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田子乃古道 2 三股淵の生贄と七人の神子

(富士川水神の森辺り、右側の森が水神の森、
昨年12月13日地蔵巡りで、国道1号線富士川橋より撮影)

「田子乃古道」の解読を進める。

見附宿の河上は生贄、古帳面に堤(つつみ)添いの外畑は生贄分と記す。旧古を伝え聞くに、水神の森は岩渕山より尾根続きなり。富士川の本瀬の流れは、岩本より東へ川久保を通り、柄沢より日吉下へ流れ、宮川下は舟川、中河原、入道湊まで、富士川のおまた川流れ合い落つ。東は瀬古川、滝川、比奈川、沼川、三つ又の渕と成り、その深き事、数丈にして、広き渕と成り、悪霊住む。
※ 三つ又の渕 - 田子の浦港(静岡県富士市)の奥、沼川と和田川(生贄川)が合流する場所を「三股淵」といった。竜蛇が住まい、少女を生贄として捧げていた、という伝説がある。「生贄淵」とも呼ばれた。


(三つ又の渕)

この段は、「三つ又の渕」を地理的に案内する部分であるが、興味深いのは、岩渕山から水神の森まで尾根続きで、富士川の本流はそれに阻まれて、現在より東へ流れていたことである。水神の森は、そのすぐ下に旧国道1号線富士川橋が掛かっているところである。ここでも、大井川における天正の瀬替えに似た工事が成されたようで、「田子乃古道」にも、この後にその経緯に触れられている。

年々所の祭りとして、人身御供を備えしなり。生贄の蛇を富士の御池と作る。この蛇の記云うに、大日本国駿州富士郡下方の郷、鱗蛇里の御池にして、生贄の少女を備え奉ると作る
※ 作る - こゝでは書物などを著す意か? 「著作」の「作」。

また一説に、関東より上京の神子(みこ)七人連れにて来りしを、この前の祭礼に留められて、七人の内、若き娘壱人、おあぢという神子、御供(ごくう)御くじに当り、哀れ備えらるゝに定まる。六人の神子、上京出来難く、関東へ帰るとて、柏原まで帰り来る。壱人を捨て帰るも詮なしと思い、浮島の湖へ身を隠し死するも、また哀れあり。所の民、急き揚げて介抱すといえども、活きなし。壱所に土中に埋めて碑(いしぶみ)す。その明日、生贄の供え物おあぢ、富士浅間の御神力にや、命助かり、悪霊もこれより鎮まりしとかや。右の六人のあり様を聞きて、これも同じく死す。
※ 御くじに当り - 運試しと気軽に引く神社のおみくじであるが、往昔は命を賭けた真剣なくじもあった。
※ 浮島の湖 - 鈴川海岸の砂山と愛鷹山に囲まれて、赤渕川、須津川、沼川などが縦横に流れる一帯は、往昔は湿地帯で幾つかの沼が点在し、雨が続くと一面に沼と化す、水捌けの悪い地域であった。その後、石水門や昭和放水路が出来て水捌けが改善され、一面に田園地帯となった。
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