必要がないのにする、ということは、彼がそういう『状況にある』ということだ。
 従って、アナキズムの倫理は社会変革の必要を口にするのです。
 それは社会道徳ではない、究極の個人倫理です。
 
 さてそんな世の中はいつ来るか。見果てぬ個人倫理は、かくして、50年や100年の被支配者的不遇にぐだぐだいう、そんな立場とは無縁です。実現するのは遥か遥か遥か遠い話。
 けれど、自分の生きている時代の過程的目標というのは自然と出てくるものです。
 それは、人間としての「役割」ではありません。
 単に、私の方針。私だけの方針。
 それに不満のある者は、勝手気まま、融通無碍のマルクス主義者にでもなればよい。
 
   不思議なもんでしょう、規範のあるほうが融通無碍(ゆうずうむげ)だなんて。
   かたや、人間、自分からは逃げられませんからね。
   
   
 なお、酔っ払っているので(うそつけ、と親しい人はいうでしょうが)つけたりですが、なのでアナーキズムには性善説が根本にあるといわれます。
 性善説である必要はないけれど、根本的に悪いやつというのがいたとしたら、それへの対応は、殺し合いになっちゃいますやね、(なんてシンプルに話したアナ―キストは歴史上はじめてじゃないかね)。なので「嘘が県民性だよ」、みたいに誇らしげに言う人々は大嫌い。このブログでO地域への悪口が載るはそういうわけです。私がけなしているのはそういう自己表現法。
 親しい人はご存知のように、生まれたときからO地域のNk氏のように立派な人もいらっしゃいます。そんなことは知っています。
   しかし、なら、そういう自己表現は止めろよな。
 
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普遍的社会道徳:ヒューマニズム

2010-08-28 22:15:43 | 歴史への視角
 こんばんは、お暑うございます。
 暑いのには私は徹底的に弱く、すでに頭痛の時期に入りました。今年は担当換えでひまな仕事になりましたので(って内緒)、この頭痛は暑さストレス以外なし。

 ここんとこ酔っ払い話が続きましたので、今日は少し真面目に。
 なにしろちょっと科学構築のサンプルに、行く末を見ようと思った菅政権が更に一層弱体化しようとしていて。新聞はくっだらねえ論議ばかり。茶々の入れようもない。
 小沢のバカ。2年経ったら可哀想だから応援してやろうと思ったのに、もうしねえよ。
   って、別に民主党に選挙票入れたこともありませんが。
  
  
 さて、現代日本的無宗教世の中、左右見渡しても普遍的な価値というものがありませんで。
 左が消えたのはそれとして、右も酔っ払いやら、アルコール18禁の諸君らが、道徳を守ってしらふでバカこいている時代。
 
 普遍的な価値なんて世の中にあるのか。
 って、1週間前の朝日新聞に載ってました。
   そういう資本主義者の危機は、よいチャンスなんですけどね。
   
 さて、価値は他称個人のものだけれども、「普遍的な価値を主張する」という行為は社会のものなので、これはシンプルに存在するのです。
 いわく「ヒューマニズム」です。
 「人間にとって」~~○○という一般論です。

 これは普遍的に権力に刃向かうときの命題で、マルクス以前の神学的な時代からそうでしたし、社会科学においてさえ、マルクスの時代からは、「人間にとって」という設定があったわけです。
 もちろん、あったにもかかわらず、資本主義的爛熟期においては、論題は否定されます。「類としての人間」論のレッテル張りですね。もちろんレッテルを貼られるほうも後進国ドイツ相応な主張の仕方ではあったのですが。
 
 しかし、本来『人間として』の価値的立場は、支配・被支配を否定しうる平等性を前提として、その中で、支配者、被支配者共通の規範を求めようという立場から出されたものです。それは誰からも本来否定できない。
 もともとは貴族的差別社会体制に刃向かうために人民が出してきた価値であり、確かにそれはブルジョワ市民的なものではあります。従って一般に、ブルジョワ的尾ひれ背びれがついており、被支配人民はそんな話には乗らない。
 仮に、口車に乗った人民に対しては、ブルジョワジーは、冷酷な現状認識から、「ばかいってんじゃねえよ。そこの労働者、お前。お前だって俺と同様悪いやつだろ。同僚を裏切っててめえだけ会社に残ったじゃねえか」
 みたいなブルジョワ倫理の攻勢をかけます。
   てめえの反省だけしてろよ、と思いますが。
   
