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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「動かしているのは俺たちさ」

2013-08-04 18:03:44 | 歴史への視角
 こんばんは。お暑つうございます。って東京地方、それほどでもないんだけど。
 なんとか30度くらいで真夏の日にちを稼ぎたいものです。早く9月にならないかなあ、、、
 今日は土日休みですが、次の(3)連休っていつだろうとカレンダーを見るのですが、あると思った連休がない、えー、そうだっけ、、海の日とかってあんじゃないの、、、
 休みの日に次の休みを調べんのもなんだな。もしやと体温を測ると案の定1度ほど上昇中。暑さ当たりだな。ほんと中高年なんちゅうもんは幼児化するんじゃ。
 
 まあ、どうでもいいですが、要するに世の中どうでもよく。
 パソコンのウイルス状況排除に悪戦しているうちに(ウイルスバスター、どうも怪しい)、選挙とかってあったようで。ま、私も行きはしましたが。
 ま、結果も興味なし。
 私のような唯物史観者は、だから人民史観だから、人民のいいかげんさを見せつけられていやなもんさ。
 ちょっと注釈すると、前も言ったように、アベノミクスとかって要するに国庫金消費の需要創出ね、だれだってやればできるキリギリスの「好況」。キリギリスだろうがなんだろうが、人民はそれが勝利するように民主選挙を按配する。それは資本家が投票しているわけじゃないからね。
 自民党の勝利は決して自民党のせいじゃないわな。投票した人民のせいさ。それが唯物史観というものです。
 つまんねえやつらさ。
 とゆうのも、麻生のナチス発言と一緒で、正しいだけの舌禍だけどね。
 
 先に別なことを言っとくと、前も言ったように、このように自民党もバカじゃないからね、静かに9条のみ改正でいきますぜ。このブログの読者なら「9条だけならいい」なんて思わんでしょうね、もちろん。軍事を経済に組み込んだら口先ばかりはある自由も終わりだからね。
 
 で、元に戻って、こちらの舌禍。
 人民なんてしょうがねえやつらだ、なんて選挙運動や党派新聞で言ったら舌禍さ。あたりまえ。麻生というのはとことんバカと見える。
 「ちょっと待てい。俺は自民党に投票などしていないぞ」、って、俺だってしちゃいないさ。
 問題は、実は、現代日本のような『資本主義の爛熟というのは、下層共同体の分裂を指す』、ってことなんだがね。
 おお、いっぺんに難しい。
 
 発達した資本主義の中の人間は自由だけどね、資本主義での人が自由に生きられるというありがたい構造が、実は個人の利害という下部構造に足元をすくわれるのですな。
 そこでは、利害によって、下層の共同体が分裂するのであり、それがまた、マルクスの単なる外形的洞察のとおり、一方で資本主義の安定と一方で資本主義転覆という下部構造を育てるわけ。
 すなわち、資本主義転覆のイデオロギー的力は、マルクスの洞察の理屈づけとは異なり、自分以上の支配階級のない資本家という安定的上層の賞賛を夢見る下層階級と、下層階級内での賞賛を是とする階級との戦いの結果なのだ。
 夢見るおめでたい下層階級は、あるときに、それが夢であることをばらされる。その一瞬こそがブルジョワジーの最後のときなのだ。
 いいかえれば、それまでは上層階級は安楽椅子でふんぞり返っていられるということではあるが。

 これは現実そのまんま。はっきりいっただけ。なんの頭脳的苦労も要りゃしない。
 ただ、こうしてはっきりいえる地点に達するのに、少しばかり苦労がいるんだけどね。
 
 (専門的な注:今言及したのはイデオロギー場面のみ。下部構造自体は別に進展します)
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パンドラの函

2013-05-05 09:28:00 | 歴史への視角
 こんにちは、連休勤務の方、ごくろうさまです。
 
 さてここんとこ改憲論議がかしましいようで。
 しかも9条ではなく96条なんだと。ほんと政治家は小者ぞろいで。左翼セクトと一緒ですね。
 なんでも自分の思いで動くようにしとかないと、何もできない。オモチャ遊びごっこですな。

 ほんとうは右翼的には、「庶民」や、したり顔の是々非々たちと大同団結して、「憲法は大事だ、実態と合わない憲法ではいけない。ともかく9条を実態と合わせましょう」とかいって9条を穏便に変えちまえばいいんです。マスコミだって反対なぞしやしない。「それでいいのか」なんて下向いて呟いて終わりさ。
 それで民主日本も終わり。
 日の丸と君が代と「軍隊」があれば、国家権力にできないことなど何もない。

 つまりね、いま「個人主義」に手をつけるふうを見せると、資本家だっていやがるのさ。誰だって国家のいうなりになんかなりたくないからね。
 今「国家」に何かして欲しい一般人は、公共事業関係者か補償金その他の金銭要求者だけでしょ。
 
 ところが、軍隊ができれば、海外投資確保もできるし軍備投資もできる。もちろん海外NPOにも恩を売ってね。こうして資本家は軍隊ナシではなにもできない世の中となる。庶民だって軍隊が動き出して、そこで苦境に陥るのを何度も見せつけてやれば、「軍隊もっと強くなれ」とか思うのさ。
 そこでようやく「お前らも国家に貢献しろよ」といわれれば、資本家も反対などできやしない。 それは軍産複合体などというだいそれたシステムではなく、ただの経済が軍と結合する、という状況です。これでおもむろに「国民は国家のために存在する」って改憲動議すれば党派、階級を超えて賛成多数、その頃はアベも草葉の陰かもしらんが泣いて喜ぶでしょう。
 世の中というのはそういうものです。
 ただし、「軍隊」はステルス機やミサイルがあるオモチャ箱じゃない。開けてしまったパンドラの函、誰にも収拾はできやしない。あとはいきつくところまでいくだけで。ま、全体軍国主義=合衆国アメリカと同じですね。


 なんて大事なことを右翼に教えていいのか、って?
 右翼に教えてんじゃなくて、「庶民」に教えてんのさ。
 「現にある自衛隊を認めて何が悪い」って、要するに自分の首を締めるってことだってね。
 もっとも、私はこの先10年のことなんか興味ないの。私の理論は、20年先。日本資本主義が熟しすぎて腐れ落ちる時代に花開くからね。
   若い人は熟して腐るなんて知らないんだろうけどね。
   モノは熟したら腐って地に落ちるだけなのだよ。
コメント (2)
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日中関係よもやまばなし

2012-09-23 17:51:40 | 歴史への視角
 こんばんは。まだ6時前ですが外はもう暗く。東京地方も、ようやく秋の涼しさが。
 私儀、9月いっぱいはなにかと忙しいのですが、個人仕事のいつもの予定は涼しくてアタマが動く10,11,12の3ヶ月。今から楽しみなのですが、勤務仕事、新しく追加が入いらないといいなあ、、、

 さて、今回ももう少し歴史の見方というものを続けましょうか。
 わたしなんか自分の主義とは別に普通にサラリーマンしてますから自分の感性の大衆度には自信がありますが、それだけに中国大衆の大衆度の感受性にも自信はありまして。
 なんといってもこの80年間、日本人に会った中国人にしてみれば、日本人の奴隷同然。
 「日本の」じゃないですよ。具体的な「日本人」に奴隷のように扱われて80年。
 まあ、実は会った人間は少ない、ということがまだしもですけどね。
 「民間友好」なんていったって、そりゃ買いかぶり。この10年に限ったって会うたびに厳然たる金力の差を見せつけられる。日本人はたかだか平人民のはずなのに、暮らしといったら尊敬すべき中国共産党幹部様以上ですから。(中国人にはもっと金持がいる? そりゃ中国資本家はそんな運動をしないというだけで。)
 ちょっと想像してみてくださいな。
 これで、「デモやっていい」といわれりゃ、昔の『アイク帰れ!』なんかよりずっと楽しい騒乱を作れますよ。  
 そんなのに対応しなきゃ気が治まらないわれわれストレス大衆や、これをいい機会とストレス発散に励む自称右翼は、理屈だけからいやあ、ま、「フェアじゃない」というもんですね。

