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事実証談 神霊部(上) 50~52 鳴いたり、物言う木の怪

(今日、取材に行った山宮神社の御神木のシイノキ、
今日の話と直接関係ないが、何とも異形で、
この木なら物を言っても不思議はないと思えた)

物を言わない木々が、鳴いたり、物を言ったりすれば、怪しきことになる。風の仕業であろうか、鋸の音が反響するのであろうか。それを木々が発する声と聞くのは人間である。怪しきはそういう人間の方かもしれない。現代にも木々が発する声が聞こえるという人がいる。現代らしく、科学の味付けがされているが、怪しい点に変わりはない。

巨木巡礼をしていた頃に、病院に勤めていた娘から、安物の聴診器を手に入れて、何度か木の幹に当てゝ見た。音は確かに聞こえた。木々が水を吸上げる音だと誰かが話していたが、枝を揺らす風の音だったのかもしれない。

事実証談、神霊部(上)の第50話から第52話までは、木々から聞こえた怪しき音や声の話である。それ自体が崇りを引き起こしたという話ではない。

第50話
同郡尾高庄、半三郎居屋敷は山添いにて有けるが、裏なる山の中腹に高さ五尺ばかりなる大石あり。その所を山神と言える由。その大石の傍らに周廻(めぐり)三尺余りの栗の木有りけるを、文化十一年の九月、その家の嫡男、藤五郎伐り取らんとて、伐りかゝりければ、貝を吹く如く鳴りける故、驚きて見れば、則ち止みたりしを、怪しき事に思い、家に帰りて天宮村の木挽(こびき)金蔵という者、藤五郎の家に居合わせしに、しかじかの由、物語る。則ち金蔵を伴ない行きて、又伐らんとするに、貝吹く如く鳴りける故、二人ともに怪しみ、その木伐ること止みにしと、則ち金蔵の物語りなり。
※ 貝吹く - ほら貝を吹く。

第51話
同郡幡鎌村草苅山(猪の野田といふ所にあり)に、茱萸(なわしろぐみ)の大木あり。凡そ十間余に蟠(わだかま)れり。近頃故なく、その木、時々貝吹如く鳴らし、事有りしが、その村の者にても、如何なる故と知る人無しと言えり。
※ 茱萸(なわしろぐみ)- グミ科の常緑低木。暖地の山野に自生。枝はとげ状になり、葉は長楕円形で縁が波うつ。秋、白い花が垂れて咲き、実は翌年の田植えのころに赤く熟し、食用となる。はるぐみ。

第52話
浜名郡元白須賀なる高見という所に、周廻(めぐり)壱丈余の松の古木あり。この松、往昔御本陣の庭の松なりしと言い伝えたり。寛政と言いし年の初めの頃、その松に物の声ありけるを、人々怪しみ、近寄りて聞くに、その声遠くて聞くも同じ事にて、物の鳴き声の如くなるを、よく/\窺えども、物有るにもあらざりしと、今に言い伝えて、怪しき事なりと言えども、如何なる故にか、知る者無しと言えり。
※ 元白須賀 - 旧東海道、白須賀宿は元は海辺にあったが、宝永4年(1707)に発生した宝永地震と津波により壊滅したため、その後、潮見坂の上の高台に移された。元白須賀は移転前に白須賀宿があった所である。
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事実証談 神霊部(上) 43~49 各地社木、倒木・落枝の怪

(周智郡森町村、隨松寺)

風も無いのに社木の大枝が折れる。大木が倒れる。折れ口を見ても若々しい。往昔の人は、そんな現象を怪しみ、何ゆえかと考え、崇りを恐れて、祭りをしたり、祓い清めたり、崇りが無ければ胸を撫で下ろす。触らぬ神に崇りなし。事実証談、神霊部(上)の第43話から第49話までは、そんな話が続く。

第43話
同郡森町村、隨松寺という寺に、文化三年、故有りて、人数多寄り集りて有りしに、寺の西北なる山の大松、風もなきに折れたりしかば、人怪しみ占(うらない)せしに、火災の兆(しるし)なりと言いしが、日を経ずして、かの松折れし山の持主の家の灯籠に、火付きて騒ぎしと言えり。


