リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

最後の一線を越えた政治家

2011-05-10 22:44:20 | 歴史への視角
 こんばんは。私の好きな朝日新聞夕刊人生相談の明石哲也さん(ごめん、明川さん)、今日は、「人間、頑張ろうじゃなくて、何をすれば頑張らずに成果を上げられるか考えてみよう(僕なんかぐうたらでどうしようもなかったけど、好きなことは頑張らなくともできる)」、みたいな話で、へえ、そうですか、そういってくださいますか、みたいな感じでした。
 私なんざぐうたらで頑張ろうにも何にもできなくて、もう自分で情けなくって話にならない。
 ほんとそう言ってくださると、ほっとしますよ。

 そんなことを言うと、はたから「てやんでえ」といわれる私のようなおじさんでさえそう思うのだから、若い人はもっとなんじゃないかな。
 いや立派な人だ。
  この人のネックは家庭生活だと密かに思うのだけれど、そんなことを思うことに何の意味もないほど立派な人だと思います。 絶賛。

 それはそれ、夜も(私には)遅いのに書いてしまう情け無い外界。
 民主国家なる政体において、政治家の最後の一線とは何か、
 国家権力のロボットになるか否か、ということですな。
 政治家は権力の行使者となることで、人民から離れた「権力者」となる。
 それは主観的には権力の輝かしき自主的行使者であり、歴史の中では、歴史に抗すことも忘れて果てた、要するに名前のない権力者そのAです。
 で、オバマです。

 「(ビンラディンを殺して)大量殺人の加害者に対する仕打ちに文句があるやつは頭を調べたほうがいい」などと言ったという盗人猛々しい話。
 それこそヒットラーでも東条英機でもそこらのヤクザである右翼も、ゴロツキ左翼も、およそ権力(ないし対抗権力)の手先のみが語る言葉だ。
 権力者が権力を行使してよい理由は、その人間の感情が法によって抑制されているからなのだ。感情で動いていいのは、赤ん坊だけだ。
  
 当然だろ、あほんだら。
 頭に来たら他人を殺していいのか。
 それでよければ殺人被害者家族が泣いて喜ぶぞ。 さすがじゃないか、オバマ。
 
 もうキミの使命は終わったんだよ。もともとキミの使命はといえば、「有色人種がUSA大統領になる」そのこと自体しかないんだから。
    勝手に死ね。
    (ではなくて、論理上、お前も殺されてもしょうがないのだ、先に列挙したクズどもと同様。)

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