 で、こんな状況で、いま日本経済の製造業企業が望んでいるのは、日中安定。
 「くそ、石原の老いぼれ野郎。後期高齢者がのさばりやがって。あんなのを選ぶ東京都民は痴呆症か」というところがホンネ。
 そんな製造業資本家が望むのは、国家が自分たち製造業を「守って、どんなことでもしてくれる」ことです。

 さて、若い方々で経済学を習った人は、どうせマルクス経済学なんてとってないでしょうから、経済学の教科書に、経済原理の理想を思い出せるでしょう。
 「国家は小さいほうがいい。経済に手を出してくれるな」。
 で、まずは、そんなものはウソだ、と確認してください。
 資本家は自分の意思決定に茶々を入れられるのも困るが、かといって、他国に茶々を入れられるのももっと困る。そんな弱っちい国家じゃあ資本主義はやっていけない、国家とは、できうる限り軍事大国であったほうがよいのです。要は、「国家はわれわれの手先になって欲しいが、それ以上になってはいけない」
 フリードマン以下、歴史に名を残さない雑兵たち。あるいは日本でいえば転向前の中谷巌その他雑多などうでもいい近経原論の諸教授たち。その根本原理がウソ。
 まあウソつきだって食うものを稼ぐ権利はありまさあ。悪いのはバカをかつぐ資本家大衆だからね。

 「いや、お前はそんなことをいうが違う。元はといえば国家が口を出して、日本経済を苦境に陥れたのだ。ほっといてくれりゃあ中国はよきお友達だ」って説はありますか?
 そう、そんなことを言う国籍不明なやつがいると、国家経済のトータルが困る。
 言ってるだけじゃなくて、どんどん資本が深入りするからね。にっちもさっちもいかなくなってから国家に泣きを入れられても、国家官僚は対応の仕様がない。中国は「資本主義経済国家」じゃないことを忘れちゃあ困る。
 
 実は、国家トータルでいうと、『手を切るなら今だ』、というところじゃないですかね。
 わたしゃ、このストーリーは先を読む男が手を引いていると思いますけどね。
 世の中って不思議なことに、誰かが裏にいるものなんですよ。
 若人はこれは覚えてほうがよいと思います。あなたの友達のエリートもそのうちなるかもしれませんし。(あなたはならないよね、こんなとこにきてるから。)

 で、世の中というものは、賢い奴に乗っ取られるもんです。それはアタマが賢いからではなく権力組織には、そういうポジションというものがあるんですな。
 高度組織というものは、「高齢者(政治家)にはとうてい検討作業をさせてはならない」、という隠居の智恵を体現化させているものなのです。
 出した結果を老人に「ご判断」いただくわけですね。菅が最後まで理解できなかった高度判断過程のことです。そのため、検討の内実を知っているのは官僚だけという場合が全部。
 彼らの仕事は、若いものの書いた大臣答弁書にダメを出すだけじゃなくて、常に政治家の裏を動いて、国家戦略の筋書きを練ることですから。
 わたしなんか、この陰謀を仕組んだのはおそらくアラフォーのキャリア官僚だと思いますが。
 当たったら、自首してみたらどうですか?
    って、しねえよ。

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国家展望の1側面

2012-09-15 11:30:02 | 歴史への視角
 こんにちは。お元気ですか? わたしは不元気です。どうしてこんなに暑いんだろうね。
 若い人はわからないと思いますが、中高年ともなると不思議なことに暑いと何もする気になれないんですよね。二日酔いの午前中のような、、、そりゃ二日酔いだろうって。違います。

 最近頭に来たことに、ターミナルM駅近くのS堂で1ヶ月前に買った靴底に大穴が。
 靴下じゃないですよ。牛革の靴。
 
 あ、こりゃ、びっくり。サービス品じゃない、6000円のスリップオン。
 1ヶ月だよ、1ヶ月。
 そんなの売っていいのかよ。知らんぜ、つぶれても。少なくともぼくはもう買わないからね。
いや、バッタもん押し付けられたかと思ったけど、ワシントンの通販でも5000円で売ってるから、ま、店そのもののせいではないようだけど(だけど、靴底は店の兄ちゃんに確認したんだぜ。奥にいたおかみさんがなぜか不安そうにしてたが)。

 suffice(サファイス)7704。
 情け無いね、日本製造業。
 貧乏人同士でだましあっていいのかね。
 まあ、靴の需要度はわからないけどね(普通の靴は売れないのですぐ壊れないとやってけないか)、と言うのは、若人はカネがないくせして何万の靴を買ってるようだからだけど。


 さて、なんでも、右翼資本家たちが役に立たないネットウヨを排除に出たようで。
   鉄砲玉にもならんクズはもういらんと。
 
 市場-資源確保に危機感を覚えてくると、資本主義者たちは、現実に彼らの利益を保持してくれる「層」を求めるようになる。
 哀しいかな、誰も信じられない資本主義者たちは、彼らの尖兵である国家官僚も信じられなくなってくる。国家官僚は「今」しか考えていないから。国債発行高に表されるように、今をクリアしてるだけじゃ、もうどうにもならんのね。  
 しかして、かれらは直系の兵士を欲しがる。すなわち、社会上層の「保守」層を代弁するための本来の右翼=国家利益主義者の存在が必要となってくる。反・反日のような単純バカじゃやってけないのね。もちろん、サンケイのような口先右翼では老人の自慰にしかならない。読売、朝日の主張に無意識のうちに取り入れられて(そのぐらい当たり前のレベルになって)、初めて右翼主張は力になる。そのために、ここはなんとか権力に繋がる若人の束が必要だ。
 そんなものを何に使う、って、つまりは、いよいよ資本主義最後の手段、軍備拡張ですね(侵略行為のことではない)。今の時代、「拡張」というよりは「最先端更新」かな。これには見込みのない代替エネルギーじゃ量が足りないから、一挙に、脱原発もうやむやにできるし。
 復興土木事業じゃ、波及効果がなさすぎだからね。生保費投入となにも変らない。

 ただ、アメリカあたりだと軍備支出も有効需要創出なんて大きな顔ができるところだけど、日本だとそうもいかない。
 こうゆうのは、どうせ要らないサービス業労働をしてる人民を振り向ければそれですむはずのところだけれど(が、3Kに近い労働にどれだけ向かえるかは別として)、日本のような無資源国は、少し事情が違う。
 外国から軍備用資源を輸入するために、日本人民の労働を費やさなければならない(=外国に他製品を売らなければならない) からね。その分の労働を、または労働力再生産費を、どぶに捨てていく、=日本人民は貧しくならざるを得ない。
 しかし他方、資本家というのは、商品が売れてる限りどんな場合でも儲かるのだよ。
 近経の指標じゃ、「好景気」だとかになるんだね。ほんと、不思議。 
 そりゃ、労働者雇用も増えるからご同慶だけれど、いかんせん、低賃金雇用なのだ。だって、労働者は自分用の購買物品なんか作ってないからね。作ってないものは自分のものにはできやしないさ(国家全体での結果の話)。かくして、さらに労資格差が広がるというわけだ。
 
    ただ、プロパガンダの副産物ができるからね、大衆の口をなんとかふさぐようにしないと、すぐ戦争だぜ。われわれ大衆はお調子者だからね。
    いや、お調子者ってくくっちゃうと応用が利かないからまずいね。
    
    近代民主主義っていうのは、あるいは正確に言うと、資本主義の進展がもたらした国民経済と大衆消費というものは、支配権力が大衆の意見を取り入れるようになるんだよね。
    あるいは正確に言うと、大衆の生理性が政権に反映し、あるいは正確に言うと、支配権力の武力部門に反映し、大衆の賞賛と優越の行方が政権に反映するようになる。あるいは正確に言うと、大衆の生活中の生理性の存在が支配権力に認められざるをえなくなり、支配権力の賞賛と優越の一部を大衆も共有しうるようになり、武力勢力の担い手の国民国家化を通じて大衆の心は武力勢力の心となる。
   この一瞬において、国家はその転轍手(=針路変更役)として、政権エリートではなく、大衆を選ぶようになる。
    てな話です。
    
    わからない? ま、そんな簡単にわからないのが人生でして。
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国家という日常