(周智郡宮代村、神明社)

第44話
同郡宮代村、神明社の前、道際(みちぎわ)なる松の、大枝風も無き日に折れたりしが、如何なる故という事を知らずと言えり。


(周智郡赤根村、天神社)

第45話
同郡赤根村、天神社の傍らに生い立てし大松の木の大枝、文化十三年八月七日九つ時頃、風も無きに折れしが、周(めぐり)り廻り凡そ五六尺有る大枝にて、いさゝか損じたる所も無く、朽ちし所も無きに、折れしは如何なる兆しならんと、怪しみしに何の障りもなかりしと言えり。

第46話
豊田郡境松、天王社の祭礼は、毎年六月七日神輿を見付駅惣社に遷し祭りて、十五日還御なりけるに、文化十三年六月八日、その道筋なる並木の松、故なく折れしをも、如何なる崇りにかと怪しみけれども、いさゝか障りなかりしと言えり。

第47話
同郡松尾郷、松尾社の社中なる松、いと長閑なる日、倒れし故、如何なる兆しならんと怪しみしに、その年は何の障りもなかりしを、翌年同月同日、神主守屋丹後、病死せしと言えり。また文化と言いし年の初めの頃、同社の松が枝、七月の頃、折れたりしを、また如何なる事のあらんと怪しみけるに、同月、社人文左衛門の家、焼け失えしが、その兆しにて有りしかと、守屋氏の物語りなり。

第48話
同郡草崎村、若松明神の社木、故なく折れしを、人皆怪しみ、臨時の祭をなせしと言えり。

第49話
佐野郡細谷村、八左衛門、乙吉居屋敷の境なる大松、文化三年七月十四日より、みり/\と響き有りて、折れんとする様なるに、人怪しみて、かく風も無く長閑なるに、周辺一丈五、六尺の大松の、故なく折れなん事こそ不審けれ。これは屋敷の境には生れ立ちあれども、往昔より天狗の宿り木と言い伝えし木にてあれば、神の崇りなるかと怪しむのみにて、その由を知る者なし。

倒れなば家をも圧し倒さんとて、諸道具をも他家に運び移せしに、翌十五日の四つ時頃、家にも触らず、折れ下りしとなん。その松の大きなりし事は、根より二間ばかり上にて、大臼造りしと言えり。かゝる大木にて有りしを、その折れ口はいさゝか朽ちたる所も無かりしとぞ。

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事実証談 神霊部(上) 41~42 月役の女の穢れに反応した社木

(事実証談より、天宮全図、右手に梛の木が描かれている)

古来、日本では、神聖な場所における血の穢れが忌避され、タブーが幾つも出来ていた。山や寺院など、女人禁制の地が沢山あった。女性は、月経、出産など血を見ることが多いから、立ち入ることが禁じられた。女人禁制ではない神社も、月役時や出産後しばらくは、立ち入ることをはばかる風習があった。そういうタブーを破った女性はすなわち「乱心」したことになる。時代小説のチャンバラ場面で、寺院や神社の境内を血で穢してはならないと、場所を選ぶケースをよくみるのも、同じ発想であろう。

血を忌む風習は、日本が農耕社会に移行した弥生時代以降に生じた風習ではないのかと思う。狩猟、牧畜の社会では生贄の風習が一般で、現代でも血はある意味で神聖視されている。

事実証談、神霊部(上)の第41話、第42話は、月役の女性の穢れに反応した社木の話である。

第41話
豊田郡赤池村、天白社有り。天明年中の事なりしが、同村の西宮社の鍵取、仙蔵という者、ある日、かの天白社の辺りを通りけるに、その社にて木の倒れし音しける故、立ち寄り見れば、廻り五尺余も有りける松の木、中段より折れたるなり。