 などという現実にもかかわらず、そのブルジョワ的視点は、平等の規範との接合点にあるのであって、人間は人間というこの一般化自体に誤りが内在しているわけではありません。
 これを否定したがるということ事態、人間にも救いがある、良心があるということですね。

 いずれにしてもヒューマニズムは、それを奉ずる人間の良心を攻撃すること以外では、否定できない。
 社会の道徳として、ヒューマニズムは普遍的な価値をもつのです。
 
 
 もちろんアナーキズムは、そんな蓮っ葉な社会の道徳ではない。
 それは、、、、めんどい。
 
 今日は頭が痛くて。また別に。
 そういえば昔書いた「次の話題」のテーマ「旬」は決して忘れてはしません。
    が、義理堅いけど、義理遂行の社会的非待望性も体感しているわたし。
    

 と、一部ためになる正気の話を書いたところで、酔言。
 朝日新聞の読者様には、今日の土曜特集には丸善社長の小城武彦というのが出てまして。どこの会社でも話は一緒なのですが、ちょっと関係してると感情が入りますよね。
 きれいごとばっかり言いやがって。
 この手の感動的社長話は、すべて、どうやって社員をやめさせるか、残ったやつを働かせるか、というだけのことで(それをどうやって綺麗事に見せるか)、40歳以上のサラリーマンは分かってることと思いますが、老人、女子供や、社員も30代までは、読んで喜んだりする。年寄りその他には他人事のうえ、40までは体力余ってますからな。目標さえあれば飼葉桶ですな。
 かどうか知りませんが、朝日で特集が続いてんだから喜んでるやつがいるわけでしょう。
 ベエ~~~ロ。

   不愉快じゃなあ、、、。頭痛いし。
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団塊のスターリニスト

2010-07-22 22:09:01 | 歴史への視角
 こんばんは。大事なことが朝日夕刊に出ていましたのでシンプルに。

 朝日夕刊によりますと、なんだか昔「木村つゑ」さんというただの市井の人がいまして、
 日の丸はなんで赤い,私の息子の血で赤い,という旨を、歌ったそうです。
 息子さんが戦死してしまって、その後、老齢になってこのような趣旨の言葉を呟くようになったとのこと。
 たいした歌ではないので、趣旨だけ書きますが。

たいした歌でない、なんて書くとスターリニスト=事大主義者、(偉いやつが何か言うと考えもせずそれに追随して、
  追随するだけならまだしも、他人まで偉そうな顔をして非難する。
  偉そうな顔をするだけでなく、それに反抗すると、偉いやつの権力を一身に背負って
  武器を持って襲い掛かってくるやつら。
  どうです、なかなかこんな定義を下せた人間はいませんぜ。
  しかし、これが本質的定義です。
  本人たち以外はみんな納得するでしょう。反スターリニズム? 笑っちゃうぜ。それはお前ら
  のことだ、とまでは誰でもいえますけどね。
  いや、そんなことは関係なく。元に戻って、)

 たいした歌でない、なんて書くとスターリニスト=事大主義者は、「何をバカな。お前には命の歌が聞こえないのか」とか言われそうですが、馬鹿か、お前。
 命の歌は命の歌。木村つゑという人が、命を削りながら歌った歌というから取り上げてんじゃねえか。
 それと歌とは違う。
 字にすべき歌なら、字で感動を語るのが歌人だ、歌人はそのために命を削っているんだ。
 それとこれとはどっちが価値が高いという問題じゃない。ぜんぜん、違うものなのだ。
 「おら、すきだ」という表現が芸術なのか。あるいは芸術である必要があるのか。事大主義者め。人間の言葉以上に世の中に価値のあるものがあるのか。


 というのは、おいて、、それで、「スターリニスト」です。
 このおばあさんの歌について、「吉田司」(1945年生まれ)とかいう人は、
「アジアの犠牲者2千万人の血で赤いとも読み解くべきではないか」
とのたまったとのこと。
 ざきゃあがって。
 
 2千万だっていわないから大切なんだよ。たった一人の息子だから大切なんだよ。2千万人なんて誰と誰と誰で、誰と誰と誰と、2千万人、誰が苦しんだのを見てお前は言ってるんだよ。
 この吉田とかいう大嘘つきは、そうやって口からでまかせで今まで暮らしてきたんだよな。
 なにが大事だ、何が可哀想だ、お前は過去一度でも本当に自分の心で何かをおこなったことがあるのか。ありはしまい。みんな「こういやあ受けるだろう、俺ア、反体制だぜ」、ふうてん太鼓だ。
 この腐れ切ったスターリニストめ。