2012-08-26 16:26:52 | 歴史への視角
 こんにちは。そろそろ暑さを我慢する体力も限界な今日この頃
 いつも悪口をいう図書館でなにも本がないので子供コーナーでライトノベルズを覗いていて発見したことに、
 
 ライトノベルってどこが小説と違うか御存知?
 そんなもの読んだことがない? いや、なかなか面白いもんですぜ。
 それはいいんですが、つまり、なにが子供本か、という理由ですね。想像できます?
 じゃ~~ん、わかりました。生きてる大人がでてこないんですね。
 成人の登場人物は人間ではなく、みんな役割しか行為しない。
 いくら子供向けでも、悪漢やら校長やら兵士やらは不可欠な登場人物ですが、みんなその役割しか果たさない。人間の日常の悩み一つ持ち合わせておらない。あるいは悩みをもっていても、それは「悩みをもっている悪漢」という役割しかない。要は、「こどもが書いた本」、ないし、「こどもでもわかる本」。

 ま、中をのぞいてごらんなさいな。そのとおりだから。
 だからなに、ってわけでもありませんが、その1、やはりマンガと一緒ですね。 小説とはいいがたい。
 マンガの何が悪いということではありませんが、私の中で、それらは小説といいがたいという理由が解ければいいんです。
 
 その2、そういやあ、私の書くものも大人がでてこないよな、とも思って。
 ま、わたしゃ永遠の子供で結構だから。
 わたしの友人たちもみんなそんなもんで。類・友。
 わたしは大人だ、という方は、多分私の友人ではありません。そういう方はここには来ないけどね。
 ま、大人でもいいけどさ、私にはうそはやめてほしいんだよね。 こっちが大人対応しなきゃいけないのはまっぴらだから。

 さて、本日のテーマは、国家という日常。
 いままでのは前段かよ、って? 長すぎた? だいじょぶ、本文短い。
 
 ほら、中国やら韓国やらの領土話さ。
 インテリの人には分からないだろうけど、ああゆう事態は庶民は頭にくるの。なんだあいつら痛い目に合わせてやれ、みたいな、ね。わたしは庶民だからわかるの。
 一方、実は、国家関係者にしてみればあんなことはくだらないことなんだよね、そんなことは日常対応しているんだから、たとえば外務官僚ならわかる。(わかるのは、「現在の状況」だけだけどね。) 現在はそっとしておきたいのが、すべてを勘定に入れた両国関係者のスタンス、ってもんさ。そういう総合的な正しさをわからずに外野でぎゃあぎゃあゆう私ども大衆は、ド迷惑な限り。なにもできゃあしないくせに。言いたいことを言って選挙票を得ればいいバカ政治屋に操られているだけ、ってもんさ。「いきたかったら戦車買って陣地作って銃撃戦してみろよ、できゃしねえくせに」
 
 ところが一方、ガキのように他愛のない嫌がらせをする(船で無人島に上陸しただけで何か偉いか?) のが何か価値のあることをしたと思うのが人間というものでもあって。結局、そいつが武力行使の権限を持ってたりすると、嫌がらせが昂じて戦争になったりする。マスコミはどんどん囃(ハヤ)してくれるしね。
 
 でさ、話の本体は、かくのごとく、国家関係というのは国家がある限り国家人民から離れることはできないというわけで。
 戦後日本が静かだったのは、圧倒的に日本の経済が順調で、一方、周りの力が低度だったのでケンカにならなかったからにすぎない。
 爛熟した資本主義諸国家というものは平衡に向かう。
 平衡の果ては戦争か革命か。まあ、懐かしいことばですが、古いが正しいテーゼが新しい意味を持って生き返るわけですね。
 ま、外務省は最後まで戦わない道を考えるでしょうが、これから数十年、われわれは外務省が大衆に敗れる日が来ることを忘れてはいけない、ということです。

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オリンピックと労働者の団結

2012-08-05 21:40:22 | 歴史への視角
 こんばんは。東京地方はあぶらむしではない油蝉が鳴きだし、夏中盤。
 なんて、去年の夏、そんな話題を前の職場の同僚としたことを思い出し、あれから1年かあ。諸行無常。
 
 さて、ここんとこあれが終わればこれと、自分の行動設定の世界の切り替えがたくさんあって、よりいっそう自分の仕事から遠ざかり、困ったものです。 AB型とはいえ、2つのことはきっちり分けられても、3つ、4つと付き合う世界が増えると、はっきし対応不能ですね。
 会社の仕事は、出勤して清掃の人と顔を合わせると思い出すのですが(持ち帰り仕事がないので退社するときれいさっぱり忘れる)、自分の仕事は向かい合って思い出すものがなくて、気分の調整がむずかしい。
 かえって日常ずっと会社の仕事を気にしてなきゃいけないほうが、そんな事態に頭に来て気分転換に自分の仕事をしたりするんで、世の中何がいいかなんてわからないものです。

 てなわけで、前々回の続き。労働者前衛主義のオリンピック的偽善。
 いや、べつに、オリンピックに恨みなどなく。話題は、インターナショナル労働運動の方で。
 
 共産党宣言の末尾、「万国の労働者、団結せよ!」という語句がありまして、昔は知らない人などいませんでしたが、さて今はどうか。
 意味は、<万国の労働者は、同じように搾取されているから、自国の政府・資本家に振り回されずに、国を越えて手を結び、資本主義者を打倒しよう> というわけで。ま、その言やよし。
 しかし、そんなこと唯物史観ではありえないことですな。
 
 だいたい、誰も気づいてませんが、語法からして「命令形」ですよ。vereinigt Euch!。おまえ、団結しろ!。つまり、インテリ、マルクス・エンゲルスのヤケッパチの言ですね。 ほんとだったら。「ぼくたちみんなは団結しよう!」ですよ。 あなたならそう言うでしょ? わたしならそう言いますよ。
 そんな団結は、もともと無理。そんな言葉を相手にするのは、労働者の利害などなにもない国家間の漂流労働者や(内実は歴史の本をどうぞ)、評論してれば生きていけるインテリだけ。そして、現実の歴史もそうなりました。労働者はすべて国家に取り込まれ、2つの世界大戦で殺し合い、死んでいきました。
 
 オリンピックと同じですね。
 スポーツに国境はない。
 が、スポーツ選手には国境がある。
 
 ま、現実を無視してお題目を唱えるのも無意味ではない。
 ひとびとに理想的状態を教えることは、教えられる人に与えられた役目ですね。インテリにはインテリの役目があり、スポーツ選手にはスポーツ選手の役目がある。
 イデオロギーやデマゴギーは賞賛の必須要素ですし。
 ただ、インテリが口にすると、真理を話しているかのように受け取られるのが問題で。現に、左翼はだれもこの誤りを問題視しない。
 結局、オリンピック憲章も労働運動スローガンも、どちらも子供の世界。生理的制約のない理想状態にすぎない。

 じつは未来で労働者を待つのは、1国社会主義革命でしかない。
 なんてことをいうやつは、世界中を探しても私一人になっちゃいましたね。しかも、アナーキスト隈のみ。後のデマゴーグはかっこつけて、民族民主主義やら世界革命やらさ。そんなものは、資本主義の進展の、裏返しのイデオロギー修飾に過ぎない。
 デマゴーグは、歴史の波に乗れはするが、歴史の波に抗することはできない。
 歴史を動かすのは目の前に将来を見せられる人間だけだ。
 
 革命は1国で第1段階を成就するしかない。なぜなら、国民資本主義は、1国で生理性を支配するからだ。夢物語で何を言おうが、1ヶ月食わない人間は死ぬしかないのだ。
 
 数十年後、どの国も資本家と労働者の行為共同性がくずれ、かつ、労働者状況が他国と近似一致したとき、各国は1国にて革命を起こし、かつ、革命後に連帯をし、無政府共産主義への道を踏み出す。いやでもなんでも、これが歴史の鉄の法則なのだ。

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実存主義的キャッチコピー

2012-06-17 21:48:30 | 歴史への視角
 こんばんは。東京地方、今日は暑い。帰宅的ホームで待てば蚊に刺されるし。
 いや、飛蚊症だと思ったんだよね、目の前をなんか横切ってたけど、本見てたから。痒くなって思い返してももう遅い。
 てなわけで、この体の熱気、風呂に入ればとも思いましたが一向に変わらない今時点です。