風もなきに若木の折れしは、ただ事ならじと不審に思い、その氏子の者に告げて糺さしめしに、その頃、乱心せし女、その辺りを狂い歩行(あるき)しに、月役をも憚らず、その社を穢せし故なるべしというにより、祓い清めたりければ、別に崇りはなかりと言えり。
※ 月役 - 月経。月のさわり。月のもの。

第42話
周智郡天宮郷、天宮御社の側に梛の大木ありけるが、寛政年中、ある女乱心して、月役を憚らず、その木の辺りを狂い歩行しかば、それより、かのの大木、紅葉して半ば枯れたるを、祓い清めたりければ、また若葉生い出て、なお常磐に栄えけるゆえ、注連引きはえて、神木とはせり。

※ 梛(なぎ)- マキ科の常緑高木。暖地に自生し、高さ約20メートル。葉は対生し、楕円形で厚い。雌雄異株。熊野神社では神木とされる。また、凪(なぎ)に通じるので特に船乗りに信仰され、葉を災難よけに守り袋や鏡の裏に入れる俗習があった。


(天宮神社のナギ)

第42話の天宮神社の梛の大木は現在も変らぬ位置に存在する。先日、訪れた時に写真を撮ってきた。「天宮神社のナギ」は静岡県指定天然記念物で、樹齢一千年余、天宮神社は、宗像三神を迎えて創始された時、欽明天皇の御代(6世紀)に、記念樹として植えられたと伝わる。昔、巨木巡礼で訪れたときと比べると、支えが増えて頑丈になったのと、樹相がやや薄くなったように見えた。境内の隅に、歌人佐佐木信綱の歌碑があった。

   天の宮 神のみまへを かしこみと 千とせさもらふ 竹柏(なぎ)の大樹は

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事実証談 神霊部(上) 40 本宮山の伐木の崇りと遠州灘方角定めの火

(道端に生えたサルスベリの花、
向いの親木から飛んだ種が芽を出したのだという)

名古屋のかなくん一家が、午後名古屋に帰って行った。半月に及ぶ夏休みで、その間、夜は裏の部屋に押し込められたムサシは、ストレスからか、前足の指間を舐めて、炎症を起こし、昨夕動物病院へ行った。今日はダイニングの定位置で、安心したのか、熟睡しているようだ。しばらく振りで、静かな日常が戻って来た。

   *    *    *    *    *    *    *

事実証談、神霊部(上)の第40話は、本宮山にある小国神社の元の宮、奥岩戸神社にまつわる話である。

周智郡上郷、小国社の本宮と称して、天宮郷薄場村奥山に奥岩戸大明神という社有り。その社に続きし山林を、その村にては百姓持山なりと言い、本社の神主はかの社の境内なりと言い争いしが、終に百姓の物となりて、その山林を売り払いしに、その山買い取りし者、寛政四年伐り初めしより、手足かゞまり付き、起き臥しさえ、人の助を得てなせり。

またある時、その山に雷落ちて、杣人天宮村徳右衛門、喜代助、ゆゝしき障り有りしと言えり。されどかゝる事を神の崇りとも知らずや有りけん。その山林は伐り終わりて、杉、檜の板を同村清十という者の家に、あまた持ち運び、積み置きしに、雨い多く降りける日、出火して、清十方に積み置きしは、残りなく焼失しは、誠にいみじき御荒びになん有りける。

かくて、かの山林買い取りし者は、そのまゝにて、十六、七年世に有りて、近き年頃、死にたりしを、この記集撰につきて、問い合わする度毎に、かの者難病にて有りけるを以って、これは誠に社木を買い取りし崇りにてあれば、後世の人の為に、この事、集記の片端に記してよと、自罪を悔いての物語りなりき。

(ちなみ)に曰(い)う。遠江灘七十五里は、名にしおう難海にて有けるを、通船夜に入りて方角分き難き時、この本宮山に祈願し、火を乞い奉(まつ)れば、必ず火の現るゝと言い伝えしを、実に然りと見えて、近来度々その礼謝なりとて、尾振りといゝて、魚を奉りし事ありと言えり。


