リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

一人で作っただけのプラン

2011-05-22 22:14:58 | 歴史への視角
 こんばんは。土日連休時間をぎりぎりの休養で使用後、さて、最後はブログ作業でちょっと堅く過ごそうか、中身は途中まで昨日書いといたし、、と思ったら
 ああ、しょっく。消してしまった。ここの原稿。

 ここんとこデスパリットに生きてるもんだから。どうとでもなれで昨夜PCの電源をぷちっと消したとき、一緒に消えたもよう。

 いえ、テーマがわかれば再生可能なんですが、いったいなんのことだったのやら、、、大事なことでして、夢の中でも続きを考えていたのですが、、

、、、ひどいねえ、、、

  ああ、やっと思い出してきた。
  人は労働のような行為をするときに、労働ではなく、他人のことを考えた行為をしないと自分的に(権力状況の場合は相手の他人も)疎外状況に陥る、というテーマでね。
  
 国家官僚や、ワンマン社長や、いないけど「理想的な」政治家なんかが、「ああなればこうなるから、これは人にとってよいことだ」、と、何かプランをセットするじゃないですか。
 さてそれを遂行するのに、ただロボットのような人間ではその意図を理解していないので、結局いわれたことしか実現しない。有能なほど瞬時にその作業を終わらすが、じゃあ、それでよいかというとそうではない。たかだかのワンマン社長の一人の頭脳で何ができるものではない。結局、1人の人間による偏奇なプランでは、目的の「人」には混乱しか引き起こさないものだ。
 
 人が夢を見るようになって以来、すなわち一部の人間の労働が身体的要求水準から離れることができるようになって以来、人が考えるあるべき労働仕事というものは、そういうものではなくなった。
 人は労働を自分の力で「他人のために」構成する必要があり、かつ、皆がそうしなければそうでなければまともな結果は実現しない。
 
 日本のような共同体的な資本主義社会では、いままではそこそこにはこれを実現してきた。
 一方で、売らんがため。
 他方で、余裕のある会社に入った、食う必要もない若い世代諸君の感覚によって。
 労働仕事は「売れる商品」と「売り場」のありかたによって、ある程度「人間的な」という幻想をもてるところがある。あるいはあった。
  
 さて、これからどうなりますでしょう。
 
 これは、実は一般の人ではなく、社会主義者の諸君に向かって書いているものであります。
 官僚の計画など、すでに歴史段階としては人間の労働にはなんの関係もなくなったことが、先進資本主義によってバラされてしまったのだ。
 (だから社会主義はダメだ、などとは言っていない。それ相応に変質するといっている。結局、アナキストが述べたサンジカリズム(もっとも産別「個別」主義、みたいな形態かしら)にいくしかないのさ。)
 
   てな話でしたんですが、かいつまんだってこの長さ。
   そう、昨日の原稿はもっと長かったんだよね、、、
     反省するというか、そんなこといっても世の中が悪くちゃあしょうがねえなあ、と傲慢に総括するか、、、
  
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