 本日は、昨日から高校の闘友的旧友が、もう終わりのように入院してしまって。
 奥さん(旧友の)がブログを書いてるんですが、それがここんとこめちゃくちゃ。あっちへこっちへと八つ当たりの権化。
 だからブログって嫌いさ。一時の激情って、一時にしか本当じゃないんだよね。でもその一時を日常であるかのように構成するやつがいる。本人が後で読んだら、なんであんなことをって思うのにね。はい、私はAB型。
 
 だから、ここのブログはためになるブログ。怒りの日は「断片」カテゴリーです。
 
 というわけで、旧友のことはさておき、本の話。
 近くの図書館の蔵書が貧しい話はしましたが、ほんとに何にもなくて。
 ここまでひどいのが買う奴のせいとも思いがたい、これはそんな本を買う奴がいる時代のせいなのだ、と、理屈的に思うのですが、そうでしょうか? 若い人で、図書館の本、変に思わない人、手を上げて。 ほんと何一つ面白くない。 おいが偏屈なのかなあ、、、おめえのはもっとひどい、って、そりゃそうさ。おいのは20年後の本だから。 売れなくても先駆者は、売れる前の時代に本を書かなきゃいけないのさ。
 
 とはいえ、こっからが本題で、昔の本ならなんでもいい、というわけでもなく。
 読む本に事欠いて昔の本を紐解くと、いや、まあ、これもひどい。ひどいなりに面白いところは許せるとして。
 例が、小川弘「近代化と道徳」。どうせ今じゃ買えないから詳細抜き。45年前の本ね、ってぎょえ。
 小川弘という人は誠実で教え子の評判高い人でしたが。
 何がひどいって、”人間は社会あっての個人だから、社会的価値を実現するのが正しい”てな趣旨ね。
 当たり前?
 ほんとめんどくさいのね、当たり前に思う人を説得するのって。
 
 西洋も同じ。
 「○○は人間の普遍性だから、だから、それに沿うのが正しい」
 って理屈にもならない「論理」を掲げて、さて本に書くときはその1行で済ますんだよ。
 
 ある理論が正しい、正しくないの分かれ目は何でも一緒。初めの1点。
 右へ行くか、左へ行くか。(だいたい、これは当然だから一言で、みたいなとこが、「専門家」の本では全部ウソ)
 幸か不幸か、アタマのよさそうな奴らは頭がいいから初めの一歩をなんの考えもなく世間のウケねらいで踏み出してくれる。はい、そりゃ間違い。一生を潰したの? そう、そりゃごくろうさんね。
 おかげさんで、マルクス以後、一番の理論家は隈栄二郎だ。
 酔っ払ってるかね。
 
 ま、西洋も同じ例がサルトルね。
 「人間は歴史に生きるのが本質だから、今の歴史の流れの中で生きなければいけない」からハンガリー革命制圧が正しい、のたぐいさ。
 
 みんな臆病者の法螺吹きたち。
 何が人間だよ。だれが人間の事なんかわかるんだ。おいらに分かるのはおいらのことだけだよ。法螺吹きたちだってそうだろうが。
 「人間本来」なんて自称「論理」は、そのあとに右翼も左翼もヤクザも民主党も思い思いの都合勝手をくっつけられる修飾語以外のものでもない。
 サルトルは、フランスの小農村制を根拠としたカトリック教義に対抗するため、そんな主意主義を押し出さざるを得なかった、小山弘は半封建の農村主義に乗っかるためにそんな「道徳」を繰り広げならなければならなかった、それだけのことなのですけどね。(それはそれで、その時代のイデオロギーで、悪かないですが。でも「本当のこと」ではない)
 
 というわけで、本質は簡単なこと。私とあなた。
 人間一般がどうなんて、まったく意味をなさない。
 『私は他の人間の間をなんとかして生きていく。おそらくあなたも同じだろう、ということは彼も彼女も同じに違いない。
 ということは人間一般そうではないか』 
 という過程のみが意味を持つ。
 このルートを通らない「人間」論議など笑止千万。勝手に夢でも見ていろ、ということですね。
 
    でもそんな夢が売れた時代って、学者にはよかったやね。
    今くだらねえ本しかないのは、やっぱ、学者の試行錯誤かね。
 
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歴史と主体性

2012-06-10 21:02:31 | 歴史への視角
 こんばんは。ようやく明日で仕事が一段落。
 今日は休みで、目いっぱい寝たあと、撮り貯めた写真を写真店にプリントしに行きました。

 プリントjpg設定中、その店のなんだかきちんとしたアルバイトのお兄さんが勤務交代で店を出たところで、お客のおばさんだかに捕まって立ち話をしてるのが聞こえました。
 お兄さんはなんでも社会学の院生で(ほう)、おばさんと話すには、「今、考えているのは、老人の施設と幼児の施設を一体化させる構想なんです」(はあ、はあ)「そうすればお母さんしか知らない子供も年寄りのことがわかってくるし、、、」(まあねえ)

 ともかくも、わこうど、頑張れよ、って感じで聞いておりました。
 どんなにくだらない構想でも(おいおい)、構想をたててそれがなんで自分が思うように実現しないのか、そこを考えるのが社会学の第一歩ですから。
 まだまだ先は長いですけどね。
 若いって、いいな。

その2。

 以前に話題にした近所のガケ。地滑り防止に生えていた高木、潅木を根こそぎ剥いで禿げガケにしてしまって、コンクリの崩れ止めを打ったのですが、その後にようやく雑草が生え出しました。今はガケ一面が丈の短い草いっぱいの緑に。草は、基本は一年生草本ていうことにしておきましょう。
 今だつまらぬ景色ですが、まずはそんなつまらぬ雑草が生えて地面が固まり、これから先、樹々の種子が定着し(今回の場合はもうほじ繰り返った土の中にいろんな種が隠れてそうですが)、喬木や潅木が復活してくる、という。
 この若い草々は、はたからみれば若いだけ、すぐ年寄りの昔話になってしまう存在でしかありませんが、歴史のためにはそんなものがまず必要なんですね。


 というわけで、カンのいい左翼の方だと今日の「お題」との関係で気づいたかもしれませんが、これは主体性論と歴史的弁証法ですね。
 社会はその時代の人間が命を賭けて戦わない限り変わらない、一方、なにがどうしようが、荒地が森になるには歴史的なプロセスが必要だ。

 さて、この矛盾はどう処理されるか?

 というわけで、答え。
 こんなことは矛盾ではないのです。
 人は、自分の状況を生きることが必要であり、それ以外のどんなことも必要ではない。
 一方、世界は、そうした人たちによって作られ変わり自由の王国へと近づいていく。
 世の中は、ただ単に、そうしたものなのです。それを矛盾というのは、ただの感想。

 さて問題は、そこから先。
 だ、か、ら。

 だから、偉そうな前衛主義者共が「自分たちこそ」などと偉ぶれる根拠など世の中には一切ない。
 だから、自称マルクス主義者など、道端の雑草と変わるところなど何一つない。

 だから、一方、人は、自分が望むなら、前衛になる必要がある。
 それは雑草と同じ役割でしかないが、それは誰かがやらねばならない。
 だから、一方、人は、自分の望みを貫徹する必要がある。
 それが人間の歴史であり、彼らや我らは、歴史を生きているのだから。

 あるいは、歴史を生きる、というのはそうやって自分を運転していくことだから。


   人間は、自分を自分でセットできる。そして、それに必須なのが自分の意志での決定だ。
   この後段が、「主体性」なのですよ。
      なんて、どうして学校で教えないんだろう。


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相反し対立しない理論

2012-05-27 18:13:13 | 歴史への視角
 こんにちは。ようやく来た休みの土曜は、朝から夜までディズニー・シーでなんも休みではなく。
 しかも嬢ちゃんばかりはいいとしてもみんな若すぎて、あこりゃ年取っちゃったのかな、ってそりゃ疑いもないことではありますが。みんな自分の娘より下じゃ、位置付け不明な人々に、明るくない感慨を覚えたものであります。なんて、長々いたくせに。