本宮山(海抜511メートル)には、10数年前に、社内ハイキングで登った記憶がある。途中に、葛布の滝(一の滝)があったような気がするが、定かではない。あるいは、葛布の滝を見たのは別の時だったのかもしれない。また山頂にどんな社があったのか、思い出せない。これを機会に一度登ってみようかと思う。

江戸時代、遠州灘を夜間に航行する船にとって、山上にわずかに灯る火が大切な道しるべになったことは、何となく想像できる。ただ現在は山頂も木で覆われて、山頂からは海を見ることすら出来ないかもしれない。
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横内川通船一件控え帳 7 - 駿河古文書会

(畑のデコポン-実がそれらしくなってきた)

昨日の続きである。

廿二日、曇天、夕方小雨降る
御城水落より上土まで、水盛杭改め置き候

廿三日、曇天
御普請役大塚唯一郎様、御壱人にて、水落より上土まで、水行きの御見分成られ候、当村御案内源吾、沓谷村御休みにて仰せ聞けられ候は、村々高反別、家数、人別、取り調べ、掘り坪の積み立ても致し、差し出すべき旨、仰せ付けられ候に付、昼後沓谷村へ出会仕り候

廿四日、天気
御勘定御組頭、佐藤重兵衛様、御普請役、大塚唯一郎様、昨日の通り、水落より上土まで、水行きの御見分成られ候、右出役先へ上土にて、書付差し出し申し候、書付左の通り

  土坪(どつぼ)掘り勘定
  深さ三尺、掘り壱坪        賃銭壱貫文掛り
  深さ四尺より六尺まで、掘り壱坪  賃銭壱貫五百文掛り
  右の通り、積み立て差し上げ申し候

六月廿八日、天気
御勘定御奉行、跡部能登守様、難波屋へ御着、最寄り村々一同、御機嫌伺いに罷り出候、丹平方に出会

廿九日、天気
御普請役、渡辺宇一郎様より急廻状到来に付、拝見仕り候処、明朔日、御勘定奉行、跡部能登守殿其外一同、御見分のため、罷り越し候に付、井筋見合い置きたく、早々村役人罷り出案内致すべき様これ有り候に付、村役人一同、早速罷り出、御案内仕り、古川、新川相分かり候様、笹竹を立て、紙を付け置き候、その上、先だって水盛り致し候杭相改め、審(つまび)らかに致し置き候

七月朔日、天気
跡部様その外、御勘定、御普請役様方一同、御代官様並び御手代、相沢様、石黒様、町与力同心御一同、御越し御見分遊ばされ候、横内下、あらやより御立ち帰り成られ、水落の左右、御分見成られ候、それより上土まで御見分遊ばされ、上土、御昼弁当、昼過ぎ、浅畑沼まで、御入らせ遊ばされ、八つ過ぎ御帰り、耕地境まで御見送り仕り候、夕方、久左衛門、御陣屋、相沢様、石黒様へ御肴持参、御伺いに罷り出候処、相沢様より仰せ聞けられ候は、明日一同、巴川通りへ、罷り越し候に付、その段、道筋へ通達致すべく候処、触れ落ちに相成り候間、手前より通達致すべき旨、仰せ付けられ候に付、帰り掛け横内町へも、その段申し置き、下足洗、沓谷へも手紙差し出し置き候

二日
御勘定奉行様外、御一同、明六つ時、御通り遊ばされ候に付、横内下より、久左衛門、三右衛門、義兵衛、三人にて、御案内仕り候

同日、大塚様、石川様御出にて、横内上、御積り替えの処、御分見成られ候に付、急に呼び立てられ、人足弐人、召し連れ、昼前相掛け、左右共水落よりあらやまで分見相済み候、来迎院門前間数、拾間、それよりあらや井川取り付けまで、百四拾一間、人足、豊八、勘四郎、半日
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横内川通船一件控え帳 6 - 駿河古文書会