 というのがアナーキストです。
 いかに私が国家を容認しているように見えようと、国家忌避なんぞは結果に過ぎない。アナーキストというのは、実際に自分が生きて、他人が生きる、それだけを大事にする主義者です。
 2千万人だあ?? そんなやつに限って、20人を犠牲にして自分が生き残るもんだ。団塊世代なんて9割はそんなやつだ。


   という文章は、断片(=酔題)カテゴリーにしか見えませんが、実は私の人生で2番目に重要な情報です。
   若い方はよく検討されますよう。
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国家はカネより法

2010-07-17 22:28:52 | 歴史への視角
 こんばんは。東京地方、明日からいよいよ夏です。予報33度。
 子供の頃、夏休み中の温度をつけてグラフにしたものですが、最高32.X度だったですけどね。これでプールとか行く年代だとまだよろしいですが。

 さて、先週は選挙でしたかしら。よく覚えていない。菅が消費税10%って喚いてしぼんで落ちたことがありましたよね。
 だから「市民派」なんてやつは嫌いさ。市民とはブルジョワなり、というシンプルな格言を(格言じゃないか)皆さま良く噛みしめるべきです。労働者は自分のことを「市民」なんて言う必要ないからね。「市民」とわざわざいうのは金持ばかり。
 月10万円の支出(うち消費税5千円)が、突然月5千円アップする(うち消費税1万円)つらさなんかわかりゃしないさ。家計が赤字だって、手取り16万の生活には貯金なんてないんだぞ。(私もそれ以下はよくわからない)
 (なお、差引6万円は、東京郊外の1Kのアパート代。アパート代にはとりあえず消費税はつかないけど、1年遅れで家主が3千円(5%)更新要求してくるさ。家主だって消費して生きてるからね)

 そんなことは本題ではなく、菅も、今回は国家のカネの小ささを思い知っただろうね、ということで。
 
 国家のカネなんざ、不労働人民の生活費を除いたら、必須10兆、20兆しかないのさ。土木事業や贅沢教育費と防衛費しかでやしない。かたやGNP500兆。カネで経済の建て直しなんかできんて(はみ出した不幸の手当てはできる)。もともと国家のカネというのは土木事業費と防衛費なのだよ。他に金を出すやつがいないからね。

 国家はカネじゃない。国家の大きさというものは、法律なのだよね。
 菅も権力のしるしにカネ政策なんぞ欲しがらないで、歴史に残る法制度を作ったらいいのさ。どうせ4,5年で終わりなんだし、それで満足だろうに。
 ということに、今回、彼も気づいたと思うんだよね。もともと国家の再編成をやりたかったやつだから、ちょっと危険。である一方、今の日本国家で何ならできんのかな、ちょっと興味。


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かなしい歌うたい

2010-06-06 21:00:46 | 歴史への視角
 こんばんは。今日は気候もよくゆっくり休んで幸せな一日。せっかくの気候のよい日に、ただ単に休める、というのが贅沢ということで。

 なのに朝日新聞1面記載のエリート会社の宣伝は ”今日は休刊日、だからあなたも休肝日” のたぐいの余計なお世話。
 すげえ傲慢さ。エリート会社でなにも苦労したことないんだね。開高健が泣くぜ。山口瞳でもいいけど。
 なんで朝日の休刊日に休肝日を合わせなきゃいけないんだよ。こちとら、忙しいんだ。

 でも今日のブログもネタ元は朝日新聞で、前登志夫という歌人の話。(別にネタなんてどこでもいいんだけどね。わたしゃ一般の人だから、社会とはメディアでしかつながってないの)
 
 で、この、前という人が言うに
 「この世に間違って生まれてきた人間なんてないんだよ」
 
 う~~ん、、、
 そりゃそうなんだけどさ。
 そうだし、それを新聞に紹介した喜多という歌人もいいんだけどさ。
 
 みなさま、そう思うかいね。

 先の立言は正しいんだけど、わたしゃ心が狭いんで、そんなふうには思えないね。
 どうみたって生まれついて不幸のまま死んでいった人がある。
 あるいは、どうみたって早く死んじまえ、と思わざるを得ない人がいる。

 この辺だと誰でもそれなりに思い当たる普遍的な感情じゃないかね。
 さらに私は一層偏屈のうえ、破格に給料の安い派遣社員さんたちと暮らしているんで、仕事が派遣社員さん以下の高給取りには、お前、なんか仕事間違えてないかい? と思ってしまうんだよね。
 人にはいわないけどね、それ、あたりまえじゃん? わたしゃ普通の人間で社会なんかここしかないんだからさ。より一生懸命な人間が破格に給料安いなんておかしいよね。
 