 それにしても納得できないのが、テディーベアブーム。ディズニー・プロがミッキーのなんとかかんとかのベアとかっていわれを作って売り出したそうですが、商売お上手ね。しかしあんなもんどこが可愛いのかね。熊のぬいぐるみは好きだけど、テディーベアだよ。それを嬢ちゃんたちがみんな手にしたり腕にしたりバッグにしたりしてるってわけだ。わけわかんね。
 せめて「クマのマック」とかならわかるんだが。
   http://members2.jcom.home.ne.jp/smastani/seateddy/mack/index.html
 ま、そういうわけで本日も疲れきって。
 以下、ちょびっとですが。

 異動で、いきつけの図書館が変わりまして、前は古いまあまあな本があったのですが、今度は新しい本しかない小さな図書館で。もっぱら暇つぶしの趣味本を借りるしかないところ。
 で、借りたのがドングリの本。
 
 ドングリったっていろいろで、食べるところ(いわゆる実の膨らんでるところ)は「実」だったり皮だったり種だったりするんだそうで。 どうだ、不思議だろう、ってわけですが、なんだかねえ(注:ほんとは木の実一般の話。私がドングリに収約しただけ)。
 
 そういうのって、ドングリにとっても、人間にとっても、「同じ実」なんじゃないのかねえ。「いや皮だ」、とか言う奴のほうがおかしいんじゃないか。ドングリの方だって、要するに芽の養分貯蔵庫になりゃそれでいいんだから。人間だって、指の先で人の顔が識別できれば、それは指の先にある「目」だろうが。
 
 というわけで、本日は「理論」というものの性格です。
 
 「理論」というのは、基本的に主体的(=主観的)実用に供するために作り上げるものなので、人間は以下のように実用化していくものです。

 まず、時間を固定して
 第1に、考える行為主体にとっての現象状態について正しく当てはまる、機能論=現象論。
 第2に、考える主体が、自分の周りの現象から抜け出ようとするとき=変革するときにのみ正しく当てはまる、本質論。

 また、ちょっと次元を変えて、時間を問題にして
 Aとして、行為主体が環境を話題にしてそれを説明しようとするときに使う、歴史主義。
 Bとして、行為主体が、環境に刃向かおうときに、その根拠となってくれる、人間主義。
 
 世の中の「正しい理論」というのは、決して一つあれば済むものではなく、この4通りのそれぞれが、行為者の状況に応じて、正しく世界にフィットすることになるんです。

 なんていってもわかるかなあ、と思ったら、前書いたような気もしてきたけど、どうかな。
 
 現象論ていうのは、年越し派遣村の湯浅誠さんが政府役員したら「政府もがんばってる」なんていいだすようになった視点のことですね。「お前だってよくいう」、って、ま、そういうことでさあ。
 それは事実だ、と。
 しかし、事実をいってたら何も変わらない。 「しかし、それはそうではない」、といわなくちゃね。
 それを何を根拠に言うか。手順は、目に見える現象の前提を崩すことにある。
 「それはそうではないんだ、それは資本家に取り込まれているだけだ。そうやってみんなが一生懸命体制を守ろうとすることになるのが、資本主義の本質なんだ」という次元で展開するのが、本質論。
 ドングリなら、「種を太らせると芽が1つしかできない。私は芽の数の多さで勝負したいのだが、どうにかなるか、、、そうだ、実を太らせて分化させれば、種はいくらでも作れるんじゃないか」、と考える。ま、考えやしないだろうけど、分化の部位はあちこちで可能である、という本質があれば、そういう道を選ぶことができる。
 
 また同様に、「この現実は歴史的に作られているから、これは変えることはできない。仮定の話をしてもしょうがないんだ、これが現実だ」、といってしまえば、それはそうだ。この現実は歴史的に作られた。 つまり歴史主義である。
 
 しかし、「何を言うか。この歴史を作ってきたのはわれわれであり、これからの歴史を作るのはわれわれだ。」といえば、それもそうだ。 つまり人間主義である。
 
 それぞれの視点は、行為者がいったい何を分かろうとしているのか、そのそれぞれのために取られる。
 人間ていうのは、これらの両方を知って初めて、世の中、というものがわかるんだよ。
 
 
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資本主義的同心楕円

2012-05-13 21:21:38 | 歴史への視角
 こんばんは。みなさんお元気だといいですね。私は元気です。

 今日は、他の社員とかなり同時に退社したところ、玄関を出ると自転車通勤の同僚(女)の自転車のカゴに「お荷物」が置いてあったと相当な騒ぎ。
 さて、「お荷物」ってなんでしょうか。
 答え、ニャンコの赤ちゃん、三匹のはいったかん袋。
 
 ばかやろう。
 捨てるに事欠いて。
 しょうがない同僚は交番にいっておまわりさんに引き渡してきたところですが、おまわりさんが言うには、本署にパトカーでニャンコを連れて行ったあと、規定の期間を過ぎると、保健所へ引き渡すことになるそうで。まあ、おまわりさんも大変ですが、このばかやろうは、せめて自分で殺せよと思います。
 「どっかいい人にめぐりあったら」 なんて気持ちなんざ、逃げ以外の何者でもないですね。負い目は自分で一引き受けてなんぼ、というものです。もちろん世の中、引き受けない奴が95%ですけどね。
 
 という憤りはちょとおいて。
 
 ありがとうございます。昨日で本ブログ訪問件数10万件を越えました。
 
 「変だろうが、つい1,2ヶ月前5万人だっていったじゃないか」 と、おっしゃられても、この前は人数、今回は件数。どう違うかといいますと、人数はきた人で、件数はおんなじ人が同じ時にページをめくると、その分回数が増える、という感じで。よくホームページのカウンターでカチャカチャ動いてる数字のもよう。
 ま、ともかくもありがとうございました。
 
 さて本日は、もう2題も書いてしまいましたが、いつもの訪問客の方には息抜きで。
 たまに来た人にちょっとためになることを探して書いておきますと。
 
 今日のNHK、「ダーウィンが来た」、北海道で漁師が捨てた大量の売れない小魚を、大鷲が大量にきてむさぼり食ってる話。
 「なんだ、なさけねえオオワシだな」と私。
 「ワシもうちも産業革命時下層労働者と一緒だね。50円のチンゲンサイ買ってきたり、、、」と家人。
 
 『50円のチンゲンサイ』の意味が分からない人は、こんなブログに来ないで、一生懸命高校受験や大学受験の勉強をしてくださいませ。世間の勉強は10年早い。
 
 ま、そういうことで、たしかに当家は、イギリス下層階級が荷馬車の中層商人から投げられたキャベツの皮(キャベツの葉に陽が当たって硬くなって売り物にならないところを、中層といっても貧乏を知っている商人が同情して投げるそれ)を買うのと一緒なのですが、それは先進国内での話で。
 それが同心楕円を描いて世界を席巻している。
 われわれはチンゲンサイをたべることができ、同心円の最端では、あいかわらずキャベツの硬い皮にも当たらぬトウモロコシの芯を口にすることもできない。
 同心円というのは周辺の位置の違いを 「同じだ」 といってはいけないものなんですね。
 
 で、たまのお客様には、
 「グローバル資本主義なんて、世界の中の資本主義国家で同心円を描いているんだよ」、というお知らせ。同心円は渦を巻いて中心化、一体化へ向かいます。それは、われわれ先進国には資本家の優越性を「あきらめる」、後進国には資本論的労働者でも「いつか夜明けが来る」 そんな関係になっているんですよ。
 
 てなことで。
 
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民主政治

2012-04-08 22:01:54 | 歴史への視角
 こんばんは。いよいよお花見の季節で。 
 今日は手製のお弁当を持って、一升瓶から空きペットボトルにお酒を移して、向かいの山へお花見に出かけました。八分咲きの下から見れば青空に桜は満開でまことに良いお日より。こういうのを流行りの言葉で「幸せ」っていうんですかね。
 