(大代川の土手にいっぱい咲く高砂百合が我が家の庭にも咲いている。
消毒しないから、アブラムシが着いているが健気に咲いている。)

本日午後、駿河古文書会に出席する。前回に続いて、横内川通船一件控え帳が課題である。

(六月)十八日
土井敷地の義に付、沓谷村へ出会い、相談の上、左の通り書付相認め、内調べ仰せ付けられ候、町組同心、長嶋団右衛門様へ、差し出し置き候

 御尋ねに付 恐れながら書付を以って申し上げ奉り候
今般、横内川通り舟路に相成り候に付、川巾土井敷地、これ有るべき筈、御尋ね御座候処、川巾の義は横内町下より沓谷村大橋までの間、弐間弐尺、右大橋より上土村落ち口までの間、弐間壱尺、土井敷地の義は古来書物など穿鑿仕り候えども、相分り申さず、併しながら老人よりの聞き伝えには、村々居宅川端通りに、往古は壱間の細道御座候趣、承り及び候、もっとも田方の義も右に准じ申すべきと存じ奉り候間、右の段、御答え申し上げ奉り候、以上
  卯六月
                     上足洗村
                     下足洗村
                     沓谷村
                     上土新田
                     下足洗新田
  長嶋団右衛門様         川合新田
                      右村名主連印

廿日 曇天
御普請役様方一同、府中へ御越しに成られ候に付、彦作様と丹平方へ落ち合い、旅宿へ御機嫌伺いに罷り出候、彦作様は長嶋様へも、内々様子伺い奉り候処、何の分り候咄しもこれ無く帰り申し候

廿一日 曇天小雨も降ル
御普請役様より御呼出しにて、御旅宿足名屋まで罷り出候処、先達って水盛致し置き候杭改め、井口の土井木残らずはずし置き候様、仰せ付けられ候に付、帰り掛け横内へもその段申し達し候、もっとも明日御見分成られ候に付、人足弐人用立て仰せ付けられ候
※ 水盛(みずもり)- 細長い材に溝をつけて水を入れ、土台面などにのせて水平かどうかを測定すること。また、その器具。みずばかり。水準(すいじゅん)。

上書、家数人別書き上げ帖
             覚え
高九百参拾九石九斗七升
 内訳
  高四百八石六斗八升七合         池田岩之丞
    此反別三拾壱町九反八畝廿四歩      御代官所
   家数弐拾四軒
    人別百四拾八人  内 八拾弐人 男
                  六拾六人 女
  高五百参拾壱石弐斗八升三合       松平丹後守
    此反別四拾壱町五反五畝弐拾歩       領分
   家数拾七軒
    人別九拾参人   内 五拾弐人 男
                  四拾壱人 女
 外に
  高三拾三石壱升九合           明屋敷七番
   この反別弐町六反七畝廿六歩       勝右衛門組
  右の通り相違御座なく候、以上
   天保十四卯六月         村役人
    通船御用             残らず連印
      御役人中様          帳面差し出し申し候

(明日へ続く)


講師の話では、この横内川通船問題も含めて、巴川流域、浅畑沼治水などの問題は、江戸時代に争われた、駿府における三大訴詔というべき、「茶一件訴詔」「やな一件訴詔」「入会山一件訴詔」と並んで、大きな問題であったという。
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事実証談 神霊部(上) 37~39 社木を伐り一家退転或いは断絶した祟り

(赤木正雄生誕の赤木家屋敷)

幼稚園が夏休みで、名古屋のかなくんはママと我が家に避暑?に来てから2週間くらい経つ。島田のパパの実家に行ったり、掛川のまーくんの家へ行ったり、出たり入ったりで忙しいが、我が家が主たる宿泊所になっている。暑い中を、あちこちの昆虫展に連れて行ってもらったり、町のプールに行ったりと、自分は孫の相手はしないけれども、島田のじいじやばあば、金谷のにいになどが連れまわってくれている。明日は掛川のまーくん、あっくんの家で、流しそーめんをするとかで、今朝名古屋から合流したパパ共々呼ばれて行くらしい。思い出に残る夏になっただろうか。