 てなことは、もちろん口には出さない。だって、みんな足りない能力でがんばってるんだからさ。能力がないのに派遣社員の優秀な能力と比べるほうが悪いってことは、わたしゃ左翼だから知ってるんだよね。
 
 とゆうふうに、現実というのは理想をしゃべってもつじつまが合わなくなるものなのです。
 
 で、なんだよ、現実って、って。それはこの世が資本主義社会だから、という以外の特性が考えるなら、教えてもらいましょうか。
 答えがでないなら、あなたが左翼でないことが間違い。
 前という人も吉野の林業資本家の息子のようだけれど、誰であれ、正しいことを告げるのはよいことだ。けれども、正しいことを言えば、彼の責任が終わるというわけではない。
 
 「この世に間違って生まれてきた人間なんてないんだよ」 
 つまり、「そう思うなら歌なんて歌ってていいのかよ。人が不幸のまんま死んじまったのは間違いでなければなんなんだね」、ということですね。
 
 でもそれでいいんですよ、本人が自覚している限り。どうも前という人はある程度まではそれを自覚していたようです。
 なぜだよおかしいじゃないかよ、って。まあわかるけど、こうゆうことは本当に生きていってみないとわからない。とくに、程度問題のその程度になるとね。   
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他国へ介入できる範囲

2010-03-28 11:16:35 | 歴史への視角
 こんにちは
 金曜日は1年ぶりくらいで、飲む人たちと飲み会。なかなか表現が微妙ですが、飲まない人たちとか嗜む人たちとか飲みすぎる人たちなんかだと遅くならないのですが、10年ぶりらいに最終電車に乗ってしまいました。(いつもは最終1本前に乗れるように帰る)
 年度末なんでしょうか、すし詰め。こんなだったっけ。乗れない人はどうなるんだろう、って、自分も最終出発が10分遅れなかったらそうなったのですが。ま、世の中そんなもんですよね。(どんなもんだ)
 

 さて、今日の朝日新聞書評は、サマンサ・パワーとか言う人の「集団人間破壊の時代」とか言うほんの話があって。久保文明とかいう東大教授。
 久保が言うには、〈アメリカ国家やアメリカ市民が、各国(各地)のジェノサイドを止められたのに止めなかった、これが問題だ〉、という本だそうです。(〈 〉は分かりやすくしただけで、引用ではありません。いやなら、そういう誤解が与えられるような書き方はするな、ということでもあります。誰が新聞を引用符で読むか。)
 
 なんちゅうか、まあ。
 これじゃブッシュとどこが違うのか。久保は、ぜんぜんわかっていない。
 (サマンサという人は、いい人なんでしょうが)
 悪いことをしてたら介入せよ、ってことなら、アメリカの非人道的諸制度にも日本は介入しなくてはならないな。どうせ言っても聞きやしないからカミカゼ精神で自衛隊機にワシントンに特攻させなければならない。
 それでよいのか。

 じゃあ、悪いことをほっておいていいと言うのか、って、悪いこと一般なんてないのだよ。世間は、歴史的にしか動かないのだ。
 江戸中期、いくら女郎制度を解体しても、それは女郎を飢え死にさせるだけだ。
 食うものもなく争闘している部族を止めるのは、ごく一部の狂気の若者を殺す以外に、その後10年間食料が手に入る環境を与えなければならない。アメリカがそれをするというのか。
 しかし、一方、他国家が介入できる悪もある。
 それは経済問題に関わらない、武力権力の行使に由来する国家自体の施策だ。
 「支配暴力の」悪は、一人一人の民衆には関わらない。民衆は環境の変化に沿って自分の生活を変えるのみだ。彼らは今までどおりに不自由ではあるが、今までどおりには自由である。 
 統一された国家で生ずる国家の施策上のジェノサイドに限っては、これを国家や他国の民衆が止めようと努力することができる。ユダヤ人虐殺のような。
 女郎制度は解体すれば悲惨が生ずるが、江戸各藩の農民収奪支配体制を江戸中央幕府が変え、その後、女衒を伝馬町に送って女郎を農村に返せば、女郎制度は解体される。
 
 アメリカの政治家はいざ知らず、天国日本の評論家はそのくらいの違いをわきまえて伝えていかなければならない。あ、教授だからアホでもよいのか。(と、書いてから、もしかして人の良い人で失礼かも知れぬ、と久保という人を検索しましたら、ただの解説者のもよう。東大教授でただの解説者(の立場を崩さない)という見識はなかなかなものです)
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