 私らの子供のときはそんなこともできないで、幸せってなんだろな、って思ってましたが、今思えばやはりその頃は不幸せだったようです。
 昔はみんな貧乏でしたが、うちはお酒を買えないほどでもないし(その頃は500円のハイニッカを買っていました。今で言うと5千円くらいかも。もっとも食べ物の他には買うものも少なかったから、3千円くらいの重みかな) 花見くらいできたのですが、悪の根源は爺さんでね。
 一度くらい書いたかしら。熊本の家父長制下の人間で、権力主義者のどうしようもない男。
 こいつのおかげで私の今があるのでしょうから、まあ、人生、禍福あざなえる縄、で。
 とはいえ、爺さんも別に悪辣非道なわけではなく、単に権力で家族を牛耳っていただけで。もちろん本人のせいではありますが、熊本県と時代のせいでもある。
 
 で、本日の焦点は、クズの橋本で。
 といってどれにするかな、「市長の悪口をいった市職員はクビだ」にするか、いや、今日は、橋本が部下に、教員が君が代を歌うかどうか口元を見させて、こいつ歌ってないと思った奴は懲戒処分にするって。多少違う? いや本質はそういうことなのですよ。

 いったい、こういう奴がファシストじゃなくてなにがファシストなのかな? 右翼の諸君、教えてよ。
 「君が代」ってなあ、1番だけだって「天皇のために世の中が続けよ」、って歌だぜ。お前らそのために死ねよ、ってわけだ。現行憲法下では、世の中って、俺らのためや、せいぜい「国民のため」に続くんじゃないのかね。まあ、最悪、「国家のため」くらいならありうるかな。
 しかし、そうじゃない。天皇だぜ、天皇。そんな歌がこの世に存在していること自体が狂気なのに、国歌制定は小泉以前だから小泉のせいじゃないぜ。
 
 で、これを言い換えると「お前、このまえ居酒屋で社長の悪口言ってたな。隣の社員がボイスレコーダーで取ってあるぞ。よくも当社の評判を貶めてくれたな。クビだ。」ってわけでさあ。
 クビになったら、他の会社でも勤められないんだぞ。「リーンリン、ああ、A社さん? あいつがおたくに就職したいって? ダメダメ。あいつは社長の悪口をいったからクビにしたのよ。今度警察に通報しとくね。どこにも就職できないように」って、ファシズムってそういうことなの。ま、教員さんかわいそうにね。
 で、ポイントは、問題は跳ね上がりをクビにする自体ことよりも、クビを脅しに、モノをいえない生活の場を作った、ということです。
 サラリーマンの方々、思ってもみてください、社長の悪口をいったらクビと思いながら、毎日生活するわけですよ。しかもそれが「社長」だけでなく「上司」の悪口に進展するのにそう長い時間がかかるわけじゃない。あーた、毎日ビクビクして周りの人間を気にして、酒でウサも晴らせない、そんな生活をファシズム真っ盛りと言いますね。そうでしょう、右翼諸君。なに、不満ならマルキスト諸君といってもいいが。
  なんていっても、ここにくるのはまともな人ばかりで悪口を続けてウサを晴らせないのが残念。
 
 まあ、ここに来る人たちはみんな橋本がファシストだと思ってらっしゃるのでしょうが、本日のテーマはそうではなくて。
 悪いのは大阪府民だ、といっています。
 
 シンプルにいって、キチガイは精神病院にたくさんいますし、クズだって少なくとも暴力団員の数だけいます。
 だからって、彼らはファシストか? いやそうじゃない。ただのどちらかといえば可哀想な境遇の人たちです。
 じゃあなんで橋本ばかり悪口をいわれなければならないんだ?
 それは橋本が大阪府知事、大阪市長という権力者だからです。
 じゃあ、橋本はどうやって権力者になったんだ?
 大阪の選挙民が選んだからです。
 俺は投票してないというのは充分わかりますし、東京も石原がいやがるんでエバレるもんではありませんが (ただ石原は少なくともファシストではありませんぜ)。
 
 いずれにしても、悪いのは庶民だ、ということです。
 しかも生活がかかった人間が利害関係で党を選ぶならまだしも(たとえば自民党に投票する)、橋本の場合はそうじゃありませんぜ。きっぱり大阪の過半数の人間が悪い。
 ファシストを育て、大きくし、日本を全体主義国家の国難に追いやる非国民そのものですな。
 
 まあ、世の中というのはそういうものです。
 実は人民がやったことなのに、都合の悪いことには目をつぶる、口をつぐむ。
 ぼかあ知らない、あたしは関係ない。橋本に投票しただけだ。そうよ、悪いことやったのは橋本よ。
 面白い間は囃(はや)しておいて、都合が悪くなるとお神輿のせいにする。
 天皇・日本、ヒトラー・ドイツ、スターリン・ソ連。
 
 自分の行動の責任というものに知らないフリをする奴は、クズの橋本以下だ、と思うのですが、ここでいってもしようがないのが残念。


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学問的前段階蜂起

2012-03-11 21:39:36 | 歴史への視角
 こんばんは。この前から相変わらず首こりと首こり頭痛になやまされて、、、、
 ってたいしたことではありませんが、これまで毎日健康で暮らしてきた人間だと、なんとも暗くなりますね。

 さて、今日は3月11日、って書いた瞬間思ったには、だからなんじゃい、みたいな。
 今日は2012年3月11日、かけがえのない唯一無二の日曜日。
 
 と、まあ、そういう心の狭い物言いはやめて、3月11日です。
 
 わたし的には、1年は早いものだ、という感じですが。ともかくもマスコミでは大変なことのようですね。普通の人には関係のないことですが。
 なんていうのも挑発的か。
 口先ばかりのマスコミ関係者のせめて10倍でも普通の人が心をとめてくれたら、問題はゼロだと思いますけどね。
 上記1行は誤植ではありません。
 マスコミも人間なら、普通の人も人間。被災者も人間。
 こうゆうシンプルなことを理解してもらえる土壌の中で、はじめて何かをいいたいものです。
 どんなマスコミも、この春が遅くてホームレスが寒くて困ってるなんて、1面に書いちゃくれないやね。
 
 そういやあ、国家公務員は被災地予算でかわいそうに10%だかの給料削減で、しかも退職金も削減だとか。
 エリートでなくても休みもとらずに頑張って公務に励んで本庁課長補佐になれた中級職が退職を目前に百万円 (退職金で2百万、3百万)を被災地に寄付した勘定ですな。
 一体世の中、被災地に百万円を寄付した個人が何人いるんですかね。ちょっとだけ上の大衆公務員がそんなことをするのは異常極まりないことのうえに、もっと異常なのは、それを誰一人も感謝するわけがないことで。
 お察し申し上げます。早く辞めちゃえばよかったのにね。
 
 さて、了見の狭い話はやめて、本日は感心した
 田中充子(、上田篤)、蹴裂伝説と国づくり、鹿島出版会、2011.
 
 趣旨は、日本はこの1万年に、平野を国土面積の2割も増やした、という話で。
 どうやって、ってそこが「蹴り裂き」で。
 湖やそれに類する沼地の出口を蹴破って、そうすると水が逃げて地面は干上がりますな、そんなことを日本人は有史までに北海道から九州まで、全ての水地を盆地、耕作地にしつづけてきた、という話で。
 
 それを縄文文化人が技術提供者として行った、という、いわずもがなの話を付け加えて。
 
 「いわずもがな」って若い人は知りませんかね。なんでそんな余計なことを言うんだよ、いわなきゃすばらしいのに、って意味ですが。
 でもセンダチ(先達)というのはそういうものです。
 どうせなに言ったって他人がきいちゃくれないなら、せめて、自分で面白いように書きますな。廣松渉の漢語癖と同じで。
 それはしょうがない。
 文句を言う奴は自分で努力したことがあるのか、ということです。
 そんなやつらはマスコミと一緒で、自分ができもしないことに文句を言うことが人間として許されることだと誤解している。情け無いことです。
 
 で、じゃあ面白きゃなに言ってもいいのか、って、マスコミの害毒と違って別にだれも痛くもかいくもありませんからね。
 それよりも大事なことは、そういうトンデモ学が、次の本当の学問の素地を作り出すということです。
 今まで誰も信じていなかった「伝説」が、それは99%は自然災害の結果かもしれないが、そういう自然のありようとして明らかにされる日が来る。そんな論文が学会誌で受け入れられる素地を作った、それだけで、未来にも誰に評価されなくとも、田中氏は学者になった意義がある、というものです。