   *    *    *    *    *    *    *

「事実証談 神霊部(上)」も、あと20話ほどである。「神霊部(上)」が終っても、事実証談はまだまだ続くのであるが、そこで一区切りとして、気分を変えて、他の古文書を読むようにしたいと思う。

本日は、事実証談 神霊部(上)第37話から第39話までである。

第37話
榛原郡志戸呂庄なる祠官、寛政年中の頃、往昔より境内にて、伐らざりし所の社木を、伐り取りしより、その家に凶事のみ打ち続き、国にも居住なり難き事出来て、他国へ出たりしは、皆社木を伐り荒らせし崇りならんと、かの家の親族の物語なり。

第38話
豊田郡奥山領明神社、神主価(あたい)百両ばかりの社木伐り払いしかば、その家の家族皆死に失いて、今は他人を以って相続せしも、必ず崇りなりと言えり。又周智郡にも同例あり。同じければ畧(はぶ)きぬ。

第39話
豊田郡池田庄、岩田社の鍵取、社木を伐り荒せしより、主心乱れて物に狂い、公田五拾石ばかり有しを、年経ずして失い、今は社領三石目のみ残りしと言えり。また荒神社鍵取も、寛政年中、社木を伐り荒せしより親族死に失いたりしが、これまた同じ崇りなりと、その池田庄の某が物語なり。


この三話もそれぞれの場所が特定できず、訪れることが出来なかった。

社木を伐り、崇られた話が続くが、以前「巨木巡礼」で巡った神社で、資料を調べて出掛けた巨木が、いつの間にか伐られているのをたくさん見てきた。枯れた、倒れた、或いは安全のため、更には本殿を建替える資金捻出のため、など、色々な理由が着いていたが、「事実証談」の時代であったならば、崇りの元になったはずである。しかし、そんな話は全く聞かなかった。ただ、伐るに際しては丁寧に御祓いをして貰っているとは聞いた。確かに「事実証談」の崇る話には、御祓いしたという記述がない。社木などを伐る際に、事前に御祓いをする習慣は何時頃から出来たのだろう。
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砂防の神様、赤木正雄 - 墓参に帰郷の三日間

(赤木正雄銅像、いつも登山家の服装にリュック姿だった)

七日、アクアで帰郷し、円山川の土手から市街地に入る右手に、水防小屋の裏に隠れるように、昔の山歩きの姿の銅像が円山川に向いて立っていた。「あんなところに銅像が!」実家で次兄に聞くと、故郷が生んだ砂防の神様と言われた赤木正雄氏の銅像だという。赤木正雄という名は、どこかで聞いたことがあるが、その人生に付いては全く知らなかった。


(円山川改修碑と赤木像)

初盆に参ったあと、そこへ立ち寄り写真を撮ってきた。土手下で、銅像の回りは小さな公園になっているが、水防小屋が出来て、道路からは陰になって目立たなくなってしまったと次兄が話す。公園も夏草に覆われて、足を踏み入れるのが躊躇われるほどで、郷土の偉人もこんな風に段々忘れ去られるのだろうと思った。

その台座の碑文によれば、
豊岡市の生んだ赤木正雄農学博士は、我が国砂防の神とまでいわれていることは、ひとり博士の名誉と栄光にとどまらず、但馬の誇りでもある。博士は長い内務省生活を通じ、また貴族院及び参議院議員としての政治的立場からも、自ら全国各地に赴いて、治水砂防事業の必要性を説かれ、県下では六甲をはじめ円山川、矢田川水系の砂防並に円山川改修等に残された業績はまことに大であり、住民ひとしくその恩恵に浴し、永久にその功績を讃えるものである。(以下略)


(赤木正雄生誕地碑、背後に見えるのが、赤木氏の実家)

翌日、丹後半島一周のドライブに出かける途中で、赤木氏の実家の手前の道沿いに「赤木正雄生誕の地」の碑があることを次兄が教えてくれた。

その碑の略歴によると、
博士は碑の南の地に、明治二十年三月二十四日、赤木家十一代甚太夫次男に生まれ、旧制第一高等学校、東京大学卒業、大正三年内務省に入り、治水工事に従事、令兄の勧めにより、大正十二年より二ヶ年間、西欧諸国に渡り、ウヰーン工科大学等にて研究、帰国後内務省にて、全国各地の砂防治水に関与、全国治水砂防協会を創設し、昭和十七年貴族院議員に勅選、同二十二年参議院議員に当選、建設次官任命、昭和四十六年豊岡名誉市民に推さる、同年文化勲章受章、昭和四十七年九月八十五才にて逝去、従三位勲一等瑞宝章に叙さる。

この碑には書いてないが、赤木氏は豊岡中学校(旧制)の卒業生である。豊岡中学は我が母校の豊岡高校の前身でもある。つまり、赤木氏は自分の大先輩に当たる。

実家へ戻ると、次兄が「赤木正雄先生追想録」という本を貸してくれた。赤木正雄氏が亡くなった後に出版された、縁(ゆかり)の人々の思い出を集撰した本であった。もう昔に亡くなった伯父の蔵書から頂いた本だと言い、赤木氏の小伝も付いていた。

パラパラ見ていくと、紙が挟まれたページに伯父の思い出文が載っていた。貴族院議員が、戦後民主主義になって、参議院議員の選挙の洗礼を受けることになったとき、伯父はどうやら但馬赤木会の事務局長をしていて、選挙運動で、演説の露払いの役割を果たしていたらしい。飾らない人柄を紹介している。どこへ行くにも、登山家のような服装だった。いつでも、治水砂防の現場に出向くことが出来るようにという理由であった。
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事実証談 神霊部(上) 36 渥美氏の持山の稲荷社の伐木の祟り

(丹後半島伊根湾、8月8日撮影)

事実証談 神霊部(上)第36話は、渥美氏の持山の稲荷社の伐木の祟りの話である。稲荷社との持山の境界に植えた桧の所属争いが発端で、話がかなり複雑である。伐木に関わった人々に退転したり、退役したり、家族が疫病で死んだり、身内が狐付きになったりと、様々な崇りの形が出現する。

稲荷社の特徴として、狐付き(憑き)が出てくる。狐憑きは、狐に化かされるのとは、また違ったもののようだ。狐が憑くという現象は、昔はざらにあったことのようだが、現代では影を潜めている。一種のヒステリー症状だと考えられるが、そのような状態にどうすればなるのか判らない。精神を極度の高揚させて、そういう状況を自ら引き起こすこともあるようで、一種の祈祷師にそういう人もいたようだ。

現代は科学が発達して謎も解明されたと思う一方、狐憑きをヒステリーと言い換えても、どういうメカニズムで起きるのかが解明出来ない以上、だた言葉を変えただけに過ぎない。科学と言っても、まだまだその程度の段階の事柄が多いように思う。

天龍川の渚(みぎわ)なる渥美家の持山に稲荷社有けるが、その社の裏に村の持山ありて、その境の印に大なる桧の有りしを、文化三年の春、その所預かれる人々、その木を伐りしめんとするを、渥美氏社木を伐る事いかゞと言いけるを、三人ともに強いて伐りしめたりしかど、社木にて有りければ、則ちその木を以って、稲荷の小祠を新たに造らしめたりしかども、社木伐り取りし崇りと見えて、三人の内一人は吾妻に下りて障り有り。一人は退役したり。

また一人はかの社木を以て、これかれと物造らしめたりし故、同年の四月頃より、その家に疫病起りて、別腹の姉は七月廿七日病死せり。また妻は五月朔日より煩い付きしが、その頃別腹の姉に狐付きて、種々の怪有りて退けんとすれども退かず、その狐の住所を尋ぬれば、天竜川の渚(みぎわ)、市左衛門新田に住む狐なる由。