 前段階蜂起ですな。
 
 唐突? 歴史というものはそういうものです。
 

 (注:前段階蜂起とは革命は座していては起こらない。まず期至らずと蜂起をして、それにより革命を導かなければならないという発想。
  正しい。発想は。それがいつかなど、誰にもわかりゃしないからね。
  それがたまたま外れたからといって、悪いのはそいつらではない。右翼やリベラルがけなすのはそれはそれでもっともだが、左翼がけなすなどもってのほかだ。ま、あたしゃ褒めるつもりはないけどね。ただ、けなさないのは最低限の仁義だろう。)

 
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プチ権力者と共同性

2012-01-15 21:27:08 | 歴史への視角
 えー、こんばんは。寒い日が続きます。この頃はうちのような都会の田舎は焚き火もできなくなって、風物詩というものがなくて嫌です。せめて当家まわりには枯れ木や枯草があるだけでもまし、というんでしょうか。 石焼イモ屋さんも来ないし。

 さて、ここんとこ堅い話が続きまして、書いてる方でもちょっとほとぼりをさまそうかと。
 こうゆう偏執症性のなさが私の弱点ですが。
 
 で、私の敬愛するエンゲルス氏。敬愛しても盲目でないところが普通ですが。 なんて、まだ話題が堅すぎるか。
 で、彼氏の若い作品。
 F.エンゲルス、国民経済学批判大綱、マルクス・エンゲルス選集補巻5、マルクス=レーニン主義研究所、大月書店、1955.
 を見てみました。 いつか見たいと思ってたのですが、いきつけの図書館になくて、めったにしないのですが取り寄せ。
 さすがに面白い。題を「マイ フェイボリットシング」にしようかと思うくらい。
 
 いわく
「国民経済学は、商業の拡大の自然な結果としてうまれた。単純で非科学的な暴利商業のかわりに、おおっぴらな詐欺の完成した体系、すなわち完全な致富学があらわれた。」
「できるだけ多くの現金をまきあげ、うまいぐあいに手に入れた現金はたくみに関税線内にとどめておくたみにあらゆる手段をと」る国家間の商業。「革命の世紀たる十八世紀は、経済学をも変革した。、、、それは、、、同世紀の人道的精神が駆りたててゆく結論に到達するために、、、詭弁と偽善を利用せざるをえなかった。こうして、経済学は、博愛的性質をおびることになった。それは、自分の行為を生産者からひきあげて、消費者にふりむけた。」
「諸君(自由通商主義者)が、打算的でなく、不道徳な、利己的な動機を心のそこにいだかずに、道徳的であったことがどこにあるか?」

 抜粋なんで分からないかもしれませんね。さんざん商人の悪口を並べ立てているところです。
 こういう抜粋の手の抜き方も、体力なのか、長いと悪いからという気の使い方なのかよく分かりませんが

 
 で、エンゲルス談。(その時代の)商業は、嘘と騙し合いでできているって。エンゲルスという人は製造業者の息子なので、当時、仲買人に恨みでもあったんでしょうね。 わたしなんか「やれ、やれ、」、てなもんですが。
 とはいえ、私も普通に公立小中学校を経てますんで、友達もいるし、発展しきった国の商人の一般論をそうまとめたくもなし。
 さて、どうしよう、、、ちょっと風呂敷を広げざるをえませんか。
 
 この間申し上げましたように 生理的最低限を越えた消費物資のあるところで、さらにその剰余の生産物が運搬に不便であるところでは、これを他の生産物等と交換するために、必ず交換のための媒介物を発明します。
 ご存知、カネですね。
 なんでそうなるかって、わざわざいえば、人間行為の生理的好悪、すなわち、一般に、直接的成果をもたらさない行為によって疲れることを拒否するという側面によります。
 カネは、その素性からして、最低限の生存形態以外のどんな時代にもあるものです。商業は、この剰余交換物の巨大性に応じて、カネとともに必ず発生する仕業です。

 で、商業ですが、
 もともと原始的な交易は、人間行為として種々の感情の入るものです。
 目の前にいて、いつも来る人間Aにたいして、それぞれがそれぞれに思いをめぐらす。
 この人って、子供うちと同い年だったよなあ、とか、この前騙されてひどい目に合ったぞ。とはいえ、気持ちは分かるがお灸も必要だな、とか。
 これらはふつう日常の感情。
 そうした感情の下で、現実が作動する。
 しかし、作動するからといって、それが起動力というわけではない。
 
 こうした事態は(文化人類学的=地誌的「贈与理論」ならまだしも)「贈与の経済学」やら「社会的交換理論」として役に立たない抽象化をされていますが、要するに幼稚な観念論であるのは、すべて人間の感情は、彼を規定する環境の産物だ、ということを忘れていることではあります。
 経済的取引のつもりで原始社会に乗り込んで現地の奢侈品を得ようとした白人侵略者たちが、実は憐れみの入った交換ごっこをしてもらってただけ、という事態ですね。
 原始社会というのは、交換物資がその人々の必需品である時代を指します。
 なんとか交換に応じてもらわないと誰かが死ぬ時代。あるいは暴力的に決起される時代。

 これが交換物資がカネと化す時代、すなわち、生産力が上がり、交換物資として奢侈品が作れる時代、入手できる時代となると、話が様変わりするわけです。 相手が可哀想だ、と思う気持ちにつけこんで自分だけ儲けようとするわけで。
 こういう時代は儲けた者が偉い、というか社会的に望まれている者と観念される。
 すでに古い道徳はなくなり、とはいえ、道徳基盤であるはずの宗教は残ってますから、宗教の腐敗が始まる。
 腐敗でなければ、宗教が改竄(かいざん)される。新教ですな。
 デフォー「ロビンソンクルーソー」を読むと、プロテスタンティズムの敬虔な非人間的金儲けのやり口がよくわかります。
 さらに「もっと悪くは」高利貸などという商売も出てくる。
 
 さらに時代が進むと、今度は必需品、準必需品がカネ化してきます。
 必需品系商品の時代は、商業=流通での金儲けができなくなります。
 金儲けしようとすれば労働者賃金にはねかえり、それならと生産資本家が自前で商業を始めてしまうからです。
 もちろんこうゆうのはあらすじで、実はある程度(の時代)までは流通でも金儲けができるのは、50歳以上の人なら日本の現実を見て知っていますが。
 
 というわけで、1925~1965年にかけての日本の小売商業とは、資本家が商業に乗り出すこのわずかな隙間の非資本主義的商業、「悪いけど儲けさせてもらうよ。でも、だからって儲けてばかりじゃない。社会に貢献もしなければね。」というもの。
 カネを持つことが権力となる時期で、かつ、時代T歩して、その時代の権力者はそれ以下の人間にターンバックしなければいけない時代。
 
 なんて書いてきまして、そうだねえ、こうゆうのも定式化したほうがいいのかねえ、なんて。
 
   いや、今日は、現代日本にはびこっている嘘や騙しあい肯定主義者に対するエンゲルスの小気味良さを宣伝しようと思っただけですが。

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歴史変更過程への行為者

2012-01-07 21:29:20 | 歴史への視角
 こんばんは。なんか疲れちゃいましたね。ま、わたしは疲れるようなことはしてませんが。
 だいたい、人間て半分以上他人のことで疲れるんじゃありませんか?
 