かゝる悩みの中にて有りければとて、七月九日、妻をば親里へ送りて治療なさしめんとて、駕籠にて送りけるに、その日子守の下女に、また狐付きて、中旬の頃まで退かず、中旬過ぎて暫く退きしが、廿日頃、またかえり付きて、廿四日に退きぬ。

それより種々の障り有りし故、その狐をば、七月十二日に小祠を建立して、祭りしかども鎮らず、二里ばかり遠き親里へ預け置きし主の妻に付きたりし故、その始めよりその家にありて取なせし、義信という人、大いに怒り、書状を認め、かの妻に付きし狐の方に送りて諭し、また遷し祭りたりけるによりて、鎮まりしと言えり。(事繁ければ委しくは書き記し難し)

これは衆説数多有りて定め難かりし故、かの家に有りて始めより、事取り計りし義信の委しき物語を以って記しぬ。
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事実証談 神霊部(上) 33~35 さらに社木を伐って崇られた話

(豊田郡虫生村、熊野神社)

この暑さは何時まで続くのか。まだ二週間くらいはアラフォーの最高気温が続くのだろうか。当地は昨日、今日と昼間は暑くてクーラーのお世話にならずにはおれなかったが、夜は涼しく感じられるようになった。今夜から明日の未明にかけて、ペルセウス座流星群が見られるというので、先ほど外へ出てみた。今日の月齢は5.2、月も西に沈んで、暗いはずの星空が随分明るく、カシオペアのある北東の空は星が数えるほどしか見えない。これでは流星群も見えそうにない。ブログを書き終わったらもう一度見に出てみよう。

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事実証談 神霊部(上)第33話から第35話までは、社木を伐って崇られた話で、乱心自害したり(第33話)、疫病死したり(第34話)と、崇りは往昔の人々には恐ろしいことだったと思う。そんな崇る社木の中には、貉(むじな)を祭った社もあると、貉社の謂れを紹介したのが、第35話である。

第33話
豊田郡池田庄、諏訪社の鍵取、大橋家の祖父、元文年中、社木残りなく伐り取りて、その代りとして、杉木二本植たりしを、また天明年中、嫡男家作せんとて、かの二本の杉木を伐り取り、一本は大黒柱となし、一本は勝手方の柱として、家作をなしけるに、移福(わたまし)の夜、その家鳴動せし故、地震かと驚きて、隣家に問えども、地震ならずと言いける故、いたく怪しみしに、それよりかの嫡男乱心し、ただ自滅せん事をのみなしける故、番人をして守らしめしに、ある夜、密かに剃刀を出し自害せんとて、その箱を落したる物音に驚き、見付けて奪い取り、いよ/\厳しく守り居たりしを、昼夜の事にて、番する者も労(つか)れて眠りし隙(ひま)を窺い、忍び出で、その家の門先なる松が枝にて、縊死(くびれし)せしとなん。
※ 移福(わたまし、渡座)- 転居。引っ越し。

第34話
豊田郡虫生村、熊野権現社の社木を、同村庄屋善兵衛という者と、長勝と言える杣人と両人して、天明八年の頃、伐りたりしかば、それより両人の家にのみ疫病起りしによりて、神の崇りならんとて、かの社に苗木を移し植え、祈願せしかば、疫病の気、鎮まりしかど、かの善兵衛は疫病にて死せしと言えり。

第35話
同郡中部村に貉(むじな)社とて、いさゝかなる小祠有りけるが、その辺の木は枝葉にても薪とする時は必ず崇り有りと言えり。同村半次郎、儀八という老人に、如何なる由にて貉を祭しと尋ねけるに、往昔、貉を打ち殺せしが、崇りし故、神とは祭りしに、その霊、今に崇りある事、怪しき事なりと言いしが、かの両人も昔より言い伝えのみにて、神と祭りし事は何時の頃とは知らずと言えり。かゝる獣(けだもの)を祭りし小祠にても、崇りあれば、すべて山方にて山神、また社子神(しゃぐじ)などいう所には小祠とても無けれども、その辺の木を伐りて怪我する事の多きは、皆神の崇りなるべし。
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