 というわけで、引き続いて、唯物史観に足りないもの。
 
 それは、「お前は『変革』というが、人民は、なぜあるときは変革行為をしてなぜあるときは変革行為をしないんだ?」という問題です(注:人民全体の問題は終わってますよ。ここではただの、状況を引っ張るかのごとき層(前衛)の問題)。
 これを答えていないから、常にマルキストには「子供のケンカアナロジー」論が起きる。相手は政府資本家なのに、おやつとったから仕返しするぞ、それにつけては共謀してやったほうが良い、先生にいいつけたりすんなよ、と同じ。「当たり前だろ、人間だから」って? そう思ってるのなら説得しません。ま、これをもって、彼らは「運動論」とか「革命論」とか呼ぶのですな。
 ほんと、この「革命論」と、近経学者の需要供給の子供の買い物ごっこ論とは、無邪気さの双璧です。
 そんな論議で社会が動くなら、社会科学はいらない。
 
 さてと、答え、第1段階。
 現実は人間に平等を求めさせる。
 すなわち、人間の自由は、「同一であるべき」他者の自由を自己の将来とさせる。
 もちろん、どこまでが同一であるかが本当の問題なのですが、今問題なのは価値観の有無だけなので、それは価値観が決めるものではない、といっておきます(それが不満の人は隈著:『行為の集成』をお読みください)。 これが心的な不満の発生です。
 さてしかし、それだけでは国家武力の貫徹する世の中で、その行為の将来をめざして行動に移すことはできない。人間は、その不満を、逆流に抗して、組織化する必要がある。
 その根拠が、一般に価値観です

 人間個人が感ずる賞賛と優越の程度は、その間に「誇り」として、そのために命を掛ける規定性を生みます。
 それは賞賛と優越が、人生の全ての行為の目標を「目的」として構成する場合です。
 たとえば、ともかく飢えているだけの人間は、ともかく食料を手に入れる算段を考え、行動するほかはない。
 しかし、口足りたまま、たまたまあと5日分の食料しかなくなった人間は、飢えて死ぬか強奪するかを考える際に、それ以前の人生で仕入れた「誇りをもって」死ぬ方法を講ずることができる。
 それはどんなことか?
 人は、これから生きようとする人生に向かって、ある者が生きる方向を集合的に現物として見せられたとき、方向性を集合的に入手する。
 それを自分もまた遂行すべきとき、と認定したときに遂行するとき、それが誇りとなります。
 人民は、自分が歴史的人民となるときは、この過程に入る必要がある。
 
 ところで、人間の賞賛と優越を形作るものは、生理性、すなわち、武力権力と共同体権力のネットワーク(内の人間を見つづけた思春期までの人々について) です。
 この過程、すなわち、ある種の権力的地位の保持者の宗教家の息子その他が人民の窮状を見かねて殉教したとき、それを見た思春期人民がこれを胸に秘め、自分の30歳を形成する。
 こうして、安定した社会の崩壊は、15年をおいて社会の変更へ影響を及ぼしていきます。
 趣旨は、権力ある限り、人間が命を賭ける価値観は復活する、ということではありますが。
 
 さて、このブログ記事3回ほどで私たちが見たことは、支配は、人間間において剰余を強制的に発生させ、その剰余によって、動産価値を発生させていくものだ、ということです。
 しかし、そればかりではなく、他方で、人間間の平等の希求という行為原則により、人間は、支配の減少と支配の交替可能性を高めていきます。
 歴史とは、この全社会的な「要請と実現」のシステムの推移といったらよいのです。

 なので、1国社会主義の基本は単純なのです。
 国家内の人民の安全において、衣食住が安定的に確保されているかどうか。
 この2つの要素がなければ、全ての試みは階級国家に終わります。
 ソ連は? 中国は?
 物言えば唇寒いところに人間の自由などないのは、誰に教えてもらう必要もありません。 

 さらに、成立している階級国家においては、人民の平等性が確保されていなければ、それは常に転覆の運命にあるわけです。
 ソ連も中国も日本も同様。
 仮に、百万が一を越えて、両者(3要素)が確保されている国家においては、計画経済であろうと、商品経済であろうと、「社会主義」を出現させることは、1国的には政治意思において可能です。
 もっともそれは、国家である限りにおいて、「共産主義」ではありえないことは、基本の中の基本として忘れないでください。
 
 ところで、日本国なんか、とても社会主義に近いですね。残念なのは、それが他の後進国を踏み台にしていることで。それが資本主義日本、ということです。
 おかげさまでそろそろ危ない。だから危うい5年+15年=20年後が、私の本の読まれ時です。
 
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生産力史観・生産関係史観・階級史観

2012-01-01 12:51:37 | 歴史への視角
 あけましておめでとうございます。

 ほんと1年早すぎて。今年の抱負は良く遊ぶこと、と言ったのは去年だったか、おととしだったか、、、早すぎて抱負も設定しがたい。

 さて、今日の本旨は年末の追加。
 関連話で、左翼論壇では、マルクスの唯物史観は生産力史観か生産関係史観か階級史観か、などという話がありまして。
 なにがマルクスだよ、ちっとは自分の頭で考えろよ、ウスラバカ。その点アミンは偉いな、などと思うのですが、まあ、そういう方たちも食べていかなければなりませんし。論壇には論壇のお約束というものがあるんですな。いくら正しいことでも(私のような)馬の骨のまましゃべったら飢え死にするだけで。

 で、雑駁に言うと
 1 生産力史観
    生産力が高まってはじめて生産関係が変わる(=後進国革命は資本主義しか作らない)

 2 生産関係史観
    革命主体は生産関係(の中で育った人間)が決定するものである。ついで、彼らが新しい生産関係=所有関係(=国家「共同」所有)を実現する(=後進国でも社会主義ができる)

 さあ、どっちが正しいか、ということで、要するに、ソ連は社会主義か、って話です。
で 、も一つはちょっと次元がずれますが

 3 階級史観
    共産党宣言に、過去のすべての社会の歴史は階級闘争の歴史とあるから、本来、マルクスは階級闘争史観である。
    
 さて、本当は?
 マルクスがどうかは別として、本当は全部正しい。
 
 もともと唯物史観というのは、現象的には、階級の交替史観なのです。
 
 まず、第1の過程で、支配階級が必ず発生し、支配階級は剰余の入手の確保をめぐって、次なる階級に支配武力を渡す。

 ですからこれは、本質的には剰余物資の質的多さに依存する生産力史観なのです。
 (「質的」っていうのは、保存可能であり、かつ生理的に益のある物品の生産力に限るから。
 たんに穀物が豊作で人が遊んで暮らせるだけだと、人的労働力の剰余しか使えません。
 その結果は人的労働力の無益な蕩尽、お祭りや巨大建築物作成しか結果をしないことになります。)
 
 次に、第2、支配階級において剰余物資の更なる入手がうまくいかなくなって次の階級と交替するのは、その生産力を確保保全する生産関係がこのままではならず、別の生産関係に切り替えなければならないためです。しかして、これが生産関係史観です。

 で、この両者は矛盾するんですかね?
 どこも矛盾しない。
 マルキスト諸君も「生産力と生産関係は表裏一体」とか口先でいうけれど、だあれもこんなほんとのことなど知りはしない
 
 で、階級史観です。
 階級史観と階級闘争史観とは違います。
 階級史観とは、社会システムの背後にある規定性をいいます。
 一方、階級「闘争」史観は、現象の表現です(だからアホなアメリカ人がよく使います)。
 それは表現ですから、その同じ状況について、「社会の歴史とは、階級の中で平和を目指しつづける歴史、平和の歴史である」と表現しても、何も代わりはしません。階級闘争史観でも階級平和史観でも同じ。何の意味もない言葉です。

 もともと階級史観とは、そんな有象無象(うぞうむぞう)がおしゃべりするような、階級間のケンカ史観ではありません。
 階級の存在とは、資本主義社会においては、まず国家支配者とその他の存在、第2に資本家と労働者の存在ですが、これらの間で肉体的闘争を続けていなければいけない、という法はない。
 闘争現象が起こらなくとも、起こらないように収めるシステムが必要となる、あるいは、者気の諸競争に現象して社会のシステムを形作る、あるいは、権力とあいまって、どこまでたっても終わらない商品増大現象の心的原動力となる、その他、書くのも面倒な社会システムの規定因になる、そんな規定因が、次の社会変動を根本規定している、ということなのです。
 (どんな根本規定かは、隈の『行為の集成』をご覧ください。)


 さて、これでは、「唯物」史観だ。
 あたりまえですね。唯物史観の説明だから。
 実際それは社会科学の根本ですから、ここまででよいのですが、本当のことを言うとこれでは論が完結していない。
 論は、人間の行為で収束しなければ完結しない。「行為論的」唯物史観。
 
     そこは次回で。ではまた来週。今年もよろしく。
コメント
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